明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

観応の擾乱に災害が及ぼした影響とは?亀田俊和『観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』を読んで

 

 

あとがきに書いているように、著者の亀田俊和氏は天邪鬼なところがあり、中世史の本でもほとんどのものがあまり言及していない観応の擾乱が気になり、研究対象とするようになったのだという。結果として、本書のようなとてもわかりやすい入門書ができた。本書は呉座勇一氏の『応仁の乱』とともに中世史ブームの一環をなす本としてよく売れたが、 亀田俊和氏の研究成果は呉座氏が『陰謀の日本中世史』の中でも肯定的に引用しているほどで、それだけ有益な知識を読者に提供してくれているということである。この『観応の擾乱』もまたこの複雑な騒乱をわかりやすく整理しつつ、最新の知見を提示してくれるので、これを読めば観応の擾乱をよく知らない人はこの乱の経緯と結果を理解することができるし、知っている人も中世史の知識を最新のものにアップデートできる。

 

saavedra.hatenablog.com

足利尊氏とその弟直義、そして尊氏の息子直冬、直義の執事高師直など多くの人物が入り乱れて戦う観応の擾乱の流れはそれなりに複雑だ。直義が一時南朝に降伏していることが余計に事態をややこしくしている。足利直冬が武将としての力量に恵まれていたことも騒乱の長引いた原因だろう。足利一門には有能な人物が多いのに、こうして互いに争っていることでどれだけの時間や人的資源が無駄になったかわからない。

 

とはいえ、雨降って地固まるとでも言えばいいのか、まさにこの争乱の結果として室町幕府の支配体制が盤石なものとなっていく。騒乱の原因のひとつとして恩賞の不足があったため、争乱の終結後は恩賞が充実し、「努力が報われる政権」ができあがった。半済令を実施し、守護の支配を強化したことも武士の利益を重んじたためとここでは解釈される。直義が最終的に尊氏に敗北したのも、直義が寺社勢力の権益を養護し、武士の利益を重んじなかったためであるから、これに鑑みれば当然武士が報われる政権を作らなくてはならない。足利義満以降続く室町幕府の全盛期の基礎が、この時期に固められたことになる。

 

ここで慧眼と思われるのが、亀田氏が南北朝時代の災害の多さについて言及している点だ。荘園が水害で被害を受ければ、当然取り立てられる年貢は減ってしまう。ただでさえ恩賞が少ないのに、災害でろくに年貢が徴収できないとなれば、さらに幕府への不満はつのる。これもまた観応の擾乱を長期化させた原因ではないか、というのである。元号の由来をみれば明らかだが、日本が自然災害大国であることが、ここにも影響している。

saavedra.hatenablog.com

観応の擾乱は日本史上のイベントとしてはマイナーな部類に属するが、後世に与えた影響、歴史的意義はとても大きい。中世史への関心が集まっている今、日本史の知識の空白を埋めてくれる著書の需要が高まっているが、この『観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』は、読者の知的好奇心を満たすだけでなく、この騒乱をきっかけに中世史の深い沼へと誘ってくれる好著だ。

阿部正弘という人物をどう評価するか?半藤一利・出口治明『明治維新とは何だったのか』

 

 

幕末史や昭和史に関する著書を多数発表している半藤一利氏と世界史の著作の多い出口治明氏の対談。半藤氏の語りを出口氏が聞くという体裁になっているが、出口氏が世界史レベルの視点から半藤氏の発言を補う箇所が多く、広い視野から明治維新についてとらえなおすことのできる良書となっている。

 

世界史という視点からみれば、ペリーの黒船来航は、日本を中国市場への足がかりにするため、ということになる。大英帝国アメリカが中国市場をめぐって争っているなかで、アメリカは寄港地としての日本に目をつけた、ということらしい。出口氏にいわせれば、アメリカの武力は商売のためのものであって、使わないのであればそれに越したことはない。ヴァイキングも本当はイングランドやフランスが不公平な取引をするため、やむなく武装したのだという知見もここで披露される。こういう過去の事例との比較はおもしろい。

 

アメリカに戦う気がないとしても、やはり黒船は日本にとっては脅威だ。では、日本はアメリカの圧力に押されてやむなく開国したのか。二人の意見は異なる。半藤氏と出口氏は、阿部正弘開明的な人物であったため、富国強兵のために積極的に開国をしたのだという。事実、阿部の開明性は海軍伝習所や蕃書調所の設立にも具体的に現れている。海軍伝習所が勝海舟榎本武揚五代友厚佐野常民などの人材を輩出したことからわかるとおり、阿部の近代化政策の意義は大きい。

 

半藤:だから私も、阿部さんがもっと長く生きていたら、幕末はずいぶん違う流れになっていただろうと思います。この人が早く死んじゃったおかげで、幕末のゴタゴタがよりおかしくなっちゃうんですよ。

 

出口:本当に立派な人ですよね。有為な人材登用や人材育成策は、お見事の一語に尽きます。また開国に当たっては、朝廷や雄藩の外様大名にも意見を求めている。市井の声も聞こうとしている。まさに「万機公論に決すべし」を地で行っている。一八五四年に創設された福山藩の誠之館では、藩士に限ることなく身分を超えて教育を行おうとしています。

 

幕末において、日本のグランドデザインを描くことができた数少ない人物のひとりが阿部正弘、というのが二人の見解だ。もし、安倍がもっと長生きしていたらどうなっていただろうか。井伊直弼のような強権的な政治手法を好まない阿部が幕政の中心に居続ければ桜田門外の変も起こらず、幕府の権威が失墜しないため、徳川幕府が存続したまま日本の近代化が成し遂げられていたかもしれない。ただしその場合、武士政権である幕府に廃藩置県のような徹底した改革が行えるだろうか、という疑問は残る。

 

saavedra.hatenablog.com

もっとも、このような阿部の高評価は、半藤氏の「反薩長」の立場から導かれるものでもあるかもしれない。「官軍」という呼称が嫌いでわざわざ「西軍」という言い方をするほど薩長が嫌いな半藤氏からすれば、とうぜん薩長と対決した幕府側の評価が高くなる。とはいえ本書では薩長が不当に低く評価されているわけでもなく、大久保利通阿部正弘と並ぶビジョンをもった政治家と評価されている。大久保が暗殺されてしまったために山縣有朋が表舞台に登場し、日本が軍国主義への道を突き進むことになった、という評価は『幕末史』の見方をそのまま受け継いでいる。

 

本書の内容は幕末から出発しているが、その射程は広く近代史全般を話題にしている。出口氏は、近代日本の過ちは日露戦争で勝利し、欧米との協調路線(=開国)を捨てたことだと言っている。この開国路線を敷いた阿部の功績が、ここでふたたび強調されている。徳川の祖法である鎖国を中止した阿部の功績は、もっと知られてもいいものかもしれない。

アイドルマスターKRを観始めた(1~3話の感想)

せっかくアマゾンプライムに入っているのだからなにか面白いドラマでもないかな、と思って探していたら、アイドルマスターKRなるものが存在していることを初めて知った。実写版のアイマスだが、これが意外と評判がいいらしい。

 

このダンスなどはゲームの動きを取り入れている。これは期待できるかもしれない。ちなみにtheidolm@sterはこのドラマのED曲になっている。

 

まず1話を観てみると、冒頭から

 

・主人公の双子の妹が事故死

・練習生のひとりが同級生にバケツの水をぶっかけられる

・自分たちを出し抜いてデビューしたライバルに頭からゴミをぶちまける

 

など、なかなかにハードだ。こういうところにはたしかに韓国ドラマらしさは出ている。

 

冒頭で事故死したのは、アイドルグループ「レッドクイーン」のメンバーのスア。妹の死にショックを受けたスジはそれまで打ち込んでいたマラソンをやめ、バイト三昧の日々を送っているが、レッドクイーンのプロデュースを担当していたカン・シンヒョク(以後カンPと呼称)に「ステージでもう一度走れ」と声をかけられる。いまだ芽の出ない練習生たちにスジ含めカンPがスカウトしたメンバーを加え、825エンターテイメントの新たな挑戦がはじまる──というストーリー。

 

アニメ版のアイドルマスターシンデレラガールズに比べると、登場するアイドルたちの上昇志向の強さが目につく。韓国のリアルな芸能界事情を反映しているからだろう。このため、アイドルたちは必ずしも皆仲が良いわけではなく、それぞれ結構我が強いし、競争心をむき出しにする。そうでなければ、ただでさえ厳しい芸能界を生き残れないのだ。主人公のスジだけはそれほどアイドルになりたい気持ちが強いわけではないため、その覚悟のなさを他のメンバーから非難されたりもするし、3話の時点ではメンバー間の雰囲気も結構ギスギスしている。

 

そして、カンPの指導もまた厳しい。陸上に打ち込んでいてアイドル経験のまったくないスジ含むメンバーに対して、業界の著名人に紹介するから1週間でレッドクイーンの曲のダンスをマスターしろなどという。結果は散々で業界人からは酷評されてしまうが、これはカンPが825エンターテインメントの現実を教えるためにわざとやったことだった。アイドルたちを鍛えるために、カンPは彼女たちを「デビュー組」と「ルーキー組」という二つのチームに分けて競わせ、下位五人はデビューのチャンスを奪うという厳しい試練を課す。彼女たちは日本のアイマスに比べるとかなり過酷な競争を強いられている。

 

いまのところ825エンターテイメントのアイドルがまだあまり覚えられていないが、ストーリー上目立っているのは主人公のスジと最年長でリーダー役のヨンジュ、何かと文句の多いジェインくらいか。日本人のユキカは天然ポジション、コミュ障気味のイェウン、ダンスが一番得意なミント、といったキャラ付けくらいは頭に入っている。デレマスの属性分けでいうとスジがキュートでヨンジュがクールである以外は全員パッションに見える。つまりそれだけ皆自己主張なり我が強い。

 

そうえいば、このドラマのED曲であるTHE IDOL M@STERにも「うぬぼれとかしたたかさも必要」「人気者になりたいのは当然」などの歌詞があり、アイドルのエゴの部分も全面に出した内容になっているのだが、それだけにこのドラマの内容にふさわしいと思われたのだろうか。

 

いまのところスジは825エンターテイメントのお荷物でしかないし、周りのアイドルたちとの関係もあまり良くないのだが、今後の彼女の成長や人間関係の変化などにも注目していきたい。

ヒアリなんて序の口!「痛みの鑑定人」昆虫学者が虫刺されの痛みを科学する『蜂と蟻に刺されてみた―「痛さ」からわかった毒針昆虫のヒミツ』

 

蜂と蟻に刺されてみた―「痛さ」からわかった毒針昆虫のヒミツ

蜂と蟻に刺されてみた―「痛さ」からわかった毒針昆虫のヒミツ

 

 

「○○してみた」もここまでくると命がけだ。「痛みの鑑定人」「毒針の王」の異名を持つ昆虫学者ジャスティン・O・シュミットは、世界中の蜂と蟻に刺されることで虫刺されの痛みの尺度である「シュミット指数」を作成しているが、この指数によるとヒアリに刺された痛みですら4段階のレベル1,つまり最も軽い痛みでしかないらしい。上には上がいるのだ。それぞれのレベルの痛みはどの程度かというと、たとえばこんな具合である。

 

・レベル1(ヒアリ)    ……ちくっとくる軽い痛み。

・レベル2(ホーネット)  ……ずしんと来る強烈な一撃。

・レベル3(シュウカクアリ)……悶絶するほどの激痛が12時間以上続く。筋肉組織が次から次へとヒト喰いバクテリアに破壊されていくみたいに。

・レベル4(サシハシアリ) ……目がくらむほどの強烈な痛み。かかとに三寸釘が刺さったまま、燃え盛る炭の上を歩いているような。

 

本書の巻末には、このように様々な蟻や蜂に刺されたときの痛みのレベルと、感じる痛みが一覧表として載っている。それぞれの昆虫が与えてくる痛みの表現は「神々が地上に放った稲妻の矢」だとか、「火山の溶岩流の真っ只中に鎖でつながれているみたい」など、文学的でどことなくユーモラスでありつつも読んでいて恐ろしくなるものばかりだ。こんな描写が延々12ページも続いているのだが、科学者の好奇心とはこのような痛みすら自分の身体で試したくなるほど強力なものなのだろうか。

 

日本人からすればヒアリだって十分な脅威なのだが、本書によればヒアリの恐ろしさとはその繁殖力の強さにあるようだ。シュミットは、「私達がヒアリとの戦いに勝ったことはあるのだろうか?まったくなし」と言う。アメリカ南部では殺虫剤を用いて大規模な駆除を行ったものの、結局ヒアリと競合するアリを排除してしまったため、かえってヒアリの繁殖を助けてしまった。一握りの働きアリから4年で15万匹を擁するコロニーを作り上げるヒアリに比べれば、ヒアリのライバルたちは早く繁殖できない。しかしこの厄介なヒアリも人間にとっては「良き友くらいにはなれるかもしれない」存在なのだそうで、ヒアリを利用すれば農地や牧草地の害虫を食べてもらうこともできるらしい。そうとわかっていても、こちらに痛みを与えてくるだけでも十分に脅威なのだが。

 

しかし、このヒアリの痛みがシュミット指数ではレベル1ということになっている。では、レベル4の昆虫が与えてくる痛みとはどれほどのものか?本書の第10章「地球上で最も痛い毒針」に、レベル4の痛みを与えてくるサシハシアリのことが詳述されている。サシハリアリはアマゾン川流域ではトゥカンディラと呼ばれているが、このアリに刺された痛みは弾丸に撃ち抜かれたようなものだということで、「ブレットアント」とも呼ばれている。ブラジル人には、このアリが4匹いれば人間をひとり殺せるともいわれるほどだ。

 

これほどの激痛を与えてくるサシハシアリを、驚くべき用途に用いている民族がいる。アマゾンのアラランデウアラ族ではなんと、このアリの痛みに耐えることを男性の通過儀礼に使っているのだ。サシハリアリを挟み込んだ筵を少年の腹や太ももなどに巻き付け、刺される痛みに耐えられたら薬草を調合した飲料を与えられるというのだが、ヒアリすら恐れる我々にはその苦痛がどれほどのものか想像もつかない。この民族にとり、大人になるとはかくも過酷なものなのだ。

 

saavedra.hatenablog.com

『バッタを倒しにアフリカへ』の著者は砂漠でサソリに刺されていたが、シュミット指数ではサソリの与える痛みレベルはどれほどのものだろうか。シュミット指数はサソリについては何も語らないので、それはわからない。『バッタを倒しにアフリカへ』はバッタ研究にまつわる著者の苦労話が面白い本だったが、この『蜂と蟻に刺されてみた』は昆虫の生態そのものが恐ろしくも面白い本だ。昆虫の刺針が産卵管から進化したこと、人の汗を舐めるコハナバチ、人を刺せないが刺すふりをする雄蜂の挙動など、本書には蜂と蟻の世界の不思議がたくさん詰まっている。イグ・ノーベル賞を受賞している著者の語り口は軽妙で読みやすく、ヒアリに興味のある人もない人も、ともに興趣つきない昆虫学の世界へと誘ってくれるだろう。

石ノ森章太郎『マンガ日本の歴史』で中世史を学ぶ

岩波新書の『後醍醐天皇』を読もうとしたがあまり内容が頭に入ってこない。南北朝時代の基本的な史実が頭に入っていないせいだ。こういうときはビジュアルがあるものがいいだろうというわけで、石ノ森章太郎『マンガ日本の歴史』を手にとってみた。このシリーズは以前古代史の部分を読んだらとても面白かったので、これがいいだろうと思った。

 

マンガ 日本の歴史〈18〉建武新政から室町幕府の成立へ (中公文庫)

マンガ 日本の歴史〈18〉建武新政から室町幕府の成立へ (中公文庫)

 

 

足利尊氏室町幕府を作った人、なのだが、そのキャラクターづけはいまいちはっきりしない。室町時代に今ひとつ親しみが持てないのはこのせいかもしれない。戦国時代や江戸時代とちがって、室町時代を取り上げたドラマや小説が少ないため、人物像がつかみにくいのだ。信長にせよ秀吉にせよ、多くの人はフィクションによりある程度明確なイメージをもっている。それが必ずしも歴史学的に正しいものではないにせよ、読者に興味をもたせ、学問の入り口に立たせる効果はある。

 

ではなぜ、足利尊氏にはあまりこれというイメージがないのか。このマンガを読んでいると、その理由の一端が見えてくる気がする。結局、尊氏という人が何をしたいのか、その行動原理がよくわからない部分があるのだ。だからフィクションの主人公になりにくいし、結果としてイメージが定着しない。たとえば、尊氏は鎌倉幕府の残党を鎮圧したあと、鎌倉で自立する気配を見せる。しかし、それでいて後醍醐の派遣した新田義貞とは戦いたがらない。野心があるのかないのか、傍目にははっきりしないのだ。

 

この漫画では触れられていないが、尊氏が後醍醐の討伐軍と戦わず浄光明寺に引きこもった行動について、中世史家の佐藤進一は「尊氏が遺伝性の躁うつ病だったから」と説明している。この説は『陰謀の日本中世史』で呉座勇一氏が批判しているのだが、いずれにせよ尊氏の行動には信長のように天下布武に向けてひた走るようなわかりやすさはない。

 

マンガ日本の歴史 (19) (中公文庫)

マンガ日本の歴史 (19) (中公文庫)

 

 

結局、後醍醐と尊氏が相容れないため南北朝時代が始まってしまうが、ここを描いているのが19巻だ。ここでさらに自体をややこしくしているのが尊氏と弟の直義の対立(観応の擾乱)で、直義が南朝方と組んだりするので一向に戦乱が収まる気配がない。どの勢力にも大義名分らしいものが何もなく、ただ権力欲だけがむき出しになっている、という印象を受ける(後醍醐には宋学イデオロギーがあるのだが)。とにかくどの勢力にも感情移入できない。これが幕末史だったら倒幕側であれ佐幕側であれ、誰かしら共感できる人物がいるのだが、この時代だとどの勢力にもつきたくないと思ってしまう。あえていえば、楠木正成の終始一貫した勤王ぶりには好感は持てる。尊氏と和を結べと後醍醐に諫言する勇気もあり、現実的な戦略も考えられる人なのに報われないのが悲しい。

 

マンガ日本の歴史 (20) (中公文庫)

マンガ日本の歴史 (20) (中公文庫)

 

 

まったく光のみえない18、19巻を過ぎ、20巻の主人公は足利義満に交代する。この巻は面白い。というのは、義満が「日本国王」になりたがった理由が描いてあるからだ。義満は17歳のときに明との通交を願い使者を派遣したが、天皇の臣下からの使者であるためまったく相手にされなかった。そのことを恨み「日本国王」となるため天皇家から王権を奪取することを願うようになった、というわかりやすいストーリーが展開される。

この巻の義満は、尊氏よりもよほどキャラが立っている。有力守護を分裂させて勢力を弱める政治手腕は狡猾そのもので、義満の政略が尊氏にあれば南北朝時代はもっと早く終わったのではないかと思うほどだ。かと思えば戦陣に立ち敵を追い詰める能力もあり、実に隙がない。ひとりで尊氏と直義の資質をあわせ持っている。最後は太政大臣にまで上り詰めた義満の人生は、将軍権力の確立という点で一貫している。このマンガで描かれているように義満が帝位簒奪まで狙ったかどうかは議論のあるところだが、義満がそのような「怪物」であったと考えるほうが面白くはある。

 

中世史の本は今でも売れ行きが良いらしく、中公新書の『応仁の乱』に続き『観応の擾乱』も好評だ。しかしこうして室町幕府の成立に至る流れをみてくると、その中身は実に混沌としている。どこかに感情移入できるような正義があるわけでもなく、あまり颯爽とした英雄も登場しない。読んでいてなんとなくすっきりしないのだ。だが、それだけにリアルな人間がここに息づいている、ともいえる。むしろそうしたところが人気を呼ぶ原因であったりするのだろうか。先行きの不透明な現代日本を生きる読者からすれば、むしろこのような混迷の時代にこそ現在を重ねることができるのかもしれない。高度成長期の日本のように、司馬遼太郎の書いた「明るい」戦国時代に今を投影できた時代はもうとうに過ぎた。

 

余談だが、このシリーズの感想を検索していたら、歴史作家が勉強のためこのマンガを読んでいるというツイートを見かけた。90年代の頃、大人が電車の中で漫画を読んでもいいのかという議論があった気がするが、今はマンガは学習の手段としても認められているのか、と思うと感慨深いものがある。ちなみに、石ノ森章太郎はマンガは「漫画」ではなくあらゆる事象を表現できる「萬画」なのだと巻末で主張している。それこそあらゆる事象をその中に含む歴史を描くには「萬画」こそがもっともふさわしい表現方法なのだ、という巨匠の矜持の現れだろうか。

陳舜臣『中国の歴史』は中国史入門としておすすめの本

 

中国の歴史(一) (講談社文庫)

中国の歴史(一) (講談社文庫)

 

 

ある国の歴史を知ろうとしたとき、入り口としては概説書と小説があります。

概説書の場合、多くはプロの歴史研究者が書いているので内容の正確さは問題がありません。一方、学者の書く文章は学問としての信憑性を最優先するため、読者からすれば必ずしも面白いものではなく、ときに無味乾燥なものになってしまう、ということもあります。

そして小説の場合、読み物としての面白さはあるものの、フィクションなので内容がどこまで本当かわからないという問題点があります。エンターテイメント性と学問としての正確さ、この両者は両立することもありますし、たとえば宮崎市定の一連の著作などはまさにこのふたつの要素が同居しているものです。しかし、そのような著作を書くのはなかなか困難なものです。

 

その点、この陳舜臣『中国の歴史』は、歴史作家である作者が書いているために文章は読みやすく、登場する人物についても読者の興味を引くようなエピソードを多く取り上げているため、自然と中国史に入り込めるようになっています。人物中心に書かれているため、終わることのない歴史絵巻を延々と眺めているような気分にひたることができます。それでいて内容のレベルも高く、要所要所できちんと史書から漢文を引用し、当時の空気や時代背景、人物の特徴などをできるだけ再現するよう工夫されています。歴史研究においては史料を自分で読むことができ、かつ解釈することができることが大事ですが、中国人の血を引き東洋史を学んでいる著者は漢文の文献資料を読みこなせるため歴史家としても十分な資質があます。それでいて作家らしい情感あふれる文章も随所に差し挟むので、この『中国の歴史』は概説書としての高いレベルを保ちつつ、かつ読み物としての面白さも抜群という、稀有な中国史の本になっています。

 

そして、何よりこの『中国の歴史』を特徴づけているものは、著者の中国史に対する深い愛です。記録というものに熱心で、特に人間を追求することに力を注いできたのが伝統的な中国の歴史叙述ですが、本書もまた人物を中心とした歴史叙述で、時おり各人物への陳舜臣の個人的な好悪が書き込まれることもあります。たとえば、4巻では漢の武帝、唐の太宗などと比べ、宋の太祖趙匡胤は残酷さが少ないため友人に選ぶならこの人だ、と書かれています。このように、作家である陳舜臣の筆は、ときに情緒的になることがあります。しかし、これこそがこの『中国の歴史』の良さであると私は思います。これは学者の書く冷静な歴史書にはないもので、こういう点が本シリーズを読者にとって身近なものにしています。

 

以下、各巻ごとの魅力について紹介します。

 

中国の歴史(二) (講談社文庫)

中国の歴史(二) (講談社文庫)

 

 

中国古代史のハイライトともいえる戦国時代から秦による天下統一、そして項羽と劉邦の楚漢戦争から前漢の時代までを書いています。日本でもよく知られた史実の多い時代ですが、中でも漢と匈奴の争いは有名です。匈奴はもともと月氏よりも弱体でしたが、のちに月氏を破って漠北の覇者となっています。武帝サマルカンド付近に定着した月氏に同盟を呼びかけていますが、月氏はこれを断っています。著者は想像力を働かせ、月氏が同盟を断った理由を、この地域に伝わっていた仏教の影響ではないかと推測しています。もともとミステリ作家として出発した陳舜臣は、ときおりこのシリーズの中でこうした大胆な推理を展開することがあります。こういうところもこの『中国の歴史』の読みどころのひとつです。 

少し時代をさかのぼると、始皇帝が長男の扶蘇焚書坑儒について諫言したことで北方に送られたことについて、これは懲罰ではなく扶蘇の才能に期待していたからではないかとも推理しています。北方を守る蒙恬匈奴に対抗するための30万の兵を持っており、これを監督させるのは秦にとってはきわめて重要な役目です。著者が言う通り、始皇帝扶蘇に大きな期待を寄せていたのかもしれません。扶蘇が趙高の陰謀により自殺に追い込まれなければ秦はもっと長続きしたのではないか、と考えたくなります。

  

中国の歴史(三) (講談社文庫)

中国の歴史(三) (講談社文庫)

 

 

多くの読者が親しんでいる三国志の時代から南北朝時代のはじまりまでを書いています。三国時代は多くの武将が活躍し、曹操曹植が詩人であったように文学も盛んな時代でしたが、陳舜臣は庶民の生活への目配りも欠かしていません。この時代の史書からは庶民の生活は直接うかがえないものの、陳舜臣三国時代を「光のとぼしい時代」と書いています。戦乱が続いていたのだから当然ですが、こうした視点も歴史を見る上で忘れてほしくないと思っていたのでしょう。

三国時代が終わり、普の短い統一期間を経て五胡十六国時代がはじまりますが、五胡のひとつである匈奴の容姿について、この巻では興味深い考察が加えられています。この時代においてはじめて匈奴の容姿が史書に記されるようになったことを指摘したうえで、それまで匈奴の容貌が書かれなかった理由は匈奴が種族名ではなく政治団体の名だからだ、という説を肯定的に紹介しています。多くの種族を配下に抱える匈奴の容貌はばらばらであるから、書けるはずがないというのです。

この匈奴を含む五胡をまとめあげ、華北をほぼ統一した前秦の皇帝・符堅を、陳舜臣は諸民族の融和を目ざした理想主義者として高く評価しています。中華を統一するという符堅の夢は淝水の戦いでの敗北で挫折してしまいますが、このあたりが五胡十六国時代のハイライトといえるでしょう。この時代には彼のような魅力的な人物が多く登場しているので、三国志の「その後」を知りたい方にもぜひ手にとって欲しい巻です。

 

中国の歴史(四) (講談社文庫―中国歴史シリーズ)

中国の歴史(四) (講談社文庫―中国歴史シリーズ)

 

 

唐から五代を経て北宋にいたるまで、ある意味中国史の最も輝かしい時代を書いているのがこの巻です。宋の開祖である趙匡胤が士大夫を優遇した人物であるためか、著者は全体として宋王朝にはかなり好意的であるように思います。酔っ払って寝ている間に天子の服を着せられて皇帝になった趙匡胤にはなんとも言えない愛嬌のようなものが感じられますが、それだけでなく、言論を理由として士大夫を処刑してはならないことを決めた趙匡胤を、陳舜臣はきわめて高く評価しています。

しかし、趙匡胤がそれほど残酷なことをしなくても中華を統一できたのは、すでに後周の世宗が八割型その地固めをしていたからです。この宋の前段階としての五代の時代についてもこの巻ではきちんと書かれています。五代十国時代について扱った本は日本では少ないため、その意味でもこの間は貴重です。この時代は三国時代に匹敵する乱世ですが、唐の滅亡から殺伐とした乱世を経て宋の太平の世が訪れる流れは、読んでいてもどこかほっとするものがあります。宋は契丹や金など北方の民族には常に圧迫されていたものの高い経済力を誇っていたため、この王朝を創った趙匡胤が高評価されるのも当然のことなのでしょう。

 

中国の歴史(五) (講談社文庫―中国歴史シリーズ)

中国の歴史(五) (講談社文庫―中国歴史シリーズ)

 

 

いよいよ草原の風雲児であるチンギス・カンの登場する巻です。モンゴルと南宋との戦いが内容のかなりの部分を締めていますが、陳舜臣はこの時代を代表する二人の詩人として南宋陸游と金の元好問を登場させています。このように文人の目を通して歴史を書くのも、自身が作家であり「文人」でもある陳舜臣ならではの視点です。女真族は中国に入ると急速に中華文明に染まったため、元好問も極めて高い水準の漢詩を作っているのですが、元好問は金末期の詩人であったためにモンゴルの侵入を経験し、金の滅亡をその目で見ています。この巻には金滅亡の半年後に元好問の書いた詩が載っていますが、著者のモンゴルに対する気持ちをこの激しい詩に代弁させているかのようにも思えます。

一方、南宋最後の忠臣である文天祥にも、著者は十分な思い入れを込めて書いています。モンゴルへのゲリラ活動を続け、最後まで決して屈しなかった文天祥陳舜臣は「一個の見事なもののふ」と表現しています。陳舜臣は決してモンゴルをただの野蛮人として書いているわけではなく、フビライの寛容さや開明性にも一定の評価は与えていますが、やはり心情としては中国側をよりよく評価する傾向はあります。対して、モンゴル史家である杉山正明氏はこの文天祥を「あさましい人物」とまで酷評しています。フビライは生きて自分に仕えるよう文天祥に勧めたのに死んで歴史に名を残そうとしたからですが、モンゴルの立場から見ればそうなるのかもしれません。当シリーズの人物評価は中国側に視点を置いたものだということを念頭に置きたいところです。

 

中国の歴史(六) (講談社文庫―中国歴史シリーズ)

中国の歴史(六) (講談社文庫―中国歴史シリーズ)

 

 

この巻では、靖難の変で明の永楽帝が帝位についた頃から清の乾隆帝の頃までを扱っています。中国史とは言っても扱う内容は時に西域にまで及んでいますが、それは永楽帝のライバルとなり得たティムールについて記すためです。この巻の「ティムールの西域」はティムールの生涯を比較的詳しく書いていますが、ティムールの著書が少ない日本においてはこの章は彼の生涯を知るうえで今なお有益です。ティムールはその生涯の最後に明遠征の途上にありましたが、もしティムールと永楽帝が戦っていたらどうなったか?について、陳舜臣はこう予想しています。

 

仮にこの老皇帝の率いる軍隊が、明と戦うことになっても、おそらく勝利は望めないでしょう。即位したばかりの永楽帝は、気力充実した壮年の将軍皇帝でした。その後の5回に渡る親征でもわかるようにきわめて積極的でした。長途の遠征に疲れたティムール軍は、漠北の地に壊滅したにちがいありません。

 

中国びいきと言われればそれまでですが、この推測には一定の説得力があります。このように、学者とちがって歴史のイフを自由に考え、大胆な予測を交えることができるのが作家の書く歴史の面白さです。ティムールのことをわざわざ書いたのは、天才的な武人だったティムールすら破っていたであろう巨大な存在として永楽帝を評価していたからかもしれません。実際、永楽帝鄭和を海外に派遣し、中国における「大航海時代」を演出したスケールの大きな人物でもあったわけです。陳舜臣大航海時代を語る時に鄭和の遠征がオミットされていると指摘していますが、ここに永楽帝の偉業が軽視されていることに対する静かな怒りを読み取ることもできるかもしれません。

  

小説十八史略(一) (講談社文庫)

小説十八史略(一) (講談社文庫)

 

 

以上、すべての巻ではありませんが陳舜臣『中国の歴史』シリーズの魅力について紹介してきました。しかしなにぶん中国史の本なので、これでもまだ固いと感じる読者もいるかもしれません。そういう方には同じ著者の『小説十八史略』があります。こちらは南宋が滅亡した時点でストーリーは終わりますが、オリキャラも交えつつ小説として中国史を読める内容になっています。

 

saavedra.hatenablog.com

なお、三国時代に関しては以前 こちらのエントリを書いていましたが、この中で紹介している『三国志の世界』は講談社の中国の歴史シリーズの中の1巻で、こちらも中国史を学ぶ上ではおすすめのシリーズです。

超高速!参勤交代リターンズ(感想)

超高速! 参勤交代リターンズ [DVD]

超高速! 参勤交代リターンズ [DVD]

 

 

参勤交代の帰りの話なので前作と似たようなストーリーになってしまうのでは……?と思っていたが、前作のような強行軍は話半ばで終わり、途中からは松平信祝陣内孝則)の手先である尾張柳生との戦いになっていた。湯長谷藩を乗っ取る尾張柳生との戦いが後半の見せ所で、むしろ湯長谷藩に戻ってからが本番。とはいえ、中間を雇って大名行列を立派に見せたり、前作同様人数を水増しする苦労も描かれている。湯長谷藩は実在の藩だが、一万国を少し上回る程度の藩でも大名行列には100人くらいは必要らしい。江戸の中間には大名行列のアルバイトを収入源にしている者がいたので、島津久光が参勤交代を3年に1回に伸ばした改革は彼らには不評だった。

 

ストーリーのテンポの良さや内藤政醇と家臣との掛け合いの面白さは相変わらずで、前作の参勤交代の苦労話が楽しめた人ならこちらも楽しめる。政醇の死体の化粧は一体いつしたのかとか、不眠不休で走り続けたのに尾張柳生と互角以上に戦える湯長谷藩士強すぎないかとか、そういうツッコミどころも込みで楽しむのがこの映画。あと、猿が可愛い。

 

湯長谷藩に戻ってからはわりと普通の時代劇になっていたが、参勤交代の話だけしていると前作の繰り返しになってしまうから仕方がないか。政醇の征伐にやってきた松平信祝は信長が着ているような南蛮鎧を着ていたが、江戸時代でもああいうものを着る武士というのはいたのだろうか。井伊の赤備えらしき武士団まで出てきていたが、信祝を守る武士団の盾の使い方などはけっこう本格的。あれをやられたら少人数では絶対に勝てない。では、湯長谷藩側はそこをどう切り崩すのか、それは観てのお楽しみだ。

 

前作同様、構えずに気楽に観られる映画。吉宗が善玉なので必然的に徳川宗春が悪役になってしまっていたが、そこは目をつぶろう。大岡忠相の意外な活躍も見られる。