明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

人の善意の限界はどこにあるのか?──武者小路実篤『真理先生』

 

真理先生 (新潮文庫)

真理先生 (新潮文庫)

 

 

マリ先生ではなくシンリ先生。

その名の通り、弟子たちに真理を語り聞かせる代わりに生活の面倒を見てもらい、特に働くでもなく暮らしている真理先生と周囲の人達を実篤特有の素朴な筆致で描く物語……なのですが。

 

この小説、評価はどんなものだろうと思ってamazonをのぞいてみたら、意外にも大絶賛でした。いえ、確かに読ませるといえば読ませるし、登場人物の心魂の暖かさに心を打たれる場面がいくつもあるのですが、皆あまりにも善人でありすぎるがゆえにかえって今の読者には敬遠される点があるのではないかと思っていたのです。でもそのあたりがかえって新鮮に映る読者も少なくないようです。

 

 この小説の人物がどれくらい善人ばかりなのかというと、まずは馬鹿一という人物について語らなければなりません。

この馬鹿一はひたすら石ばかり描いている奇人で、もうほとんど老人と言っていい年齢なのですが、彼の下手糞な絵を真理先生はなぜか絶賛するのです。そればかりか、当時の有名画家である白雲子までがこの馬鹿一の絵を見て彼には見どころがあるとし、デッサンをきちんと習えばものになるだろう、とまで言い出すのです。

ある種のヘタウマというか、ジミー大西のような才能の原石を馬鹿一の中に見出した白雲子は、彼のもとに杉子というモデルを派遣します。

 

最初は石にしか興味を示さなかった馬鹿一も次第に心を動かし、杉子を描くようになっていきます。杉子も馬鹿一は風変わりではあるがいい人だと言い、馬鹿一の人物画の修練に飽きもせず付き合い続けます。

しかしある日、異変が起きます。

デッサンの途中で寝落ちしてしまった杉子に馬鹿一が顔を寄せ、おもわず接吻しそうになってしまうのです。絵にしか興味がなさそうに見えた馬鹿一の中の「男」が目覚めてしまったのか?というとそうではなく、真相は杉子があまりにも赤子のように可愛らしかったため、我を忘れた馬鹿一が顔を近づけてしまった、ということでした。

 

生々しい劣情の発露など、ここには一切ありません。

慌てふためいた馬鹿一は杉子へ謝罪の手紙を書き、それを読んだ杉子も謝罪を受け入れます。普通なら気持ち悪がって二度と行かなさそうなものですが、この世界にはそんな物わかりの悪い人間は出てこないのです。

白雲子も本気で馬鹿一に大成して欲しいと思っているし、杉子も馬鹿一の善意を疑ったりはしません。誰もが本当に心から他者のためを思って行動する、あり得ないくらいの善人ばかりなのです。

 

ですが、この善人ばかりの世界にも、ほんの少しだけある種の生々しさが隙間風のように吹き込んでくる箇所があります。それは先ほど触れた杉子と、愛子という二人の若い女性の描写です。

 

愛子というのは若く美しい少女で、もともと馬鹿一は愛子をモデルにして絵を描きたがっていたのですが、愛子は馬鹿一のことを「あまり一心にこちらを見つめてくるから気味が悪い」と言っています。だから愛子の代わりとして杉子がモデルを引き受けたのです。愛子もまた善人には違いないのですが、馬鹿一を良い人とは認めつつも生理的嫌悪感には逆らえないあたりに、かすかなリアリズムを感じます。

 

これは杉子も同様で、馬鹿一の謝罪を受け入れたあとふたたび彼女はモデルとして馬鹿一のもとを訪れるようになるのですが、杉子は絵を描くときは必ず第三者を同伴させて欲しい、と主人公に頼んでいます。過ちを犯した馬鹿一の謝罪を快く受け入れた杉子でさえ、やはり馬鹿一はどこか怖いと思っているのです。この世界は決して完全無欠な善人ばかりを描いているわけではありません。

作品を通じて、馬鹿一の風貌は醜いと書かれています。年齢も年齢だし、およそ女には好かれそうにありません。作者がその気なら、私は馬鹿一さんの心の真っ直ぐなところに惚れました、という女性を登場させることも可能だったはずです。しかし、実篤にはそんなことはできなかった。これにはおそらく実篤なりの理由があります。

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実篤の『お目出たき人』は「自分は女に飢えている」という強烈な告白から始まる小説で、作品中では好きな女性に思いのたけを伝えられず延々と悩み苦しむ主人公の独白が綴られています。

この小説を読んでいる限り、実篤は女性に好かれないタイプの男にかなりのシンパシーを抱いていたように思えます。実篤自身はどうだったのかはわかりませんが、そのような男性の目を通じて描かれる女性の描写には、けっこうなリアリティを感じます。

冴えない主人公を自分を都合よく愛してくれるような女性は『お目出たき人』には登場しません。それが現実というものだということを実篤はよく理解していただろうし、その女性観はおそらくは『真理先生』にも持ち込まれています。

 

実篤は、いくら善人であってもその人の女性としての部分を無視したキャラクターを作ることができなかったのではないか、と思います。実は愛子は後に馬鹿一のモデルになっているのですが、それを引き受けたのは杉子から馬鹿一の評判を聞いたからです。他の女性から評価されているので自分も評価を引き上げる、というのも現実にありそうなことですし、またいくら馬鹿一が評価を上げてもそれはあくまで人間としての評価であって男性としての評価ではない、というあたりにも、実篤のある種の諦観をかいま見ることができる気がします。

 

どれだけ善人であっても、醜い馬鹿一は作中の女性から男として愛されることはありません。馬鹿一もそれを望んでいないので誰も不幸にはなっていないのが救いですが、このあたりが実篤の考える善意の限界だったように思います。

事実、モデルの杉子は馬鹿一と一緒に絵を描いていた別の男性と結ばれていますし、愛子もまた白雲子の息子と結婚しそうな勢いです。本作において、善意の上限は馬鹿一のような風変わりな他者を人間として尊重するところまでであって、異性として愛するところまでは達しないのです。

 

もし馬鹿一が、「いや、俺だって男なんだ。俺は尊敬されるだけでは足りない、あくまで男として受け入れられたいんだ」などと主張していたら、真理先生の形成するユートピアは崩壊してしまうでしょう。馬鹿一が『お目出たき人』の主人公のように女性を欲しがったりしない「善人」であるからこそ、この世界は成り立っています。

 

馬鹿一はひたすら絵を描きたいだけの求道者なのですが、求道者であるという点では真理先生も馬鹿一と同タイプの人間です。実は真理先生は若い頃に妻に逃げられていて、現在に至るまで独身なのですが、真理の探求と男としての幸せは両立しない、という考えが実篤にはあったのかもしれません。実際、『お目出たき人』の中で実篤は登場人物に「君のような道学者は女には好かれないよ」という台詞を言わせています。

現実では到底ありえないほどの善人ばかりが登場するこの小説にも、そうしたほんのわずかな現実が忍び込んでくる点が、この作品に独特の陰影を与えているように思えます。

松浦武四郎の「内向性」と幕府のアイヌ政策批判

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先日放送された、英雄たちの選択「北の大地と民を守れ!松浦武四郎・北海道の名付け親」をようやく録画で観ることができた。番組中で一番印象に残ったのは、脳科学者の中野信子が語っていた松浦武四郎「内向性」だ。

 

内向性という言葉から、我々は引っ込み思案だとか、インドア派だとか、思索的だとかいう人物像を描き出す。しかし、心理学で言う内向性というのはどうやらこうした一般的な印象とは異なるもので、中野信子に言わせると「価値基準が自分の中にある」ということらしい。

 

北海道全域を旅行し、アイヌとも積極的に交流した松浦武四郎の人物像は、いわゆる「内向的」という言葉から連想されるものとは大いに異なっている。しかし、興味の赴くままに蝦夷地を隅々まで踏破した武四郎の行動こそがまさに「内向性」の為せる業なのだ、ということらしい。司会の磯田道史はそのような武四郎を称して「蝦夷オタク」と呼んでいた。武四郎は吉田松陰とも面会したことがあるが、その人物は松蔭から見ても「奇人」と呼ばれるほどのものであったという。

 

蝦夷地に分け入り、アイヌの実態をつぶさに見聞きした武四郎は、アイヌについて「彼等の人格には尊い部分が少なくない」と記している。磯田道史によると、アイヌには儒教道徳が行き渡っていないため、幕府は徳をもってこれを「教化」する必要があると考えていたという。儒教を知らないアイヌはそれだけ遅れた人々だと考えていたのである。

 

しかし武四郎はそのような幕府の見方には従わず、あくまで自分が直接接したアイヌの有り様から彼等に尊敬の念を向けている。これこそが内向性だ。幕府の権威よりも、あくまで内的に自分がどう感じたかを武四郎は優先している。儒教など知らなくても、アイヌにはアイヌの倫理があるのだ。

 

 そのような武四郎の考えは、やがて彼を幕政批判に向かわせる。武四郎は函館で幕府の役人がアイヌに月代を剃らせるなど、和人の風習を強要するところを目にしている。このような幕府の姿勢に対し、武四郎はアイヌの酋長が「このようなことばかりしていたら、異人がこの地に攻め込んできたときアイヌは幕府に従わなくなってしまう」と毅然と反論したことを著書の中で紹介している。武四郎は石狩の漁場の番人がアイヌの男を釧路に送ったあと、その妻を犯し梅毒まで移したことを記録している。彼の著作は「三分の一が和人の悪口」だと言われるほど、和人の悪行が多く記されていた。

 

江戸幕府の統治体制では、政治批判は許されない。このため武四郎の書物も刊行されることはなかった。前近代の社会において政府を批判するのは命がけの行為だ。これもまた、自分の内的基準こそを第一とする内向性の表れだったに違いない。

 

話は変わるが、はてなブログでは2年ほど前、カネの話をするブロガーが増えた、ということが話題になったことがある。今はもう収益報告なんて当たり前すぎて話題にすらならないが、あの頃はまだそういうことを気にするほどにエモさというか、個人の思い入れに重点に置いたブロガーが多かったのだろうと思う。

個人の思い入れを語ることこそが大事だ、というのは内向性だ。これに対し、収益という目に見える外敵基準を大事にするのは外向性の現れだ。お金の話ばかりするブログに反発を感じる人達は、それまでブログ界では多数派ではなかったお金という外敵基準をこの世界に持ち込まれることに脅威を感じていたのかもしれない。内向性と外向性のせめぎ合っていた当時の記録はこのブログでも残している。

saavedra.hatenablog.com

太陽まりい『ギャルごはん』感想

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ギャルごはん 1 (ヤングアニマルコミックス)

ギャルごはん 1 (ヤングアニマルコミックス)

 

 

悪意がどこにも存在しない漫画というものはいいものです。

疲れているときはストーリーの起伏がどうこうとか、伏線がどうこうとか、そういった作り込みよりもまずはストレスなく読めるかどうか、これこそが一番大事でしょう。

その意味で、こういう作品こそが日々の仕事や学業で神経をすり減らしている現代人にはふさわしいと思われるのです。

疲れた心身に染み透るギャルが、また明日も生きていこうという活力を我々に与えてくれるのです。

 

こう前置きしましたが、なにも本作の作り込みが甘いといいたいわけではありません。

いえ、とにかくギャルであるヒロインである岡崎みくの造形が非常に優れています。

自由奔放であり露出も多いものの時には純情な一面をかいま見せ、恥じらう姿も魅力的なヒロインの姿はギャルものの定番であるギャップ萌えの愉しみを存分に提供してくれます。一口にギャルと言っても創作における扱いは色々ですが、このギャップ萌えを楽しめるという点において、岡崎みくはデレマスの城ヶ崎美嘉と同タイプのギャルに位置づけられるでしょう。彼女が好きな人ならまず間違いはない一作となっています。

感情の振幅を作り出すのはツンデレの専売特許ではありません。奔放さと純情さもまた、心地よく人の感情を振り回してくれます。そのような役回りにふさわしいからこそ、創作物においてギャルが脚光を浴びつつあるということなのでしょう。

 

そして、このギャルを教え導く主人公の教師もまたいい味を出しています。

堅物の家庭科教師である主人公がギャルに料理を教えるというのが本作の主な内容ですが、やはり堅物だけにギャルに振り回されつつも料理の指導は真剣、その様子にみくもまた惹きつけられていくというわけです。

マジメ君とギャル。対立する個性の組み合わせは王道であり定番であるわけですが、作者の仕事が丁寧であるために読んでいて飽きることがありません。

 

基本、主人公とギャルのやり取りを楽しむラブコメなので食漫画としての要素は薄目ですが、ギャルが美味しそうに何か食べている姿を見られれば眼福というものでありましょう。こういうギャルが本当にいるのか、とかそういう細かい話はいいのです。フィクションとはそういうことを忘れて楽しむものなのです。

 

先日、半分ネタとして異世界からやってきたダークエルフが黒ギャルに間違われるみたいな話を考えていたのですが、検索してみると黒ギャルが異世界に行ったらダークエルフに間違われる、という小説がすでにありました。創作物におけるギャルとはある種のファンタジー的な存在として、独自の進化を遂げつつあるのかもしれません。

 

先日、安室奈美恵がいなければ黒ギャルは誕生していなかったというツイートを見かけました。その彼女もいよいよ引退を迎えるわけですが、本作の岡崎みくもまた彼女の遠い末裔であるのかと思うと、なんだか妙に感慨深いものを感じてしまいます。

 

ギャルごはんの内容は3話までこちらで読めます。

seiga.nicovideo.jp

読めば又吉直樹が好きになる一冊。又吉直樹『夜を乗り越える』

 

夜を乗り越える(小学館よしもと新書)

夜を乗り越える(小学館よしもと新書)

 

 

昔から、「辛口批評」のたぐいがどうも苦手だ。手厳しく批判するのが悪いと言いたいわけではない。それも時には必要だ。だが多くの場合、辛口レビューというのは「自分はこの作品の価値を正しく判定できるのだ」という自信を持つ人が、レビュー対象の作品に審判を下してやる、という色合いを帯びる。このレビュワーの揺らぎのなさが、なんとなく居心地の悪いもののように感じられるのだ。

 

又吉直樹の読書の姿勢は、これとは正反対のものだ。

ある本を読んで楽しめなければ、それは自分の方に問題があるのだ、と彼は言う。

 

僕は本を楽しみたいという気持ちで、わくわくしながら開きます。少なくとも、「この本、全然おもしろくなかった」と僕が誇らしげに言うことはありません。 自分がおもしろさをわからなかっただけじゃないかと思うんです。自分が楽しみ方を間違えたのではないかと。

 

この箇所以前に、又吉は『それから』を最初読んだときには良さがよくわからず、百冊以上文学を読んでから再挑戦したらものすごく面白かった経験がある、と過去を振り返っている。

 

これは、自分が正しいと思っている人には取れない態度だ。彼のこういうところに僕は好感を持つ。歳月を経ても淘汰されずに残っている文学には、それなりの価値というものがあるはずなのだから、それを理解できないのなら自分の方に問題があるのだ、という謙虚さを彼は持っている。

 

 もちろん、これがどんな作品に対しても当てはまるわけではない。作品の側に問題があって楽しめないということはあるだろう。だが、まずは楽しめるように努力する姿勢を持たなければ、その作品の楽しさに近づけないのだ。だから「最初から批判的に読もうとする人間には虫唾が走ります」とまで又吉は言っている。

 

「辛口批評」を書く人の中には、刀を構えて藁束に斬りつけるような感覚で本に臨んでいる人もいるのではないかと思う。この自分の鋭い論理と感性でどれだけこの作品に切り込めるか、舌鋒鋭くこの作品の欠陥を暴き立てることができるか、そういうところで勝負をしている人もいるはずだ。もちろん、それも全くの自由だ。ただ、又吉はそういう姿勢を取らない。人は先入観に弱いので、批判的な批評に接してしまうと少なからず影響を受けてしまうからだ。

 

美食家が「これを食べている間、ずっと吐瀉物を食べているような感覚だった」といった場合、そう評価されたものを食べるときには全力で忘れる努力をしますよね。飯が不味くなりますから。ただ、読書の場合は「吐瀉物みたいな本とはどういうものだろう?という読み方もできてしまう。そして、「なるほど、この辺が吐瀉物だ」というように情報によって不味い読書に引っ張られてしまうことがあります。

 

このあたりを読んでいると、この人は本当に読書というものを大切にしているんだな、ということがよくわかる。厳しい批評に読者が引きずられ、まず批判から入ってしまうということは十分起こり得る。そういうことは望ましくない、もっと読書を楽しんで欲しいと又吉は願っているのだと思う。

 

職業としての批評家ならスタイルとして辛口であることが求められることもあるだろう。そういう姿勢は、有名人を落として溜飲を下げたいという大衆のニーズに答えてくれるからだ。しかしこれとは別に、素人が厳しいレビューを書くのは「自分が楽しめなかったのはこの本に問題があるからだ」という、消費者目線の態度からではないかと思う。

自分は今の位置から一歩も動かず、本の方から自分に近寄ってこなかったからダメなのだ、というサービス待ちの姿勢だ。もちろん、本は一個の商品であって、対価を払った側にはそういう自由もある。しかし、本当に読書を楽しみたいなら自分から本に近寄っていかなくてはいけないのだ、受け身では楽しめない本もあるのだ、という又吉直樹の訴えを読んだ後では、こういう態度は取りにくくなるような気もする。もっとこの私を楽しませろ!と言うのはRPGで2番目くらいに強いボスの台詞にしておけばいいのかもしれない。

 

amazonのレビュー欄を見ていると、多くの高評価に混じって一人だけ☆一点をつけている人がいたりする。そういう人は、他の作品もたいてい酷評している。当人はダメなものをダメと言って何が悪い、くらいの気持ちかもしれないが、そこまで次々といろいろな作品に斬りかかるのは、又吉直樹に言わせれば作品を楽しむ能力を持っていないからかもしれないのだ。

どんな能力も、鍛えなければ伸びない。どうせ少なくない時間を費やして本を読むのなら、楽しむ能力を鍛えたほうがお得だ。

醜い者は分相応に生きよ──福田恆存『私の幸福論』

 

私の幸福論 (ちくま文庫)

私の幸福論 (ちくま文庫)

 

 女はとかく外見を品評される。今は男だってそうかもしれない。大事なのは人格だと言ってみたところで、まず外見で切り捨てられたら人格で勝負のしようがない。自分はこんな顔だから女たちに相手にされない、そんな怨嗟の声はネットのそこら中にあふれている。男女が平等化するということは、男もまた女並みに容姿を求められるようになったということかもしれない。

 

それだけ、美醜というものは大きく人のありようを決定づけてしまう。

だからこそ、人の悩みを考える時にここを避けて通ることはできない。

そのことをよく理解していたためか、恆存の人生論はまず「美醜について」からはじまる。本書はもともと女性誌に連載されていたものなのだが、容姿について悩む女性はどう生きればいいのか、というところから恆存は語り始めている。

 

残酷なようだが、この問題への恆存の回答は「分相応に生きろ」だ。醜い者が美しいものと同様の扱いを世間に望んではいけない、そういうものと思って生きろ、と彼は言っている。

 

私の原理は大変簡単なもので、醜く生まれたものが美人同様の扱いを世間に望んではいけないということです。貧乏人に生まれたものが金持ちのように大事にされることを望んではいけないということです。不具者が健康人のように扱われぬからといって、世間を恨んではならぬということです。

 

身も蓋もないと言えばそれまでだ。もう少し言いようというものがあるのではないか、とは思う。しかしこれこそが世間の現実であって、ここで下手な理想論を語っても、後々現実とのギャップに苦しむだけだと恆存は考えていたのだと思う。

 

世の中にはいくら望んでもどうしようもないことがあるし、それは受け入れて生きていくしかないのだ。自分を望み通りに扱わない他人や世間を恨んでも不幸になるだけだ、と彼は言っている。

 

ある娘さんから聞いた話ですが、自分のクラスのものが二人、ある出版社の試験に応募した。ひとりはクラスで一番の成績を持った子で、もうひとりはたいしてできない子だったそうです。ところが、第一次の書類と写真の審査で、できる子のほうが落第で、できない子のほうがパスしてしまった。その子が美貌だったからです。(中略)その娘さんの言葉を借りれば、「社会が信用できない」というのです。

 それでは困ります。若い時の理想主義、いやこの場合はむしろ世の中を甘く見た空想ともいうべきでしょうが、ひとたびそれが敗れると、今度は社会を呪うようになる。それがひがみでないと誰が言えましょうか。一見、正義の名による社会批判のようにみえても、それは自分を甘やかしてくれぬ社会への、復讐心にすぎないのです。

 

今の世の中で、こんなことを女性誌に書いたら批判が殺到するかもしれない。感想ツイートがtogetterにまとめられてブクマが300くらいつく図が容易に想像できる。保守派の論客というのは、往々にしてこういうところがある。世の中というのはそういうものなのだから文句を言ったって仕方がない、ですませてしまうのだ。

 

自分を美人と同様に扱えという貴方が甘えているのだ、というこの回答をそのまま肯定することは私にはできない。このような理不尽をそのまま認めていたのでは社会は進歩しないからだ。

しかし、恆存の生きていた時代ではこれこそが社会の現実であり、貴方はこの現実を生きていかなくてはいけないのだ、と恆存は考えていたのではないかと思う。動かしがたい現実を正義の名のもとに糾弾し続けても結局自分が傷つくだけなのだ、そんな辛い生き方を選ぶな、という諦観がそこには横たわっている。

 

 では、外見のことは諦めるとして、あくまで内面で勝負すればいいのだろうか。

そのような考え方も、それはそれで不幸を生む元なのだと恆存は述べている。

 

そういうと、顔はまずくとも、心がけが一番大事だという人がある。私はそういうことをいっているのではありません。これはマイナスだが、他にプラスの点もある。そういう考え方で、自分を慰めようとしてはいけないのです。(中略)目をつぶっても、現実は消滅しっこない。むしろそれは無意識の領域にもぐりこんで、手のつけられぬ陰性のものと化しやすい。それはひがみであり、劣等感であります。

他にプラスがあるかどうかわかりはしません。ないかもしれない。努力してみても、それが身につかぬかもしれません。それでもいいから、自分には長所がひとつもなくても、自分の弱点だけは、すなおに認めようということです。

 

この下りなど、この人はほんとうに容赦がない。しかしこれはこの通りであると思う。別の長所で短所を補うという考えが、よりコンプレックスを強めてしまうのだ。短所を隠そうとするのは、それがそれだけ恥ずかしいからなのだ。

 

およそこの手の悩み相談にありがちな一切の綺麗事が、恆存の文章には見られない。

そんなものでは人は救われはしないということをよく理解しているからだろう。

結局、変えられないものは受け入れて生きていくしかないし、世の中はそもそも理不尽なのだという現実を見据えよ、というところからこの人は一歩もぶれていない。

読んでいて慰められはしないだろうが、一時の慰めを与えてもどうにもならないと恆存は思っていたのだろう。

 

近年、化粧や整形技術の発達によって、美醜の差というものはある程度埋められるようになっているようにも見える。しかし、人は結局外見に左右されるという理不尽さ自体は何も変わっていない。その意味で、やはり我々は理不尽さを飲み込んでいかなくてはならない。本書の価値がいまだ失われていないと感じるのも、そういう動かしがたい世の中のどうしようもなさとの付き合い方のヒントを与えてくれるからである。

個性的であれという呪縛が人を苦しめる──南直哉『なぜこんなに生きにくいのか』

 

なぜこんなに生きにくいのか (新潮文庫)

なぜこんなに生きにくいのか (新潮文庫)

 

 

ある時期から、どうもブログの世界が居心地が悪い、と感じるようになった。

おそらくはてなブログの中だけの話なのだと思うが、あちこちでどうすればたくさんアクセスを集め、それを稼ぎに繋げられるか、ということが語られるようになってきたからだ。

自意識を発露する場所、リアルでは言えない本音を吐露する場所としてのブログのありようは影を潜め、この世界も市場化の波に洗われるようになった。

 

そこでよく聞かれるようになったのは、「読者に価値を提供せよ」という言説だ。

ただの日常雑記なんて誰も興味持ちません、そんなことより読者が求めていることを書くべきなのです、といったブログ指南をする人があちこちに現れ、収益報告やPV報告を行うことが日常化し、ブログの価値はあたかも数字で表せるかのような風潮が一部で生まれたような印象がある。

 

我々は資本主義社会に生きている以上、自分自身を労働力として売らないと生きていけない。それは仕方のないことだ。しかし、ブログというのはあくまで私的な領域のもので、そうした市場的な価値観とは別であっていいのではないかと思っていたのだが、この世界もじわじわと商品価値で判断される世界になりつつあるのではないか、と少し前までは思っていた記憶がある。

 

もうはてなブログをほとんど読まなくなってしまったので、今はそうした価値観から距離を取ることができたとは思っている。今でもはてなブログでお金の話をする人が多いのかはわからない。ただ、ブログであれその人自身であれ、市場価値だけで価値を判断されてしまったら息苦しいのではないかという感覚は今でも持っている。そのあたりのことを、南直哉氏も以前テレビで語っていた。

 

 

 世間は人に個性的であれと言うが、そこで言う個性というのは結局市場で評価されるようなものではないのか、という問いを彼はここで発している。

 人間という全体性の中のごく一部である「人材」(=能力)という部分だけがクローズアップされ、そればかりが求められていることが生きづらさの原因ではないのか、と南禅師は説く。市場化という傾向が単にビジネスの世界の枠を超えて、人間全体を覆いつつあるのではないかとこの動画では説明されているが、個人ブログですらPVなどの数字で価値を測られるような一部の風潮も、この流れの延長線上にあるものではないかと思う。

 

すべてが売れるかどうかという市場価値で判断される世界は生きにくい。

すると今度はアンチテーゼとして、ありのままの自分でいいのだ、といったメッセージが強調されることになる。みんなちがってみんないい。そんなメッセージの一つの象徴として現れたのが『世界に一つだけの花』だろう。

 

この歌を聴いたとき、南氏は「とたんに泣けた」と本書で告白している。

あなたはオンリーワンだと言って欲しい人がそんなに多いのかと思えた、ということだ。

オンリーワンだと言われたいということは、実際にはそんなことを言ってくれる人が周りにいないということを意味している。こんな悲しいことがあるだろうか、と彼は思ったのだ。

だいたい、「特別な」という以上は、それを特別だと思う、花以外の人がいないと「オンリーワン」に意味があるということにはなりません。花たちがオンリーワンだ、特別だなどと思うわけではない。オンリーワンだというのは、まわりの誰かが評価して、決めることなのです。となると、確かに「私」は世界で一人だけですが、一人だけの人間が価値があるかどうかは、一人だけであることの中からは出てきません。

 まさにその通りで、一人ひとりはたしかに特別なのだが、そのことと自分が特別であることを実感できるかどうかは全く別問題だ。自分がオンリーワンだといえるためには、そう感じさせてくれる他者の存在がどうしても必要になる。そして、他者から受け入れられるには、受け入れられるような個性を持つことが必要だ。皆がオンリーワンとは言いつつも、認められるような個性は実はかなり限られてくる。

 

お金儲けを全面に出しているようなブログに対して、そんなことよりも貴方らしさを大事にして欲しい、といった感じのブログ論を以前何度か見かけたことがある。

一見良心的な意見だが、本書で展開されている主張を踏まえればこの「オンリーワンであれ」という激励もまたしんどいものであるということがわかってくる。ただの日常雑記だってその人にしか書けないオンリーワンの文章なのにあまり読まれないし、個性で勝負しようと思ったら卓越した特技なり文章芸なりが必要になるのだ。

 

それらは極めればお金にもなりうるものだし、結局市場で売れるような個性が必要なんじゃないか、という話になってくる。オンリーワンであることを目指しても、結局市場化の波から逃れられない。読者に価値を提供すれば貴方の記事は読まれますよ、というのは取引だ。評価されるのは市場で取引対象になるような個性なのだということになれば、やはりしんどさはなくならない。

 

恐山: 死者のいる場所 (新潮新書)

恐山: 死者のいる場所 (新潮新書)

 

 

結局、「取引でしか承認が得られない」という感覚が内部にある限り、どこにいても生きにくさはなくならないのだと思う。

南氏は『恐山』の中で、「取引でない人間関係をどれだけ作れるかが重要だ」ということを言っている。もし、自分に何があってもこの人は自分を見捨てないでいてくれると信じられるような人がそばにいれば、ブログが読まれない程度のことなんてどうだって良くなるだろう。そんなことと人の価値は関係がないと信じられるからだ。

 

しかし、特に大人になると、そのような関係性を得るのは簡単ではない。

今の自分はこのブログが読まれなくてもあまり問題ではなくなったが、それは他に居場所もやれることもできたためにここが重要ではなくなったからである。他者からの評価はその人の価値を決定しない、というのは全くその通りなのだが、そう思えるためにはどこかに自分を支える他者や居場所の存在が必要だ。承認を必要としなくなるには承認が必要だ、というのはなんだかパラドックスのような話だ。

 

 本書には、生きにくさを解消する方法は書かれていない。

それは結局、生きるとは苦しいものだという仏教の世界観で書かれているからだ。

しかしそういう価値観がフィットする人には読後に何かが残るだろうし、フィットしない人はおそらく最初から手に取らない。これはそういう本だ。

その昔、「100の質問」が苦手だった

先日、ツイッターのTLを「物書きさんに20の質問」と書かれたツイートが流れていくのを目にした。ずいぶん懐かしいものを見せられたような気がしたのと同時に、当時感じていたある種の苦さのようなものも思い出した。

 

意味がわからない人のために説明すると、まだブログなどというものが普及する前の時代、サイトを持っている人が自己紹介のテンプレとして「○○さんに100の質問」というものを活用していることがよくあったのだ。

d.hatena.ne.jpこのリンク先を見ると、「はてなダイアリー利用者に100の質問」の最初のバージョンは2003年のものだった。

 

質問が100ではさすがに多すぎるということで今は20個になったのだろうが、当時あちこちでこの「100の質問」に答えている人を見るたびに、当時はhtmlで日記を書いていた自分はこう考えていたことを覚えている。

 

「この人達は、他人が自分に聞きたいことが100個もあるとなぜ思えるのだろう?」

 

つまり僕には、この「100の質問」に喜々として答えている(ように見える)人達が、ものすごく自己評価の高い人たちのように写っていたのだ。

考えても見て欲しい。客が一人も入っていない公演会場で、「私はこういう趣味があって、こんな映画が好きで、こんな食べ物が苦手で……」という話を延々とし続ける場面を想定したら、これはとても惨めだ。聞き手のいない一方的な自己紹介ほど虚しいものはない。

だから、この「100の質問」に答えている人達は、「自分にはこういう話を聞いてくれる人がたくさんいる」と意識できる人達だけなのだ、と当時は思っていた。

 

今にして思えば、この質問に答えている人達は単にテンプレを活用しているだけで、別に「自分はこの長い自己紹介を最後まで読んでもらえるほどの人気者だ」なんて思ってはいなかったのだろうが、当時はなぜかそう思えなかった。

この質問に答えられるような人は自分からはずいぶん遠い人達のように思っていたし、自分は話を聞いてもらえる側の人間だ、と何のてらいもなく思える人達なのだ、と距離感を感じていたものだった。

 

おそらく多くの人は、「他人がこの話を聞いてくれるか」ということを、そもそもあまり意識などしていないのではないかと思う。意識していたら、この手の質問には人気者しか答えられなくなる。

聞き手がいようがいまいが、自分は自分語りがしたいのでそれでいい。そうした欲求の発露が、この「100の質問」を普及させたのではないかと思う。どうせこんなの誰も読んでないから、とか考え始めると、そもそも無名の素人はウェブでは何も書けなくなってしまう。

 

しかし、こうしたものを書く人達が「他人が聞いているかどうかなどそもそもどうでもいい」のだとすれば、そういう心境になれるのは、やはりある程度の自己肯定感が備わっているから、なのではないだろうか。

自分はすでに「足りている」と思っているから、人に話を聞いて貰う必要はない。だから語りたいことを語れればそれでいい。そういう心境になれるのだと思う。対して自己評価が低く、その分をウェブ上で何か表現することで埋め合わせようとしている人にとっては、自己紹介を読んでもらえるかどうかは切実な問題なのではないだろうか。

 

「人はブログを書くことで何者かになれる」という主張を読んだことがある。別にブログを書こうが書くまいがその人はその人であって、その価値に変わりはないと思うが、そう言いたくなる気持ちがわからないわけではない。

この「ブログ」は、絵や小説や音楽などにも置換可能だ。自分には何もない、と思っている人がウェブで何らかの表現行為を行い、それが受け入れられれば、その時点で初めて自分は「何者か」になった、という実感を得られる。そういう心理状態というのはあり得る。

 

 人に認めてもらえるかどうかが重大事項になる人とならない人との決定的な差が、そこにはある。自己肯定感をすでに持っている人はそれ以上肯定される必要がないため、ウェブ上の表現はいわばひとつの趣味にすぎない。しかし、自己肯定感を欠いている人にとって、ウェブ上の表現はそれを供給するための重要な手段になる。

 

創作をする上で、本当は「人が読んでいようがいまいがこれが好きだから書く」という姿勢が望ましいと思っている。作品のpvと自分の価値をリンクさせるのは精神を病む元だ。しかし、これをどうしても読んでもらいたい、という切実な気持ちが技術を向上させる要因になりうることもまた事実だ。

もし、聞き手がいるかどうかもわからないような自己紹介を延々とし続けられるほどの自己肯定感を皆が手に入れたら、それでも創作意欲が残っている人というのはどれくらいいるだろうか。この自分を認めて欲しい、という切実な欲求が消え去ったら人類が幸福になることと引き換えに、これから生み出されるはずの貴重な芸術作品のいくつかが生まれてこなくなるのかもしれない。