女はとかく外見を品評される。今は男だってそうかもしれない。大事なのは人格だと言ってみたところで、まず外見で切り捨てられたら人格で勝負のしようがない。自分はこんな顔だから女たちに相手にされない、そんな怨嗟の声はネットのそこら中にあふれている。男女が平等化するということは、男もまた女並みに容姿を求められるようになったということかもしれない。
それだけ、美醜というものは大きく人のありようを決定づけてしまう。
だからこそ、人の悩みを考える時にここを避けて通ることはできない。
そのことをよく理解していたためか、恆存の人生論はまず「美醜について」からはじまる。本書はもともと女性誌に連載されていたものなのだが、容姿について悩む女性はどう生きればいいのか、というところから恆存は語り始めている。
残酷なようだが、この問題への恆存の回答は「分相応に生きろ」だ。醜い者が美しいものと同様の扱いを世間に望んではいけない、そういうものと思って生きろ、と彼は言っている。
私の原理は大変簡単なもので、醜く生まれたものが美人同様の扱いを世間に望んではいけないということです。貧乏人に生まれたものが金持ちのように大事にされることを望んではいけないということです。不具者が健康人のように扱われぬからといって、世間を恨んではならぬということです。
身も蓋もないと言えばそれまでだ。もう少し言いようというものがあるのではないか、とは思う。しかしこれこそが世間の現実であって、ここで下手な理想論を語っても、後々現実とのギャップに苦しむだけだと恆存は考えていたのだと思う。
世の中にはいくら望んでもどうしようもないことがあるし、それは受け入れて生きていくしかないのだ。自分を望み通りに扱わない他人や世間を恨んでも不幸になるだけだ、と彼は言っている。
ある娘さんから聞いた話ですが、自分のクラスのものが二人、ある出版社の試験に応募した。ひとりはクラスで一番の成績を持った子で、もうひとりはたいしてできない子だったそうです。ところが、第一次の書類と写真の審査で、できる子のほうが落第で、できない子のほうがパスしてしまった。その子が美貌だったからです。(中略)その娘さんの言葉を借りれば、「社会が信用できない」というのです。
それでは困ります。若い時の理想主義、いやこの場合はむしろ世の中を甘く見た空想ともいうべきでしょうが、ひとたびそれが敗れると、今度は社会を呪うようになる。それがひがみでないと誰が言えましょうか。一見、正義の名による社会批判のようにみえても、それは自分を甘やかしてくれぬ社会への、復讐心にすぎないのです。
今の世の中で、こんなことを女性誌に書いたら批判が殺到するかもしれない。感想ツイートがtogetterにまとめられてブクマが300くらいつく図が容易に想像できる。保守派の論客というのは、往々にしてこういうところがある。世の中というのはそういうものなのだから文句を言ったって仕方がない、ですませてしまうのだ。
自分を美人と同様に扱えという貴方が甘えているのだ、というこの回答をそのまま肯定することは私にはできない。このような理不尽をそのまま認めていたのでは社会は進歩しないからだ。
しかし、恆存の生きていた時代ではこれこそが社会の現実であり、貴方はこの現実を生きていかなくてはいけないのだ、と恆存は考えていたのではないかと思う。動かしがたい現実を正義の名のもとに糾弾し続けても結局自分が傷つくだけなのだ、そんな辛い生き方を選ぶな、という諦観がそこには横たわっている。
では、外見のことは諦めるとして、あくまで内面で勝負すればいいのだろうか。
そのような考え方も、それはそれで不幸を生む元なのだと恆存は述べている。
そういうと、顔はまずくとも、心がけが一番大事だという人がある。私はそういうことをいっているのではありません。これはマイナスだが、他にプラスの点もある。そういう考え方で、自分を慰めようとしてはいけないのです。(中略)目をつぶっても、現実は消滅しっこない。むしろそれは無意識の領域にもぐりこんで、手のつけられぬ陰性のものと化しやすい。それはひがみであり、劣等感であります。
他にプラスがあるかどうかわかりはしません。ないかもしれない。努力してみても、それが身につかぬかもしれません。それでもいいから、自分には長所がひとつもなくても、自分の弱点だけは、すなおに認めようということです。
この下りなど、この人はほんとうに容赦がない。しかしこれはこの通りであると思う。別の長所で短所を補うという考えが、よりコンプレックスを強めてしまうのだ。短所を隠そうとするのは、それがそれだけ恥ずかしいからなのだ。
およそこの手の悩み相談にありがちな一切の綺麗事が、恆存の文章には見られない。
そんなものでは人は救われはしないということをよく理解しているからだろう。
結局、変えられないものは受け入れて生きていくしかないし、世の中はそもそも理不尽なのだという現実を見据えよ、というところからこの人は一歩もぶれていない。
読んでいて慰められはしないだろうが、一時の慰めを与えてもどうにもならないと恆存は思っていたのだろう。
近年、化粧や整形技術の発達によって、美醜の差というものはある程度埋められるようになっているようにも見える。しかし、人は結局外見に左右されるという理不尽さ自体は何も変わっていない。その意味で、やはり我々は理不尽さを飲み込んでいかなくてはならない。本書の価値がいまだ失われていないと感じるのも、そういう動かしがたい世の中のどうしようもなさとの付き合い方のヒントを与えてくれるからである。