明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

パラレルワールドの「僕」と「俺」の2つの人生を体験できる『君を愛したひとりの僕へ』『僕が愛したすべての君へ』感想

 

 

 

シュタインズ・ゲートの功績として「世界線」という言葉を世の中に定着させたことがあります。

シュタゲ以前にもパラレルワールドのアイデアを用いたSFはいくらでもあったわけですが、この「世界線」という概念を多くの人が理解したことでこの手のSFの解説がしやすくなりました。

これから紹介する『君を愛したひとりの僕へ』『僕が愛したすべての君へ』も、同じ主人公の別々の「世界線」の人生を描いた物語になっています。どちらか1冊だけでも楽しめますが、やはり2冊セットで読んだほうがより楽しめます。片方がもう一方の内容を補完する内容になっているからです。

 

読む順番はどちらからでもいいと思いますが、個人的には『君を愛したひとりの僕へ』を先に読むのがおすすめです。というのは、こちらのほうが悲しい世界線で、より幸せな『僕が愛したすべての君へ』の舞台裏のようなストーリーだからです。一人称が「俺」の主人公が大切に思っていたヒロインの栞は主人公の行動によりある不幸に見舞われてしまい、それを解決するためにこの世界線での幸せをすべて犠牲にして奮闘する、という物語になっています。

 

ヒロインを不幸に突き落としてしまう原因は、この小説世界特有の「パラレル・シフト」という現象です。これは、少し離れた平行世界に意識だけが移動する、という現象です。移動した世界の先の自分の意識は元の世界の自分と入れ替わることになります。

実はこの世界では近い世界へのパラレル・シフトは割とひんぱんに起こっています。近い世界線では元の世界線とはほとんど変わらないので、それでも特に困ることなく生活できるのですが、このシフトの距離が遠くなればなるほど元の世界とのズレも大きくなっていきます。

 

そして、このパラレル・シフト現象を解明する「虚質科学」が発展することによって、このパラレル・シフトを人為的に起こすことも可能になってきます。主人公とヒロインの栞は互いに淡い恋心を抱いていますが、互いの両親が結婚することになったため、この世界ではもう結ばれないと将来を悲観します。

そこで、二人が兄弟にならない世界へ飛ぼうと主人公が起こしたパラレル・シフトによって、逆に悲劇的な結果を招いてしまいます。この悲劇を回避するために、生涯をかけて虚質科学の研究に打ち込み、やがて主人公は人生を変えるためある決意をする──というのが『君を愛したひとりの僕へ』のストーリーとなります。これは悲壮なまでの決断です。ヒロインを救うために犠牲にしなくてはいけないものが、あまりにも重い。

 

一方、『君を愛したひとりの僕へ』の主人公の努力が反映された世界が『僕が愛したすべての君へ』の世界になります。こちらの世界のヒロインは『君を愛した一人の僕へ』とは別人の和音ですが、和音は『君を愛した一人の僕へ』の世界でも重要な役割を果たしています。和音は主人公との関わり方は違うとはいえ、虚質科学の研究者でありどの並行世界にいっても重要な存在になるというあたりはシュタゲの牧瀬紅莉栖とも似ています。性格はかなり異なりますが。

 

『僕が愛したすべての君へ』のストーリーはこの和音との恋愛が中心となりますが、こちらの世界では平行世界における「自分」とは何なのか、というある種哲学的なテーマもはらんでいます。

先に述べたように、この世界では近い世界へのパラレル・シフトは日常的に起こっています。では、少し離れた世界の自分もこの自分と同一人物と言えるのか?離れた世界の和音をこの世界の和音と同じように愛せるのか?という問いが、主人公には突きつけられます。パラレル・シフトの存在が知られてしまったがゆえに起きる悩みです。この悩みにどう答えを出すのか、ということが、この小説の読みどころの一つとなっています。

 

全体的には幸せな世界である『僕が愛したすべての君へ』なのですが、後半ではあるショッキングな事件も起こります。詳細は書きませんが、少し離れた世界でも、この世界では起きない悲劇が起きている可能性がある。今ある幸せというのはとても儚いものであって、別の世界の可能性を知らないからこそ成り立っているのだ、という世界観がここでは示されます。

世界には無限の可能性があって、今生きている世界はそのひとつであるに過ぎない。フィクションの話とはいえ、このストーリーはどこかこちらの幸福感を揺さぶってくるものがあります。ほんの少し離れた並行世界でも今悩んでいることはなかったことになっていて、また別のことで悩んでいるかもしれない。この世界が唯一の世界でないことを知ってしまうことで、いろいろな葛藤が起きます。ましてや実際に平行世界に移動可能となると苦悩もより深くなる。人間は平行世界の存在なんて知らないほうが幸せだったのではないか、とすら思えてきます。

 

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実際、こちらの選択次第でもっと別の世界を生きることができたんじゃないか、なんてことを本気で考えていると怖くなってくるんですよね。今生きている世界が唯一のものならなんとか受け入れていくしかないけれど、無限に平行世界が存在するということになると、今生きてるルートがバッドルートなんじゃないか、なんて妄想にも取り憑かれる。実際、『君を愛したひとりの僕へ』はバッドルートに入った運命を変えるために狂気ともいえるほどの執念をみせてくれているのだけれども。

 

この『僕が愛したすべての君へ』のラストシーンは『君を愛したひとりの僕へ』を読んでいればすべて納得できますし、こちらを先に読んでいれば少し不思議な余韻の残る読後感になります。私は『僕が愛したすべての君へ』の方を先に読みましたが、こっちをあとにすれば良かったかな……と思いました。これを先に読むと『君を愛したひとりの僕へ』のほうが謎解き編ということになります。それはそれで面白いですが。

 

 平行世界のアイデアがあって成り立っている作品なのでジャンルとしてはSFでしょうが、どちらもヒロインへの強い想いがストーリーの根幹となっているのでラブストーリーとしても読めます。切ない系の話が読みたい方には強くオススメ。割と万人受けしそうなのでいずれアニメ化なり映画化なりして欲しい。

講談社『興亡の世界史』シリーズのおすすめの巻を紹介してみる

なにか面白い世界史の本ってないの?という方におすすめしたいのが、講談社の『興亡の世界史』シリーズです。これはなかなか意欲的なシリーズで、世界史本によくあるイギリスやドイツ、中国と言った国ごとの単位で歴史を見るのではなく、もっと広い視野で国同士や民族の関わりを描き、巨大な歴史のうねりを体感できる内容になっています。

 

最近は文庫化もされていて手に取りやすくなっているので、このシリーズで今まで読んだ卷の内容について一通り解説してみます。といっても7巻分だけですが、今後の読書計画の参考までにどうぞ。

 

 

 1.アレクサンドロスの征服と神話

 

 

この中でどれか1冊だけに絞るなら間違いなくこれ。私は大腸の手術で入院するときにこれを持っていきましたが、再読に耐える本で一週間の入院期間中に何度も読み返しました。

 

本書はアレクサンドロスを扱っていながら、彼の一代記にとどまらない広い視野を持つ内容になっています。ギリシアとペルシアの関係性やマケドニア史を丁寧に叙述し、アレクサンドロス登場以前の世界がどのようなものだったのかがわかりやすく解説されます。

特筆すべきは、アレクサンドロス父フィリッポスの業績がかなり詳しく書かれていることです。アレクサンドロスの率いていたマケドニアファランクスも、フィリッポスの軍事改革により生み出されたものでした。軍事面ではテッサリアトラキアを征服し、内政ではパンガイオン金山を開発し、征服した土地の住民を強制移住させて農地の開墾を進めるなどの手腕を発揮しています。コーエーSLGなら政治と戦争と智謀が全部90を超えるくらいの人です。

 

アレクサンドロスの業績は巨大ですが、それはあくまで父フィリッポスの築き上げた基盤の上に成り立っているものでした。フィリッポスの作り上げた世界最強の軍隊をもって、アレクサンドロスはペルシアへの東征を進めることになります。

その過程は省略しますが、本書では大王の東征の結果として起こったヘレニズム文化についても再考しています。このヘレニズムという概念はギリシア中心主義を内在させているという問題提起が本書では示され、ガンダーラ美術はアレクサンドロスの東征より400年近い隔たりがあるという事実を指摘し、あくまでギリシア、イラン、ローマの3つの文化によって成り立っているものであると説明されています。その意味で、本書はアレクサンドロスの「ギリシア文化の伝道者」としての姿に修正を迫るものでもあります。

 

個人的に一番興味を惹かれたのが、ギリシア文化の最東端となったアイ・ハヌムの遺跡。バクトリアではギリシア文化は地元に根づいたものではなかったのではないかというのが著者の見解です。この遺跡もメソポタミア文化の影響が濃く、ギリシア文化一色というわけではありません。こういう点など、東西交渉史や中央アジア史に興味のある方にもおすすめしたい本です。

 

2.スキタイと匈奴 遊牧の文明 

 

 

 およそスケールの大きさという点で、遊牧民の活動を上回るものはあまりないでしょう

。本書は歴史というよりは考古学の話が多いですが、スキタイと匈奴という共通点の多い遊牧民の活躍を考古学から裏付けることで、世界史の醍醐味を存分に味あわせてくれます。

 

スキタイというと黒海の北方に住んでいたというイメージが強いですが、本書を読むと広義のスキタイ文化というものはもっとはるか広い地域に分布していたということがわかります。

スキタイ文化の起源はアルタイ山脈のあたりにあると言われていますが、この地域から出土する考古資料から、ヘロドトスの『歴史』に著されているのと同じ生活習慣をもった人々が黒海からはるか離れた土地に住んでいたことがわかります。文献史料が考古学に裏付けられるというのはたいへん面白い。

 

匈奴については知っていることも多かったですが、ここでも大事なのは考古学で、出土品によると匈奴の領域内でもどうやら農業が行われていたようです。とは言っても匈奴が農耕に従事していたのではなく、中国からさらってきた農民を強制的に働かせていたのだろうと推測されています。

遊牧だけでは生産が安定しないのでやはり農業も大事。でも匈奴は農耕民を見下しているので自分ではやらない、という推測がここでは成り立っています。少ない史料から想像力を駆使して匈奴の実像に迫るという愉しみがここにはあります。

 

匈奴は結局フン族になったのか?という部分の考察もけっこう詳しく、この問題や末期のローマ帝国史に興味がる方でも楽しく読める内容になっています。これを読んだ限りでは、匈奴がフンになったかどうかはまだ証明できないようです。

 

3.モンゴル帝国と長いその後

  

 

中央アジアの話がなぜか多い興亡の世界史シリーズですが、本書もその一冊。著者はモンゴル史が専門の杉山正明氏。杉山氏の特徴として、一部で「杉山節」といわれるほどの強力なモンゴル肯定の歴史叙述がありますが、本書でもその特徴は遺憾なく発揮されています。

本書ではモンゴル軍のロシア侵攻について詳しく書かれていますが、北東ルーシはモンゴル軍にとっては単に「駆け抜ける」ための地域でしかなく、キプチャク草原制圧のための「ついで」の侵攻に過ぎなかったと説明されています。

土地が痩せていて人口も少ないロシアはモンゴルにとって全く魅力的ではなく、大した旨味もないから間接支配で満足していたのだそうで、モンゴルの虐殺などというものはロシア愛国主義の作り出した創作にすぎない、とも書かれているのですが、ロシア史家から見ればこの点は異論もあることでしょう。その点については『ロシア・ロマノフ王朝の大地』を読めば、また別の視点からとらえることができます。

 

「その後」と書かれているだけあって、本書ではモンゴルがユーラシアの大部分を制覇した後の歴史についても触れられています。ティムールもチンギスの末裔の婿として振る舞わなければいけなかったし、ティムールの子孫が建設したムガル帝国の「ムガル」もモンゴル。そしてダイチン・グルン(大清帝国)もまたモンゴルの後継国家、という歴史観が示され、いかにモンゴルの影響力が巨大であったかが語られます。このあたりはモンゴル史家の面目躍如といったところでしょうか。

 

全体としてはモンゴル史というよりも遊牧民の文明論という色彩が強く、モンゴル史を学ぶための最初の一冊としては向いていませんが、世界史を遊牧民の側から見直したい方、杉山氏のファンの方なら楽しめる一冊だと思います。モンゴル史を一から知りたい方はこちらのほうがオススメ。

 

 

4.オスマン帝国500年の平和

 

  

私が子供の頃はまだ「オスマントルコ」だった記憶のあるオスマン帝国。どうして「トルコ」がなくなってしまったのかは、本書の冒頭を読むとわかります。オスマン帝国というのは多数の民族の混成体であって、トルコ人だけのものではなかったからです。

アナトリアオスマンが興ったころには、トルコ系やモンゴル系に加え、ビザンツ帝国の傭兵すら存在していました。この雑多な集団がバルカンに進出し、やがてビザンツ帝国を滅ぼして大国に成長する過程を一通り描いた後、オスマンの文化と帝国支配のしくみについて解説しています。

 

際立った特徴はありませんが、オスマン帝国の概説書として手堅い出来で、高校世界史程度の予備知識があれば読み進められる良書だと思います。著者の林佳世子氏は世界史リブレットから『スレイマン1世』を出す予定だそうですが、一体いつ出るのか。

 

5.ロシア・ロマノフ王朝の大地

  

 

ロシア史の通史ってあまり日本にはありませんよね?本書はこのようなタイトルですが、実際読んでみるとキエフ公国からソ連に至るまでのロシア史の通史でした。配分はロマノフ朝についての部分が一番多いですが、個人的にはロマノフ朝崩壊以後はいらなかったように思います。

 

国単位で歴史を切り分けないのがこのシリーズの魅力だと書きましたが、ロシアくらいの大国になると通史を書くだけで十分に「世界史」になります。その「世界史」とロシアとの関わりとして外せないのがモンゴルの侵攻と「タタールの軛」ですが、この出来事は先に紹介した『モンゴル帝国と長いその後』とは異なり、ロシアにとっては国土を徹底的に荒廃させたかなり重大な出来事だと書かれています。やはり歴史は片側だけから見てはいけないんでしょうね。

キエフの人口は大幅に減少し、交易路が断ち切られて経済が停滞し、手工業も大打撃を受けるなど、ロシア史家から見るとモンゴルの負の影響力は甚大のようです。このようにモンゴルによってロシア南部のステップ支配がこの地域を衰退させたため、権力の中心は北東部のモスクワに移ることになりました。こうして次のモスクワ・ロシア時代が始まることになり、その権力はロマノフ朝にも受け継がれます。

 

ロマノフ朝の部分がやはりメインなので、代々の皇帝の業績や人間像も詳しく知ることができます。ピョートルやエカチェリーナのような有名どころからパーヴェル帝やエリザヴェータのようなマイナーな皇帝までこれ一冊でおさえられます。中でもピョートルの存在感がとにかく凄い。もうこの人は怪物。伝統の破壊者という点では信長なんて比較にもならないレベル。

全体として文章が読みやすく、モンゴルの巻のように癖もないのでロシア史の概説として間違いのない一冊だと思います。著者の土肥恒之氏は世界史リブレットから『ピョートル大帝』も出していますが、こちらもコンパクトながら内容が濃いのでおすすめです。

  

 

 

6.シルクロード唐帝国

 

 

こういうタイトルですが、中身はソグド人三昧。ソグドは凄い、という主張に尽きる一冊。いいですね、こういう徹底的に著者が言いたいことを語り倒す本は好きです。もっとも、読者がどこまでついていけるかは疑問なのですが。

 

モンゴル帝国と長いその後』もそうでしたが、本書も中央アジアの視点から歴史を見直す、という趣があります。唐という大帝国だって最初は突厥に圧迫されていた。その突厥で外交に軍事に活躍していたのがソグドだから、ソグドは凄い。シルクロードの交易を担っていたのもソグドだから、やっぱりソグドは凄い。そして唐に反旗を翻した安禄山もソグドの血を引いているからソグドパワーは凄い。そんなことが書かれている本です。ソグドが好きな方ならたまらない一冊でしょうね。

 

一方、本書を「唐とシルクロード」という言葉から連想される西域趣味というか、歴史のロマン的なものを求めて読むと少々当てが外れてしまうかもしれません。ソグドがこの時代における極めて重要な存在だったことは間違いないのですが、奴隷売買文書に一章割くなどむしろ専門書に近いような内容もあり、これを概説書として勧めるのは少々戸惑うところもあります。中央アジア史やソグド人に興味のある方には間違いなくおすすめですが、そうでない方にはちょっと敷居は高いかもしれません。

 

 7.通商国家カルタゴ

 

   

カルタゴと言えばハンニバルハンニバルと言えばポエニ戦争。そんなイメージってありませんか?そういうイメージがあるのは結局、カルタゴという国はローマのライバルとして語られてきたからです。

本書でも対ローマ戦争やハンニバルの活躍にも十分にページを割いていますし、その部分は戦記としても楽しめるわけですが、この点についてはローマ人の物語の『ハンニバル戦記』などでもかなり語られてきたところなので、あえてそこを求めて本書を買う必要もないかな、とは思います。

 

それよりも、本書の価値はむしろ前半にあります。カルタゴという国はもともとフェニキアの都市テュロスの建設した植民都市ですが、本書ではテュロス時代からのカルタゴの歴史が詳述されています。

地中海文明というと、私達が想像するのは主にギリシャやローマですが、そもそも地中海の歴史はメソポタミアやエジプトの影響を受けながら東方から開けたものです。本書ではカルタゴの歴史を通じて、ギリシャやローマの影に半ば隠れてしまっているフェニキア人の活動を活写します。したたかな商人であり、ハンノのアフリカ探検に見られるように優れた航海技術も持っていたカルタゴの姿を、少ない史料から浮かび上がらせるよう最大限の努力が払われています。

 

カルタゴでは幼い子供を生贄に捧げる儀式が存在したと言われるとおり、現代人から見たカルタゴのイメージはあまり良いものではありません。ですが、こうしたカルタゴ像の多くが結局ローマ側からもたらされたものです。本書ではそうしたカルタゴのイメージを完全に覆しているわけではないものの、ギリシャやローマの影に半ば隠れてしまっているフェニキア史の一部としてカルタゴの姿を浮かび上がらせることに成功しています。

全体として文章も読みやすく、世界史のマイナーな部分に光を当てた好著だと思います。個人的には最初に挙げた『アレクサンドロスの征服と神話』に並ぶ面白さだと感じました。興亡の世界史シリーズの中でも特に推奨したい一冊です。

 

8.大英帝国という経験

 

興亡の世界史 大英帝国という経験 (講談社学術文庫)

興亡の世界史 大英帝国という経験 (講談社学術文庫)

 

 

大英帝国、近代イギリス史を知る最初の一冊としてはおすすめできませんが、この時代についての一通りの知識があるならかなりおすすめできる本です。政治史よりも社会氏に重点が置かれていて、イギリス本国よりもスコットランドアイルランド南アフリカ戦争や奴隷解放、植民地や移民、そしてレディ・トラベラーなど、帝国の周縁や虐げられた人々にスポットが当てられているため、大英帝国という国家を多角的に理解することができます。

大英帝国のなかのカナダという地域に言及している本は少ないので、これを書いてくれている本書はそれだけでも価値があります。ヴィクトリア時代に関心をもつ方には文句なしにおすすめできる一冊です。

この本の内容についてはこちらでくわしく紹介しています。

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小姓の視点から中世ヨーロッパの城の生活を体験できる『中世の城日誌―少年トビアス、小姓になる』

 

岩波ジュニア新書なんかを読んでいてもよく思うことですが、児童書というものをナメてはいけません。この手の本は多くは専門家が書いていて、子供だましどころか子供向けであるがゆえに内容がわかりやすく、それでいて高度な内容がさりげなく詰め込まれていたりするものです。

 

中世の城日誌―少年トビアス、小姓になる (大型絵本)

中世の城日誌―少年トビアス、小姓になる (大型絵本)

 

 

ここで紹介する『中世の城日誌―少年トビアス、小姓になる』もそんな一冊。

これは絵本なんですが、騎士の叔父上に小姓として使えることになった少年トビアスの視点から、中世の城の生活を詳しく知ることができます。

 

この生活の様子というのがかなり多岐にわたっていて、給仕の仕事からイノシシ狩りの様子、パン作りの現場や宴席での旅芸人の歌や踊りなど、かなり詳しく書かれています。城の中だけでなく麦の刈り入れの手伝いや密猟者との出会い、牢に入れられる友人の話など、なかなかシビアな部分にも触れられています。

ビアスが病気で倒れて医師に治療してもらう場面などもあります。中世なので治療法は放血。「地と火がこの子の体の支配権を巡って争っている」という医師の台詞がファンタジー感満載。そのまま小説に使いたいくらい。

 

よく「SFは絵」だなんて言いますが、私は歴史こそ絵だと思っています。

こういうものはビジュアルが鮮明であることが大事。その点、絵本なら全部イラストがついてるから文章の理解度が200%増し。ただ眺めているだけでも楽しいのでお子様にもオススメ、というかそもそも子供向けなのですが、内容の濃さから文句なしに大人にも進められる絵本だと思います。

 

創作という点から見ると、これはファンタジーの設定作りのためにも大いに役立つ一冊となります。例えば、本書では竹馬が中世のイギリスでは「長脛王遊び」と言われていたと書かれています。長脛王(ロング・シャンクス)とは『ブレイブハート』でも有名なエドワード1世のことですが、ただ竹馬と書くよりもこういう独自の言葉で表現したほうが雰囲気が出ると思いませんか?

 

個人的にお気に入りなのが豚を殺してベーコンを作る場面。豚の飼育係は、ドングリが一杯に入ったバケツに豚が顔を突っ込んでいるうちに、脳天にハンマーを一発ぶちかます。ひっくり返った豚の喉を素早く切り裂き、吹き出した血をバケツに入れる。この血はソーセージ作りに利用されます。

いつも優しく豚をなでてやっているのにどうしてそんなに残酷になれるのか、と訊くトビアスに対する豚係の回答はこれ。

 

豚は死んで俺たちを食わせてやれる日まで生きているだけのこった。それにな、なでてやるのは何も優しい気持ちからじゃないんだ。豚が幸せな気持ちでいてくれたほうが、うまいベーコンができるのさ!

 

こういうディテールもしっかり書き込むことによって、その世界に確かな生活臭を出すことができます。上橋菜穂子作品の質の高さはその世界の風俗や生活習慣まで作り込んでいるからですが、ああいうものを書くにはまずは下調べが肝心でしょうね。

 

基本は子供向けの絵本なので、城の政治的役割だとか荘園支配のしくみ、騎士の役割などといったところまでは本書ではわかりません。もっと踏み込んだところまで知りたい方には『中世ヨーロッパの城の生活』がおすすめです。

 

中世ヨーロッパの城の生活 (講談社学術文庫)

中世ヨーロッパの城の生活 (講談社学術文庫)

 

 

「貴方のこと、ここの常連にしてあげようか?」

気分が優れないので保健室を訪れ、しばらく養護教諭と話し込むうちに、彼女は突然そんなことを言い出した。少し戸惑いつつ私が周りを見回すと、素行が悪いことで知られていた生徒が壁際のベッドからのっそりと身を起こしたところだった。その様子を見て、私にもなんとなく今起きている事態が呑み込めてきた。

 

つまり、彼女は私があの生徒のように授業を抜け出してきて、一時の安らぎをこの場に求めてきたと思ったのだろう。ベッドに横たわっていた女子生徒はよく授業をさぼっている子だったが、彼女が足繁くこの場に通っていたことは容易に想像できる。私も彼女のようにしばしばここに通うようになると、私の顔色を見て判断したに違いない。

 

私は別にそういうつもりで来たわけではない、と言おうと口を開きかけたが、彼女が一方的に自分語りを始めたので、私は押し黙ってしまった。この人は、自分は私の仲間なのだと見せかけようとしている。顔の色艶もあまりよくないし、目元もどこか暗く、尖った顎のラインが神経質そうで養護教諭という言葉から連想される温かみからは程遠い人だったが、それでも馴れ馴れしく私に語りかける彼女は、どうやら生徒思いのいい先生のつもりらしかった。

 

「貴方は石川達三って知ってる?私が高校時代、その人の小説をよく読んでたのね」

 

そう話を振られても私は困ってしまう。そんな昔の作家の小説なんて私は読んだことがないし、仮に読んでいたとしても彼女と文学の話なんてする気はさらさらないのだ。私はちょっと具合が悪かっただけで、この場の常連などになるつもりはなかったのだから。

 

その後、彼女が何を話したのかはよく覚えていない。彼女に大した興味もなかったので、言葉が全て意識を上滑りしてしまったのだろう。保健室を去る時には、妙な徒労感だけが肩に降り積もっていた。養護教諭が私を「救いを求めに来た生徒」という枠に押し込めて得々と自分語りを続け、自分は優しく生徒を包み込む良い先生だと思い込みたかっただけなのだと思うと、なんだか利用されたようで妙に腹立たしかった。もう二度とあの保健室の扉をくぐることはないだろう、とその時は思った。

 

月日は流れて、私は国立大学に進学し、やがて就職活動の時期を迎えた。面接対策のマニュアルを読み、数多くの企業を訪問するうち、社会人になるとは社会人という器に自分を嵌め込むことなのだ、と次第に悟るようになった。またいつものように面接に落ち、肩を落としてアパートに帰ったある日、テレビをつけるとこんな寓話が放映されていた。

 

「昔々、あるところにとても顔の怖い王様がいました。王様は美しい王妃をめとることになりましたが、彼女を怖がらせないよう、優しい顔の仮面をかぶることにしました。二人はしばらく幸せに暮らしましたが、王様は王妃様をだましていることに耐えられなくなり、ある日思い切って仮面を外すことにしました。するとどういうことでしょう、仮面の下から現れた素顔も、すっかり優しい顔に変わっていたのです」

 

この話を聞いたとき、私の頭の中を電光が貫くような感覚を味わった。あの養護教諭の顔が、ありありと脳内に蘇ってきた。彼女は優しい先生という自己像に酔いたかったのではなく、養護教諭にふさわしい、優しい顔の仮面をかぶろうとしていたのではないのか。若く未熟な私は、それを見抜けなかった。彼女はどこまでも自己の職務に忠実であろうとしていただけだったのだ。

高校生との会話に石川達三を持ち出すような彼女は不器用な人に決まっている。彼女はただ不器用で、上手く優しい先生を演じきれていなかっただけだ。でも、演じようとしていただけで十分なはずだ。王妃のために優しい仮面をかぶろうとしていた王様は、その時点で優しい人だったのだから。

 

ようやく就職が決まり、卒業を間近に控えて時間に余裕のできた私は、ふと石川達三の『青春の蹉跌』を手にとってみた。とても生真面目な小説だった。こういうものを好んでいた彼女もまた、生真面目な人だったのだろう。生真面目で不器用な彼女は、生真面目に生徒の望む養護教諭であり続けようとしていた。あの顔色の悪さも目元の暗さも、そのストレスの現れだったのかもしれない。

 

日々保健室を訪れる生徒たちは彼女の前で悩みを吐露できても、養護教諭である彼女はどこにも苦しみを吐き出す場所がない。であるなら、私もあの時、もう少し真剣に彼女の自分語りを聞くべきだっただろうか。石川達三をあの頃読んでいればもう少し話も弾み、彼女の気も晴れていたかもしれないが、こういう洞察はいつだって遅れてやってくるものなのだ。

 

青春の蹉跌 (新潮文庫)

青春の蹉跌 (新潮文庫)

 

 

『バッタを倒しにアフリカへ』と「やりたいこと」という呪い

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バッタを倒しにアフリカへ (光文社新書)

バッタを倒しにアフリカへ (光文社新書)

 

 

もうだいぶ前から評判になっているので手にとってみたが、たしかにこれは一度読みだしたらやめられない本だ。日本とは全く異なるモーリタニアの生活習慣も興味深いし、バッタの孤独相と群生相の違いなど、他では得られない知識も得られる。何より、クライマックスで「神の罰」と言われるバッタの大群と著者が対峙するシーンは感動的だ。およそバッタにもアフリカにも興味がない読者でも、間違いなく楽しめる一冊だと思う。

d.hatena.ne.jp

しかしながら、こちらのエントリを読んだあとに改めて本書を読んでみると、そこで浮かび上がってくるのは「やりたいことと稼ぐことを一致させる困難さ」だった。著者の前野ウルド浩太朗さんは、心の底からバッタが好きだ。どれくらい好きかというと、「バッタに食べられたい」と考えるほどに好きなのだ。

 

小学生の頃に読んだ科学雑誌の記事で、外国で大発生したバッタを見学していた 女性観光客がバッタの大群に巻き込まれ、緑色の服を喰われてしまったことを知った。バッタに恐怖を覚えると同時に、その女性を羨ましく思った。その頃、『ファーブル昆虫記』に感銘を受け、将来は昆虫学者になろうと心に誓っていたため、虫にたかれるのが羨ましくてしかたなかったのだ。

 

バッタが好きすぎてバッタに触るとアレルギーが出るまでになった著者なのだが、残念ながら日本ではバッタ研究の需要は少ない。日本にはバッタの被害がほとんど存在しないためだ。この国に住んでいては、バッタ研究で食べていくのは至難の業になる。プロゲーマー・ウメハラも語っているように、好きなことがあることがかえって「呪い」になってしまうのだ。

 

saavedra.hatenablog.com

プロゲーマーという職業が存在し、ゲーム実況をするユーチューバーがたくさん存在する現在とは違い、ゲームセンターで腕前を競うことが全てだった少年時代のウメハラにとっては、人生で一番打ち込めることが格ゲーだったというのは「呪い」だったに違いない。世界チャンピオンになるほどの腕を持っていても、その道を極めた先に富も名声も得られないような時代を彼は生きてきたのだから、こう考えるのは当然のことだ。

 

やりたいことの度合いが強ければ強いほど、それで稼げないのは不幸だ。バッタに食べられたい、というほどにバッタが好きなら、他の仕事で稼ぎつつ趣味でバッタ研究をする程度で満足できるはずがない。前野さんはあくまで研究者なのだ。そして研究者として大成するために、前野さんはモーリタニアへ旅立つ。バッタが猛威を振るう現場に赴かなければ、優れた研究者にはなれないと考えたからだ。ところがこの決断が、かえって彼の将来に危機を呼び込むことになってしまう。

 

唇はキスのためではなく、悔しさを噛みしめるためにあることを知った32歳の冬。少年の頃からの夢を追った代償は、無収入だった。研究費と生活費が保証された2年間が終わろうとしているのに、来年度以降の収入源が決まっていなかった。金がなければ研究は続けられない。冷や飯を食うどころか、おまんまの食い上げだ。昆虫学者への道が、今、しめやかに閉ざされようとしていた。

 

ろくに言葉も通じないアフリカで通訳やドライバーを雇い、サソリのうろつく砂漠を必死で探し回っても、前野さんはバッタの大群に遭遇することはできなかった。夢破れて帰国したあと、彼は無収入になってしまう。しかし、この無収入であるということが、後に大きな武器となる。

 

 収入源を探していた前野さんが目をつけたのが、京都大学白眉プロジェクトだ。若手研究者の育成を目的としているこのプロジェクトでは、5年間の任期で給料が得られ、しかも研究費も支給される。授業も一切やらなくていい。バッタ研究に専念したい前野さんにとっては渡りに船のプロジェクトだ。

このプロジェクトの面接では、かえって無収入であることがアピール材料になった。収入を失ってまでアフリカに行こうという熱意こそが、本気の証明になったからだ。最終面接に文字通り眉毛を白く塗って臨んだ前野さんは、京大総長から直々に感謝の言葉までもらうことになる。この場面はとても感動的だ。世の中何が幸いするかわからない。

 

こうして見事に「好きを仕事に」することに成功した前野さんなのだが、彼の体験談を「好きを極めれば成功できる」という美談にまとめ上げることができるとは、自分には思えなかった。むしろ、バッタ研究のような好きなことと稼げることの共通部分が少ないジャンルだと、研究者として生きて行くにはこれほどまでの困難が伴うのだ、という教訓として本書を読むことができるのではないかと思う。好きな道を征くことには覚悟が求められるのだ。

 

今「好きを仕事に」と言っている人の多くは、結局セミナーなどでそう言い続けることで食べている人が多いのではないかと思う。要はただのポジショントークだ。あるいは、たまたまそうすることに成功した人もこういうメッセージを発する。しかし、一人の成功者の影にはその何百倍もの失敗者がいることは語られない。自己啓発書はすべて成功者が書いているから、そういうものばかり読んでいたら生存者バイアスにどっぷり浸かることになる。

 

そういう意味で、この『バッタを倒しにアフリカへ』は、「成功者」にはなったものの、好きなことと稼ぐことを両立させるための極めて危険な綱渡りを余すところなく語った体験談として、とても貴重なものだと思う。本書には「好きを仕事に」という綺麗事は一切出てこない。書かれているのはアフリカでのひたすらに泥臭い著者の奮闘と、ときに笑える現地でのトラブルだ。こういう目に遭っても悔いがないという人しか、夢は追ってはいけないのかもしれない。夢への入り口で覚悟の足りない者を追い返すのも、それはそれで優しさだ。著者の意図したところかはわからないが、本書はそんな優しさに満ちている。

 

 

漫画志望者は必読。そうでない人が読んでも圧倒的に面白い『荒木飛呂彦の漫画術』

 

荒木飛呂彦の漫画術 (集英社新書)

荒木飛呂彦の漫画術 (集英社新書)

 

恐ろしいものの片鱗を味わったぜ…

これは凄い。無駄な箇所が一行たりとも存在しない。頭のてっぺんから尻尾の先まであんこがぎっしり詰まってる。いやむしろあんこしかない。こんなにも濃厚なノウハウ書なんてそうそう読めるもんじゃない。これは一流の漫画の指南書であると同時に、上質なエンターテイメントでもあります。下手なエンタメ小説を読むよりよっぽど面白い。

 

何しろ荒木飛呂彦が自作を解説しながら漫画のノウハウを手取り足取り教えてくれるんだから、これは面白くないわけがないんです。読者を引きつけるコツからジョジョの創作の舞台裏、キャラの作り方から魅力的な絵の描き方に至るまで、新書一冊でここまで充実した内容はちょっと他に例がない。荒木飛呂彦ファン、ジョジョ好きの人になら間違いなくオススメだし、そうでなくともおよそ創作というものに興味のある方ならまず読んで損はありません。

 

まず手にとってもらえなければ話にならない

 荒木さんは16歳のとき、同い年のゆでたまご先生がデビューしたことで衝撃を受けます。せいぜい最終選考に残る程度だった荒木さんはこのときから、どうすればプロになれるのかを真剣に考えるようになります。

そこでまず気をつけないといけないのは「編集者に最初のページをめくらせること」。

当時は漫画志望者から原稿を受け取ると、袋からちょっと出しただけでもう見てくれない編集者がいくらでもいたのです。そんな仕打ちを受け、順番待ちをしている荒木さんの目の前で泣いている人すらいました。そんな目にあわないためには、まずどうにかして原稿を読んでもらうところまで持っていかなければならない。

 

だから、1ページ目の絵柄は最大限の注意を払わなくてはいけません。どんな絵なら見てもらえるのか?きれいな絵や不気味な絵、エロい絵や逆に下手な絵など多くの例が挙げられていますが、ここでは例として荒木さんのデビュー作の『武装ポーカー』の絵も挙げられています。これは必見。

 

この最初のコマでは、5W1Hが入っていることが基本だと書かれています。そして、「複数の情報を同時に示す」ことも重要。主人公の台詞や髪型、服装などからその人物の性格や収入、独身かどうかなど、多くの情報が伝わってくることが大事であると説かれています。まずここで他作品と差をつけないと、評価すらしてもらえない。

 

漫画の基本四大構造とは何か?

 

まず読者を引きつける方法を学んだら、ここからいよいよ本題に入ります。荒木さんの考える「漫画の基本四大構造」は以下の4つ。この4つの要素から漫画は構成されています。

 

1.キャラクター

2.ストーリー

3.世界観

4.テーマ

 

これは重要な順番に並んでいます。つまり、キャラクターが一番大事だということです。実際、キャラクターさえ描ければ漫画は描けると主張する人もいます。ただし本書ではこの4つの要素のバランスをとることが大事であると説かれ、どれかひとつだけが突出した作品は限界があるとも書かれています。

 

面白いのが、『孤独のグルメ』をこの4つの要素で分析してみせている部分です。井之頭五郎というキャラの立った主人公がいて、ストーリーはないようで実はデザートからメインディッシュに至る食事の流れがきちんと起承転結になっている。「一人で食事を楽しむ」というテーマも明確であるなど、やはり名作と言われる作品は各要素のバランスが取れているのです。これから何かの作品を鑑賞するときも、この4つの要素に分解してみることで多くのことが学べると思います。

 

魅力的なキャラを作るための「身上調査書」

 

 漫画の4要素のうちもっとも重要なキャラクターをどう作るか。荒木さんはキャラの絵を描く前に、必ず「身上調査書」を作ることにしています。ここでは年齢と性別からはじまり、身長と体重はもちろん趣味や特技、将来の夢から家族関係など、全60項目にわたる詳細なプロフィールを書き込みます。キャラを立たせるにはここまでやるのがプロ。

 

ここでいちばん大事なのが「動機」だと荒木さんはいいます。キャラを考える上ではまず性格よりも、どんな目的でストーリーに参加しているかが重要。そして、少年漫画で読者を一番惹きつける動機はやはり「勇気」。何かに立ち向かっている人物は普遍的な魅力があります。でもただひたすら正しい人間だと偽善的になるので、時には人間的な弱さも加味する必要がある。身上調査書には「弱点」も必要であるとも書かれています。そうでなければ読者が感情移入できるキャラクターにはならない。

 

そして、敵キャラには内に秘められている醜い欲望を体現させる必要があります。誰もが持っている後ろめたい感情を解放させるからこそ、魅力的な悪のキャラクターができあがります。ディオが圧倒的に人気があるのはまさに「俺たちにできないことを平然とやってのける」からなのですが、このことをディオの生みの親である荒木さんに解説されると異常なほどの説得力があります。

 

少年漫画のストーリーは常にプラスへと向かわなくてはならない

本書では、エンターテイメント作品ではストーリーが常にプラスへと向かい、主人公は「上がって」いかなくてはいけないと解説されています。ジョナサンがディオに愛犬を殺されたりするようなマイナスが初期にあったとしても、状況は時間の経過とともにプラスにならないといけないし、主人公はだんだん強くならないといけない。

主人公が停滞したり悩んだりするようなことは基本、良くないことだと書かれています。物語のスパイスとして一時的に苦境に陥ることがあっても、それはあまり長引かせては読者の気持がマイナスになってしまうので駄目。一例として「キック・アスジャスティス・フォーエバー」のように、主人公が一度普通の女の子に戻るような展開は物語を盛り下げるだけ、とも解説されています。

 

この視点から見ると、いろいろと言われていた『異世界はスマートフォンとともに』だって、主人公がどんどん強くなって女の子に次々とモテていっているし、その意味ではちゃんと少年漫画の王道にのっとってはいるわけなんですよね。エヴァンゲリオンはあえて終盤でシンジの内面の葛藤を描いて話題を呼びましたが、王道をあえて壊すことで読者を惹きつけるのはかなりの冒険になるのだろうと思います。あれをやらなければエヴァは社会現象になることはなく、普通の面白いロボットアニメで終わっていたんでしょうから、時には冒険することも必要かもしれませんが。

 

エンターテイメントに現実を持ち込んではならない

 実際、主人公の状況がどんどん好転していくなんて現実にはありえないことです。でも、そのありえないことを描くのがエンターテイメントなんだ、と荒木さんは主張します。これは全く同意です。

よく、「こんな冴えない男が可愛い女の子にモテるなんてご都合主義じゃないか」という人がいます。でも、そういう現実ではありえないことを実現できるからこそ漫画は楽しいんです。ひたすらリアリティを追求するなら、それはエンタメではなく純文学になってしまいます。『王立宇宙軍』のシロツグはかっこよくリイクニを助けられたりしないからこそあの作品には価値があるのかもしれませんが、エンタメとして見るならカタルシスは足りません。作者は読者を楽しませないといけないのです。

 

以前、「ヒットしない作品は往々にして俺TUEEEではなく作者TUEEEをやってしまっているのだ」という話を聞いたことがあります。これがリアリティだ!と情け容赦ない現実を読者に突きつけていくスタイルは、作者の傲慢というものなのかもしれません。あれだけ過酷なブラジルのスラム街を描いている『シティ・オブ・ゴッド』だって、最後にはちゃんと救いが用意されているわけですし。

「自分のアタマで考える」ためにこそ「地図」が必要

本書の内容について、私にも全く異論がないわけではありません。ストーリーが常にプラスに向かわなくてはいけないという部分についても本当にそうだろうか?と思いますし、要所要所で語られる映画作品についての見解も、必ずしも同意できないものもありました。

ですが、ずっと漫画の第一線を生き抜いてきた人の見解として、創作を志すならまず本書の内容は知っておく必要があるだろう、と思いました。もちろん、「自分のアタマで考える」ことは大事です。でもまったく手探りの状態でゼロから考えるよりは、まずは偉大な先達の思考法を知り、その上で自分のアタマで考えるほうがずっと効率も良いし、得られるものも多いはず。

 

荒木さんはあとがきの中で、この本は「漫画を描くための様々な道が記された地図にしたかった」と書いています。漫画家としてどういう方向性を目指すにしろ、まずは手がかりとなるものが必要。本書は漫画家を目指す人のための、力強い羅針盤となってくれます。もちろんそんなことを考えずとも、ただ暇つぶしのために読んだとしても面白い一冊です。暇つぶしで終えるつもりが、思わず漫画を描きたくなるなんて副作用までついてくるかもしれませんが。

「黄金の道」とは、さらに発展していくための道。今いるところから、先へ行くための道です。「自分はどこへ行くのか?」を探すための道とも言えます。

ですから、変なことを言うようですが、この『漫画術』に書いてある通りに漫画を描いてはいけないのです。僕が「黄金の道」として書いたことをそのまま実践しても、そこに発展はありません。

この『漫画術』を土台にして、さらなる新しい漫画や、パワーアップした漫画、あるいは全く違っていたり、とてつもなく正反対の、この本を無視した漫画でもいいでしょう。そういったものを皆さんに生み出して欲しいと思って書いた本なのです。(p280)

  

「おんな城主直虎」が変えたもの、変えなかったもの

今回の「おんな城主直虎」はついに徳川家最大の黒歴史、信康事件を主題に取り上げてきた。ドラマ中では信康は賢く、家臣からの信頼も厚い名君として描かれている。従五位の下の位を与えるという信長の申し出も徳川家に不和を招き寄せるための策だと即座に見抜き、辞退する慎重さも見せた。もしここで信康が官位を受け入れていたら、朝廷から官位をもらった義経と同じような立場になっていただろう。

 

しかし、信長の周到さは信康の更に上を行っていた。信康は大人しく信長の手駒になるような男ではないと見るや、今度は難癖をつけて排除してしまおうというのだ。海老蔵演じる信長は声こそ荒らげないものの、いやだからこそかえって異様な迫力を醸し出している。洋装に身を包み這いつくばる酒井忠次を見下ろす信長の姿は魔王そのものだ。

 

「おんな城主直虎」は、今まで数々の革新的なドラマ展開を行ってきた。徳政令という地味なテーマを前半のドラマの主軸に据え、瀬戸方久のような今までの大河ではあまり前面に出てこなかったような人物にも光を当てた。何より視聴者の度肝を抜いたのは小野政次の最期だ。井伊家伝記では悪役でしかない政次を隠れた忠臣として描いただけでも画期的だったのに、直虎自身の手でとどめを刺すという凄まじさは、中世という時代の残酷さを余すことなく描き出すという脚本家の覚悟を視聴者の胸に刻みこんだ。あのシーンがあっただけでも、このドラマは大河史上に残る名作になったと思っている。

 

たとえば「軍師勘兵衛」に見られたような、ある種の甘さはここには全く見られない。このドラマには官兵衛のように、戦のない平和な世を作るなどと言い出す者もいなければ、そんな夢を見ている者もいないのだ。いつ自分の命が取られるかわからない世界で、ただ皆が生き残るために必死で生きている。そのひりつくような緊張感が、このドラマを良い感じに引き締めている。国衆として井伊谷という小さな領地をどう切り盛りしていくかだけが、直虎の課題だった。これこそが戦国のリアルなのだ。天下国家のことなど射程に入れなくとも、優れたドラマ作りは可能だということを見せつけた本作は、大河の新境地を切り開くことに見事に成功している。

 

直虎の近親者が次々に命を奪われ、政次までが死に追い込まれるという容赦のない展開が続いたあとで、ようやく万千代の出世物語が始まった。今まで滅亡寸前にまで追い込まれた井伊家の運命を視聴者がつぶさに見ているからこそ、ここでカタルシスを得られる展開になってきている。しかしここに来て、このドラマは信康事件というさらに過酷な題材をぶち込んできた。このドラマは本当に読者を安心させてくれない。まるで脚本家が喉元に白刃を突きつけているかのようだ。この作品は視聴者の覚悟を試してくる。こちらもいい加減な気持で対峙するわけにはいかない。

 

これだけさまざまに挑戦的なことをしている「おんな城主直虎」なのだが、「魔王」としての信長のイメージだけは変えなかった。信長という人物は歴史学の世界ではかなりイメージが修正されていて、従来考えられていたのとは異なりむしろ保守的な部分も多かったのではないか、と指摘されることが多い。ここでは詳しく触れないが、信長軍の特徴とされる兵農分離も実際にはなかったと言われたりするし、天下布武の「天下」の示す範囲も機内だけを示していると最近は考えられているらしい。史実の信長の人物像は、ドラマ中で描かれているものとは隔たりがある。

 

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それでも、ドラマ中であえて従来通りの「魔王」的な信長像をここで出してきた理由は、それこそが徳川家に降りかかった災厄を描く上で効果的だったからだろう。中世という時代の残酷さ、理不尽さを描き尽くすために、世間に流通している信長のイメージを利用したのだ。これは視聴者におもねるためではない。あくまで脚本上の必要性からやっていることだ。

その証拠に、このドラマでは家康の母に信康を斬れ、とまで言わせている。いくら生きのびるためとはいえ愛する我が子を殺せということほど、現代人に理解しにくいものはない。それでも逃げずにこのシーンを描いたこのドラマは本当に凄い作品だと思う。

 

信康は賢すぎるため、信長の押し付けた理不尽を一身に背負う覚悟でいる。我が身を犠牲にして徳川家を救おうとしているのだ。そして、そんな人物であるからこそ、誰も信康は死なせたくない。家臣が次々と自分を斬れと訴える姿は、「自分がスパルタクスだ」と大勢が名乗り出た『スパルタクス』のラストシーンをも彷彿とさせる。こんなにも辛い別れはそうそう見られるものではない。

 

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今思えば、ここで予想していたようなことはすべて杞憂に終わった。直虎周辺の人間が次々と世を去ってしまうのは、中世の残酷さを描くために必要なことだった。そして、後の直政の雄飛の時代に至るまでの「溜め」を作るためにも、やはり井伊家の危機は描かなければいけなかったのだ。

 

これから先の歴史の展開は、史実を調べればわかることではある。だがこのドラマは最期まで気は抜けないだろう。今までの展開がこちらの予想をすべていい意味で裏切っているからだ。「視聴者の予想を裏切り、期待に応える」という、フィクションの理想の姿がここにはある。この画期的な作品の挑戦を、一視聴者として最後まで受け止めたい。