明晰夢工房

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塩野七生『ギリシア人の物語Ⅲ 新しき力』におけるアレクサンドロス大王の評価について

 

ギリシア人の物語III 新しき力

ギリシア人の物語III 新しき力

 

 

ギリシア人の物語の最終巻となるこの巻では、ペロポネソス戦争が終わり、ペルシアに翻弄されて混迷を深めるギリシアに突如として出現した天才・アレクサンドロス3世の活躍を中心に描いている。塩野氏はこの好戦的で決断力に富む若者がかなり好きなようで、全体としてかなりアレクサンドロス大王には好意的だ。アレクサンドロスを知らない読者にとってはこの稀代の「英雄」の生涯をくわしく知る楽しみが味わえるだろうし、アレクサンドロスの業績を肯定的に捉えたい読者にとっても好著といえるだろう。

 

アレクサンドロス大王という人物を考えるとき、父であるマケドニア王・フィリッポス2世について語ることは避けられない。それは、このフィリッポスこそが徹底した軍事改革を行ってマケドニアを強国の地位に押し上げ、アレクサンドロスの東征の下地を作った人物だからである。フィリッポスが創設した有名な長槍部隊であるマケドニアファランクスはアレクサンドロスの時代にその真価を発揮しているが、5.5メートルもの長さの槍を携えたこの部隊のアイデア自体はフィリッポスの頭脳から出たものだ。フィリッポスの功績はこれだけにとどまらない。開墾を奨励し、パンガイオン山の金鉱をおさえ財政基盤を確立し、ギリシアの内紛に介入して油断なく勢力を拡大している。即位した時点では滅亡の危機に瀕していたマケドニアを、フィリッポスは一代で覇権国家に作り変えた。フィリッポスこそは、ギリシア世界における一代の梟雄だった。

 

このフィリッポスを、この『ギリシア人の物語』ではどう評価しているか。塩野氏はこのように記す。

 

「鳶が鷹を生む」と、日本では言う。フィリッポスは、並の鳶ではなかった。だが、月並の鳶ではなかったからこそ、飛び始めたばかりでまだ荒けずりの、タカの威力を見抜いたのではないだろうか。

 

これは、カイロネイアの戦いでアレクサンドロスが命令を無視し、二千の騎兵を率いてテーベの神聖部隊を全滅させたことに対する評価だ。わずか18歳、しかも初陣にしてテーベ軍の隙を正確に見抜き、戦いを勝利に導いたアレクサンドロスは「鷹」だが、それに比べればフィリッポスも有能であることは認めているものの、「並の鳶ではない」というくらいの評価だ。天才そのものであるアレクサンドロスに比べて、その評価は相対的に低くなっている。

  

 

だが、人物評価というものは時代によって異なる。世界史リブレットの『アレクサンドロス大王 今に生き続ける「偉大な王」』によれば、欧米では1970年代以降フィリッポスの評価が急速に高まっていて、むしろフィリッポスの方こそ「大王」の名にふさわしいのだ、という論調もあるという。マケドニア本国を放置して果てしのない征服戦争を続けたアレクサンドロスより、マケドニアを亡国の危機から救い、富み栄えさせたフィリッポスのほうが偉大な王だというのだ。この見方からすれば、フィリッポスのほうが「鷹」になる。

 

このフィリッポスの高評価は、アレクサンドロスの評価の低下とセットになっている。アレクサンドロスの征服行における残虐さや、跡継ぎを残さなかった政治的失点をあげつらうほど、逆にフィリッポスの隙のないマケドニア統治の良さが浮かび上がるというわけである。古代ローマ時代からすでにアレクサンドロスの評価は戦争と破壊を続けた「暴君」と、広大な地域を征服した「英雄」との評価で二分されているが、『ギリシア人の物語』におけるアレクサンドロス像は、基本的に後者の見方を受け継いでいる。本書におけるアレクサンドロスは戦場の天才であり、有能な専制君主として描かれているので、ネガティブな面はあまり出てこない。イッソスガウガメラにおけるアレクサンドロスの戦術の巧みさと、対するダリウスの無能ぶりの対比も、アレクサンドロスに颯爽とした武人像を期待する読者にとっては小気味よいものだろう。もっとも、これはおおむね事実でもあるし、どの研究者でもアレクサンドロスの軍事的才能については高く評価している。

 

アレクサンドロスの評価について考えるときに避けて通れないのは、マケドニア将兵ペルシア人の娘との合同結婚式だ。このことは、アレクサンドロスが諸民族の融和と共存を目ざしていたことのひとつの証拠であるとされることもある。しかし、実際のところはどうだろうか。塩野氏はこの合同結婚式については「敗者同化と、それによる民族融和が、彼にとっての最大政略であった」と記している。ペルシアにおいては圧倒的な少数派であるマケドニア人が、ある程度ペルシア人とも協調しなければとうていこの地を治めていくことはできなかっただろう。アレクサンドロスが諸民族の平和共存などという高い理想を持っていたのではなく、あくまで現実的な政略として民族融和を選んだというのはそのとおりではないかと思う。

 

興亡の世界史 アレクサンドロスの征服と神話 (講談社学術文庫)
 

 

この集団結婚式において、アレクサンドロスはペルシア王のものを模した豪華な天幕を用意し、ペルシア流の儀礼を採用した。このことについて、『アレクサンドロスの征服と神話』のなかで森谷公俊氏はこう書いている。

 

ペルシア王を軽蔑したはずのアレクサンドロス自身が、今やペルシア王を模倣し、それをしのぐほど豪華な天幕を作らせた。一体なぜなのか。それは、東方諸民族の王として君臨するためである。彼の王権はすでにマケドニア人やギリシア人の枠をはるかに超えていた。目の前にいたのは、これまでアカイメネス朝を支えてきたペルシア人貴族であり、ペルシア人に支配されてきた諸民族である。自分を新しい王として受け入れさせるには、彼自身がペルシア流の豪華絢爛たる儀礼を採用しなければならなかったのだ。

 

ペルシアの地では、ペルシア人にもわかるように王権を視覚化する必要がある。アレクサンドロスは王権の偉大さを表現するための現実的な手段として東方風の儀礼を取り入れる柔軟性はたしかにあった。塩野氏はこのようなリアリストとしてのアレクサンドロスの一面を評価しているのだろう。アレクサンドロスを英雄として書いているからといって、過度に理想化しているわけでもない。

 

このように優れた資質を持つアレクサンドロスではあるが、その一生を追うとき、どうしても彼の負の側面に触れなければならない出来事がある。王の側近であるクレイトスの刺殺事件だ。大王の東方協調路線に不満をつのらせるクレイトスは宴会の場でアレクサンドロスを公然と非難し、これに怒った大王がその場で彼を槍で刺し殺してしまった、というものである。澤田典子氏は、先に挙げた『アレクサンドロス大王 今に生き続ける「偉大な王」』のなかで、この事件の核心はアレクサンドロスの父フィリッポスに対するコンプレックスであると説く。クレイトスはアレクサンドロスを非難するとき、父フィリッポスの功績はすべてアレクサンドロスにまさるものだと言った。アレクサンドロスはクレイトスにフィリッポスの影を見たというのである。

澤田氏は、アレクサンドロスの東征そのものも、偉大だった父を超えたいという思いに支えられていたと書いている。彼が父へのコンプレックスに突き動かされてあの大帝国を作り上げたとするなら、アレクサンドロスとは成功した武田勝頼のような存在だったのかもしれない。だが、こうした生々しい大王の一面は『ギリシア人の物語』では描かれることはない。クレイトスとアレクサンドロスの対立は、あくまでペルシア人との融和政策をめぐる争いとして書かれている。どちらがほんとうの大王の姿か、想像してみるのも面白いだろう。

 

このアレクサンドロスの東征は、インド王ポロスとの戦いに勝利してなお進軍をやめようとしなかった王への兵士たちの従軍拒否で終わった。多くの犠牲を強いつつ続けられた東征への兵士たちの不満が、ついにここで爆発したことになる。アレクサンドロスがどこまで征服する気だったかはわからないが、より慎重な支配者だった父フィリッポスが生きていて東征を行っていたならインドまで足を伸ばすことはなかっただろう、と言われることがある。彼ならペルセポリスを占領した時点で征服行を止めていたかもしれない。しかしその場合、後世への影響力はアレクサンドロスほど大きなものにはならなかっただろう。

塩野氏はこの『ギリシア人の物語Ⅲ 新しき力』の二章を「なぜアレクサンドロスは、二千三百年が過ぎた今でも、こうも人々から愛され続けているのか」という問いで締めくくっている。その答えは、彼が多くの部下に反発され、ときに暗殺の危機すら迎えてもなお東征をやめようとしなかったほど一途で頑固な性質の持ち主だったから、という気がする。地の果てまでも征服しようとし、時に無謀とすらいえる冒険行に乗り出したアレクサンドロスだからこそ、そこに後世の人々が自分の夢を投影できるのだ。冷静で現実的だったフィリッポスでは、もし彼がもっと長生きしていれば、と想像をかき立てることはむずかしい。あくまで結果論であるとはいえ、ギリシア人の活動範囲が大きく広がり、バクトリアの地にアイ・ハヌム遺跡を残すほど広範囲にギリシア文化が拡散したことも、アレクサンドロスの活動範囲が極めて巨大だったことによる。そうでなければ、後世の人間が憧れ続ける存在にはなれない。

 

以上見てきたように、基本的に『ギリシア人の物語』におけるアレクサンドロス大王像は「偉大な王」だ。先にも書いたとおり、近年アレクサンドロスの研究者はかなり彼のネガティブな側面にも光を当てているのだが、なぜ本書ではアレクサンドロス大王は古典的ともいえる英雄として書かれているのか。もちろんその方がエンターテイメントとして楽しめるからというのはあるだろうが、より大きな理由として、塩野氏の愛してやまないユリウス・カエサルの言葉がここには関係しているかもしれない。

 

ローマ人の物語〈8〉ユリウス・カエサル ルビコン以前(上) (新潮文庫)

ローマ人の物語〈8〉ユリウス・カエサル ルビコン以前(上) (新潮文庫)

 

 

ユリウス・カエサルはスペイン属州に赴任したとき、アレクサンドロスの伝記を読んで「今の私の年齢で、アレクサンドロスはすでにあれほど多くの民族の王となっていたのに、自分はまだ何一つ華々しいことを成し遂げていない。これを悲しむのは当然ではないか」と嘆いたという。塩野氏は『ローマ人の物語』で上下二巻もカエサルに費やすほどのカエサルびいきだ。塩野氏がローマ一の傑物と評価するカエサルが称揚するアレクサンドロス大王は、やはり偉大な人物であって欲しい、ということではないだろうか。そして実際、アレクサンドロスカエサルが憧れるほどの巨人ではあった。

 

アレクサンドロス大王東征記〈上〉―付インド誌 (岩波文庫)

アレクサンドロス大王東征記〈上〉―付インド誌 (岩波文庫)

 

 

ローマ人の物語の「前史」ともいえる『ギリシア人の物語』は、アレクサンドロスの退場によって幕を閉じた。アレクサンドロスの死後、その大帝国はすぐさま分裂し、マケドニアはヘレニズム国家のひとつとしてしばらく生きながらえる。フィリッポス2世が作り上げ、アレクサンドロスが発展させたファランクス部隊は紀元前197年、キュノスケファライの戦いにおいてローマのレギオンに敗れ去った。アレクサンドロスの後継国家のひとつとしてのマケドニアは程なくして滅亡するが、稀代の英雄としてのアレクサンドロス大王の存在は長くローマ人を魅了し続け、ローマの武人アッリアノスに彼の伝記を書かせることになる。我々が現在大王の東征について知ることができるのは、アッリアノスが『アレクサンドロス大王東征記』にその詳細を記してくれたからである。プルタルコスもまた『英雄伝』においてアレクサンドロスについて記している。ギリシアが生んだ英雄の人生は、ローマ人によって後世に語り継がれ、ローマ人にとっての英雄であり続けた。ローマ史を学んだ塩野氏がアレクサンドロス伝を書くことになるのは、必然だったのかもしれない。

骨無しチキンの楽園

はてなブックマークをなくすべきだとかなくすべきでないだとかいう議論を目にしましたが、まあ、1ユーザーがどうこう言ったところで結局なくなりはしないだろうし、多少仕様に変更が見られたとしても、1年後も大して代わり映えのしない光景が繰り広げられてるんでしょうね。あいかわらずネガコメがあちこちで見られるだろうし、政治やジェンダーの話題では皆が喧々諤々やってるんだろうし、クラスタの人たちはお互いにブクマ付けあって心にもないおべんちゃらを並べてるんでしょう。

 

で、こちらとしてはそういう場所からはなるべく距離を取りたいって思うだけですね。はてなブックマークは攻撃的な人も少なくないけれど、趣味で好きな本のことを書いている分にはそうそう変な人も来ないし、己の領分を越えて旬の話題にひとつ噛んでやろうと思いさえしなければこれと言ってひどい目にも合わないし、感情の地雷原みたいなところを避けて通ればネガコメなんて他人事。こっちにはなんにも関係ない。

 

……っていいたいところなんですけど、こんな泡沫ブログにすら、たまに暴言吐いてくる人っているんだよね。普通に本の感想を書いてるだけでも「誰にでも書けるようなことばっかり書きやがって」だとか、ついでに人間のクズだのと罵倒していったりとか。ちょっと興味が出たんで、その人にidコールしてわざわざ1エントリ立てて反論したんですけど、なにも返事がなかったですね。そしたらその人、次の日からターゲットを変えて別の人に粘着してんの。しょせん反撃してくる相手にはなにも言えない骨無しチキンなんだよね、こういう手合ってのは。そいつは数ヶ月したらアカウント消えてましたけど、罵倒ばっかしてたから誰かが通報したんだろうね。

 

こういう手合の特徴として、とにかく覚悟ってものがない。殴ったら殴り返されるかもしれないという計算すらしてない。覚悟があったら暴言を吐いていいというわけではないけれど、なんで暴言を吐かれた相手がやり返してくる可能性すら考えてないのか。ちょっと人間ってもんを舐めすぎてやしませんか、って話なんですよ。別に私のこのブログだって、加害性が皆無とは言わない。基本取り上げる本は褒めてますけど、『嫌われる勇気』はかなり批判しましたからね。ただ、そういうときはこっちはあの本が好きな人から叩かれるだろうなと覚悟くらいはしている。でも、この手のブクマカって、クソコメをつけたらその時点でもうリングに上ってしまってるって自覚すらない。もうそこは外野じゃないんだよ。人に文句垂れた時点で当事者になってるの。

 

今のはてなブックマークについて思うのは、こういう安全圏から罵倒だけ投げつけて去っていきたい骨無しチキンが生息するのにはずいぶん都合のいい場所になってるんだろうな、ってことですね。変なコメントがひとつくらいならidコールして反論するのも大した手間ではないけれど、数が集まるといちいち相手するのも面倒だし、多数で叩くブックマーカーと叩かれる側の間に大きな非対称性があることは確かです。そこまで大勢に叩かれるような経験をしたら、私もはてなブックマーク廃止論を唱えたりするかもしれませんね。これはポジショントークそのものですけど、別にポジショントークしたっていいんですよ。世の中私はなんのポジションもとってない中立地点から話をしてます、というスタンスを取る人ほど信用できない人はいないから。

 

いや、私にしても炎上というか、大勢のブックマーカーに批判を受けた経験がないでもないですけどね。もうだいぶ前の話ですけど、はてなダイアリーで日記を書いていた頃にははてなの有名論客にこっちが言ってないことを言ったことにされ、その人に影響されたブックマーカーがいろいろ言ってきましたね。それでもブクマなんて無くしちまえ、と思わなかったのは、私が扇動したブロガーの方に問題があると思ってたからでしょうね。まんまと誘導されて突っ込んでくるファンネルみたいなブクマカは鬱陶しいけどしょせんは小物で、どうでもいい存在だと思ってましたから。ところで、そのブロガーは某掲示板で誹謗中傷の限りを尽くしていたことが暴露されて表舞台から消えました。私を攻撃してくる人は失脚する運命にでもあるんですかね。や、人の中傷ばっかりしてる輩は遅かれ早かれそうなるというだけのことだろうけれど。

 

私ははてなブックマークをなくすべきだとは思わないし、そもそも改善できる見込みもないだろうと思ってはいるけれど、これって結局サービスを使う側だからなんですよね。はてなの中ではてなブックマークは必要か?って聞くのは全米ライフル協会に銃って必要なんですか?と聞くようなものだし、大多数の人は必要だって答えるでしょう。でも、はてな外の人からだったらまた別の答えが聞けるかもしれませんね。あるプログラマの人が、はてなブックマークで辛辣なコメントを書かれて傷ついたとツイッターで書いてるのを見かけましたけど、その人を慰めてる人が「あそこは変な人が多いから気をつけたほうがいい」と言ってましたよ。外から見た印象なんてそんなものかもしれませんね。ネガコメを書くのも表現の自由だというならば、それに対する批判もまた受け入れなければフェアではありません。

直木賞候補作家・上田早夕里の『夢みる葦笛』はSF初心者にもおすすめできる短編集

 

夢みる葦笛

夢みる葦笛

 

 

上田早夕里『破滅の王』が第159回直木賞の候補に選ばれた。こちらは歴史小説だが、最近SFが読みたい気分だったので同じ作者の『夢みる葦笛』を先に読んでみた。これはSF短編集だが、『破滅の王』に出てくる上海自然科学研究所を取り上げている作品もあるので、こちらを先に読んだ人も興味深く読めるのではないかと思う。

 

私はSFに関しては「雰囲気だけかじりたい」という読者で、自然科学には暗い。ある程度その方面に興味は持っていても、科学の素養が必要とされるようなハードSFを読んだりしてもよくわからない。この『夢みる葦笛』は、そういう読者でもすんなりと読め、かつ文学的な味わいも楽しめる短編集に仕上がっている。かといってSF色が薄いわけではなく、取り上げられているネタはメタンを餌にする地球外生物人工知能を搭載した猫、滅びつつある地上の文明……などなど、SF心をくすぐるものばかりだ。前半の作品は伝奇色の強いものもあるので、ホラー好きな読者も楽しめる。

 

以下はそれぞれの作品についての短評。

 

『夢みる葦笛』:人間よりはるかに優れた歌唱能力を持つ生物「イソア」が繁殖する未来。主人公の友人はイソアの能力に惹かれていき、やがてある決定的な選択をするが、これもミュージシャンとしては「幸せな結末」といえるだろうか。ストーリーはまったく違うが、芥川龍之介地獄変』を思い出した。

 

『眼神』:SF風伝記といった趣の作品。主人公の幼馴染は「マナガミ様」の託宣を伝える能力を持っているが、実はマナガミ様の正体は……という話。ぞくりとする読後感が残るので夏に読みたい。

 

『完全なる脳髄』:「シム」と呼ばれる認識機能を制限された主人公が完全な人間になることを求めるストーリー。主人公が「シム」になった背景がおぞましい。ここでは人間の暗部が強調されている。完全な心を手に入れることは、果たして幸せだろうか。

 

『石繭』:ホラー掌編。たとえ子供を残せなくても、このような形で「自分」を受け継いでもらえるなら、それもひとつの幸せの形といえるだろうか。

 

『氷波』:土星の衛星で活動する人工知性が主人公。土星の環でサーフィンをするという美しい場面がイメージとして湧き上がる。感情を持たない人工知性しか出てこないのに、全作品中もっともリリカルに感じられる。悲劇的な作品が多い中、明るく締められているのも印象に残る。

 

『滑車の地』:地下都市が地上に投棄する廃棄物がつくった「冥海」から這い上がってくる泥棲生物と戦い続ける地上の人類、という設定だけでもう100点。この絶望しかない世界に現れた獣人の少女が最後にとった行動とは何か?悲劇的状況の中でも最後まで希望を手放さない人間の奮闘ぶりが心地よい。

 

『プテロス』:地球からはるか遠い星に生息する不思議な浮遊生物プテロスの観察日誌。ノンフィクション風味でもあり、見知らぬ生き物の生態はそれを記すだけでドラマになるということを教えてくれる。

 

『楽園』:恋人一歩手前くらいまでの仲になった故人女性の電子データを仮想人格として保持し続ける主人公。彼は彼女と身も心も一つになるため、ある一つの選択をする。生物学的には生きていなくても、このような形で故人を生きていると感じられるなら、それもひとつの「楽園」か。この短編は『SF JACK』にも収録されている。

 

 

 

『上海フランス租界祁斉路320号』:『破滅の王』でも取り上げられている上海自然科学研究所の研究者が主人公。主人公は実在の人物で、史実通りであれば主人公の未来は暗いが、この世界は実は──という話。シュタインズゲートが好きな人なら特に気に入りそうなストーリーだ。

 

『アステロイド・ツリーの彼方へ』:小惑星探査機を操縦する主人公と人工知能を搭載した猫との交流を綴る。この猫にはある秘密があるが、こういうものを作るのがマッドサイエンティストの面目躍如というところ。こういう存在を果たして生物と呼びうるか、それはひとえに人間の側にかかっているという問題意識が『楽園』とも共通している。

北方謙三『チンギス紀』はモンゴル考古学者・白石典之の研究を参考にしている?

 

チンギス紀 一 火眼

チンギス紀 一 火眼

 

 

水滸伝』から『楊令伝』を経て『岳飛伝』に至る壮大なサーガを語り終えた北方謙三が次に挑むのがチンギス・カンの生涯。1巻の時点では主人公テムジンはわずか14歳でしかなく、弟を殺してしまったために故地を逃げ出し遠く金国へと赴いている。生涯のライバルとなるジャムカも早くも登場しているが、このペースだと完結はだいぶ先のことになりそうだ。

 

いつも通り、徹底的に無駄を削ぎ落とした北方謙三の独自の文体は本作でも健在で、一人砂漠をゆくテムジンに馬泥棒が襲いかかってくる場面からスタートする1巻は「ハードボイルド時代劇」としての色合いが濃い。チンギスの股肱の臣であるボオルチュはまだほんの子供で、テムジンに付き従う従者のような存在として書かれている。この巻はまだほんの序章でストーリーはあまり動いていないが、注目すべきはのちにチンギス・カンとなるテムジンが金国で漢文化の素養を身につけ、高い文化を吸収していることだ。

 

saavedra.hatenablog.com

テムジンは金国で妓楼を経営する男に気に入られ、護衛役を任されているのだが、この男に史記を読むように勧めらている。テムジンは金国では鍛冶屋の工房も見ているのだが、これはのちにチンギスが鉄製の武器をつくってモンゴルの軍事力を強化することの伏線かもしれない。モンゴル考古学者の白石典之氏はその著書『チンギス・カン "蒼き狼"の実像』のなかでモンゴルのアウラガ遺跡に鉄工房が存在したことを紹介しているが、物語上チンギスはここではじめて鉄が鍛えられる現場をみたことになる。これはもちろんフィクションなのだが、のちにチンギスが金を攻めたときに鉄資源を求めて戦っていたことは事実だ。

 

一方、ジャムカの方はといえば、モンゴル高原において素朴な遊牧民としての生活をしていて、近隣の部族との戦争に明け暮れている。金国を旅し、西夏にまで足を伸ばしているテムジンとは視野の広さが違う。この見聞の広さの差が、のちに両者の明暗を分ける原因となるのかもしれない。ジャムカはテムジンの一族とは別のモンゴル国なのだが、テムジンの一族は本書ではキャト氏と書かれている。このキャト氏という言い方は上記の『チンギス・カン "蒼き狼"の実像』で始めて見たのだが、本書はこれを踏まえて書かれているのかもしれない。白石氏の著書にはモンゴル族は遊牧だけでなく農業をおこなっていることもあったと書かれていたが、チンギス紀にも農業をする遊牧民が出てきている。

 

digital.asahi.com

モンゴル史学者の杉山正明氏は、チンギスがカンに即位するまでの人生はほとんどわからないと言っている。『元朝秘史』などの内容はほぼ創作と言っていいものらしい。つまり、現在『チンギス紀』が書いている時代のチンギスの人生は自由に創作できるということだ。本書に出てくるテムジンは漢文を読みこなし、金や西夏などの文明国の実態を知る知性的な男だ。この男が父イェスゲイを殺され、勢力を失ったキャト氏族をどう立て直し、モンゴル高原に覇権を打ち立てるのか。なにしろテムジンがチンギス・カンと称した時点で、彼はすでに40歳を過ぎている。この物語のペースだとそこにいたるまで10巻分くらい必要になる気がするが、チンギスの人生はそこからさらに21年も続いていく。完結するまでに何年かかるだろうか。上記の記事では『チンギス紀』は完結まで15巻程度を見込んでいると書かれているが、本作は取り扱う地理的なスケールにおいては、むしろ北方水滸伝を上回る大作になりそうだ。

 

以下は自分用のモンゴル高原各部族のメモ。

 

キャト氏(モンゴル族):テムジンの一族。父イェスゲイが殺されたため部族の大部分のものがタイチウトの保護下に入ったが、テムジンの母ホエルンは息子たちとともに一族を守っている。

 

タイチウト氏(モンゴル族):イェスゲイを失い勢力の衰えたキャト氏を保護下に入れるが、その内部はあまりまとまりがない。長のひとりであるタルグダイはモンゴル族をひとつにするためホエルンに求婚した過去がある。

 

ジャンダラン氏(モンゴル族):モンゴル族の中では孤高の雰囲気のある一族だが、今は大勢力のメルキトに従っている。族長カラ・カダアンの息子ジャムカはメルキトに従う父が気に入らない。ジャムカの独立不羈の気質からして、いずれテムジンとの対決も不可避か。

 

メルキト族:モンゴル高原では大勢力を持つ一族。長のひとりトクトアはジャムカの将来性を認め、一人前の男として扱う。いずれジャムカと戦う運命か?

 

バルグト族:バイカル湖付近に居住する一族で、この部族出身のホーロイが客分としてジャムカのもとにとどまっている。

中公文庫『日本の歴史』の面白い巻をおすすめしてみる

古いながらもいまだに多くの人に愛読されている中公文庫『日本の歴史』シリーズ。日本史の入門書として紹介されることも多いし、実際に内容は充実しているのだが、この詳しさが逆にこれから手に取る人をたじろがせる原因になるかもしれない。もっと簡潔な日本史の概説なら岩波新書の日本古代史や日本中世史、近世史や近現代史のシリーズが刊行されているし内容的にもこちらが新しい。それでもなお、このシリーズは手に取るだけの価値がある。以下に、今まで読んだ巻の中から魅力的な部分をピックアップしてみる。

 

日本の歴史 (7) 鎌倉幕府 (中公文庫)

日本の歴史 (7) 鎌倉幕府 (中公文庫)

 

 

中公の日本の歴史が名著と言われるのは、それぞれの巻を当代一流の学者が執筆していて内容にも偏りが少なく、各時代の政治史や経済史、文化史までひととおり押さえていて読みやすさにも配慮されているからでもある。たとえばこのシリーズ中でも名著と言われる『鎌倉幕府』の冒頭はこうだ。

 

ちょうどこのころ、国府の南方10キロほどの北条の村あたりから、突然一隊の騎馬武者たちがあらわれた。身なりもととのわぬ田舎武者の一群だが、ヨロイカブトに身を固め、完全武装でしきりとやせ馬を急がせている。まっすぐ大路を北上して国府へ駆けさせるのかとみえた一隊は、原木の村をすぎ、牛鍬から東南の山麓へと曲がる小道をえらび、山木の村の南方、小だかい丘の上に立つ山木判官兼隆の館へと殺到した。

 

このくだりなど、ほとんど小説的ですらある。おそらく編集者がかなり読者が入り込みやすい文章にするよう配慮したのだろう。もちろん本書はずっとこの調子で書かれているわけではなく、東国武士の生活や経済基盤、国府との関係などアカデミックなこともきちんと書かれている。書物としての読みやすさと学問としての水準の高さを両立させた、概説書の一つの理想の姿がここにはある。これが、いまだにこのシリーズが版を重ねている理由のひとつだろう。

 

日本の歴史〈10〉下克上の時代 (中公文庫)

日本の歴史〈10〉下克上の時代 (中公文庫)

 

 

こういう特徴があるため、最新の学説が反映されていないという弱点はあるものの、このシリーズは安心して読める。『応仁の乱』『観応の擾乱』など、なぜか中世を扱った新書が人気の昨今だが、室町時代の混乱期を知りたい方におすすめなのは『下剋上の時代』だ。本書の冒頭に書かれているとおり、この時代には英雄は登場しない。しかし足軽のような庶民が戦場の主役になるなど、次なる時代への胎動は確実に感じられる。こういう時代の面白さは庶民の生活を知ることにある。

本書で強調されているのは、とにかくこの当時の庶民の生活は悲惨なものだったということだ。寛正の大飢饉では京中の餓死者が八万人にものぼり、地獄のような有様だった。人身売買も横行し、食い詰めた農民が自ら身売りする様子も書かれている。農村共同体から弾き出された流民も多く、路傍のいたるところに物乞いがいたことも史料に現れている。こういう時代の本が売れるのはどうしてだろうか。格差が広がり、少子化の進む社会をリセットするため室町期のような混乱への期待が高まっているのだろうか。それはわからないが、この時代にはある種の奇妙な魅力があることは確かだ。

 

日本の歴史〈9〉南北朝の動乱 (中公文庫)

日本の歴史〈9〉南北朝の動乱 (中公文庫)

 

 

少し時代をさかのぼり、『南北朝の動乱』を読んでみると、戦闘方法の変化について興味深い記述がある。鎌倉時代とはちがい、この時代には歩兵が台頭している。鎌倉中期以降、畿内周辺に出現した悪党や溢者たちは多くの歩兵を抱えており、ゲリラ戦術を得意とした。足軽も戦闘員として活用されるようになるため、槍が武器として活用されるようになってくる。新田義貞が馬を射られて深田にはまりこみ最後を遂げたように、馬を射るということも普通に行われるようになってきたため、馬の動を保護する「馬甲」も登場している。戦いが射戦から接近戦に変わったため兜が深くなるなど、戦国時代の戦い方の萌芽がこの時代に見られる。このシリーズはとにかく記述量がおおいため、こういうことも余すところなく書いているのがいい。南北朝時代は政治史も面白いが、こういう社会の変化にも注目してみたい。

 

日本の歴史 (6) 武士の登場 (中公文庫)

日本の歴史 (6) 武士の登場 (中公文庫)

 

  

さらに武士の誕生までさかのぼってみると、ここには意外な武士の姿が描き出されている。江戸時代における「武士道」とは異なるものの、すでにこの時代に武士のあるべき姿というものが書物に登場していることがわかる。たとえば平維茂は藤原諸任を討ったとき、敵方の女性は辱めることなく、諸任の妻も保護したという。武士は勇敢であることが求められるだけでなく、女性に対し紳士的であることも名誉になる。このような武士の理想像を、本書では「日本の騎士道」と称している。これが理想として掲げられているからには武士の実像はこうでなかった可能性も高いが、そのような価値観が「武士道」が成立するはるか以前から存在していたということには興味を惹かれる。

 

日本の歴史〈11〉戦国大名 (中公文庫)

日本の歴史〈11〉戦国大名 (中公文庫)

 

 

戦国時代を扱ったこの巻はかなり本格的な内容といえる。武田信玄伊達政宗など各地の地方大名について一通り解説したのち、戦国大名の家臣団の構造や軍事力についても史料をあげつつ解説しているからだ。家臣団の構造は一番多く史料の残っている後北条氏のものを解説しているが、北条氏康の時代には五人の家老の旗指物が黄・赤・青・白・黒の五色に分かれていて「五色備」と呼ばれていたことも書かれている。軍記物や小説などの脚色ではなく、『小田原旧記』というきちんとした史料にこのことが書かれているというのだから面白い。この色の区別によって、氏康は遠くからでも自在に自軍を指揮することができたのだという。氏康が名将と言われる所以だ。軍役帳に明記されている上杉謙信の動員兵力が5400人程度であることなど、戦国マニアも満足できる情報も載せられている。プロが史料を駆使しつつ当時の戦争や社会を描き出す様子を読めるのが、歴史を学ぶ醍醐味だ。

  

日本の歴史12 - 天下一統 (中公文庫)

日本の歴史12 - 天下一統 (中公文庫)

 

 

地方の戦国大名を扱ったのが前巻だが、この間では織豊政権について扱う。古い時代の概説では本能寺の変はどう説明されるのかと思い読んでみれば、ここでは光秀と足利義昭との関係性について触れられていた。つまり、 義昭と信長を仲介する形で登場した光秀にとり、信長が義昭を追放してしまうと信長との関係性は微妙なものにならざるをえない、というのだ。信長は毛利を討伐する立場であり、その毛利は義昭を保護している。となると、光秀が旧主である義昭にまだ忠義を感じていたなら、信長との間に不和が生じるのも仕方がないかもしれない。光秀が天下への野心を持っていた可能性も指摘されているが、天正の武士が天下が欲しいと望むのは山があるから山に登るというのと同じようなものだ、とも書かれている。結局、光秀が本当に何を考えていたのかはわからない。呉座勇一氏によれば歴史家にとっては光秀の謀反の動機はそれほど重要ではなく、本能寺の変によって歴史がどう変わったかが重要であるそうなので、あまりこのあたりのことを突きつめて考えても仕方ないのだろうか。いずれにせよ、他の巻同様に内容は非常に詳しいので、織豊政権の流れを抑えるには使える一冊だ。

 

日本の歴史〈14〉鎖国 (中公文庫)

日本の歴史〈14〉鎖国 (中公文庫)

 

 

この巻は「世界史の中における日本」という位置づけの本で、戦国~江戸初期の日本と海外の交易やイエズス会との関わりなどが主な内容。よく、鎖国をしていなければ日本人はもっと海外へ雄飛していたといわれるが、実際のところどうだろうか。その可能性について考えるためのヒントが、本書の日本人町の章に書かれている。確かに東南アジア諸国には日本人町が存在し、山田長政のように多くの日本人が海外で活躍していたのだが、日本人の多くは故郷へ帰りたがり、また婦人を伴っていないため現地の女性と結婚していたそうだ。つまり、日本人の2世3世はすぐに現地人と同化してしまう。人口が圧倒的に多く日本移民をしのぐ勢いを持っていた中国人や、国家のバックアップを得て組織的に発展したヨーロッパ人移民のようにはいかない。当時の国際情勢を考えれば、鎖国していなくてもあまり日本人移民の将来に過大な夢を見ることはできなさそうだ。イギリス移民が北アメリカに根を張ることに成功した要因は家族ぐるみで移住したことにあるそうだから、やはりそこからして日本人とは違う。

 

日本の歴史〈18〉幕藩制の苦悶 (中公文庫)

日本の歴史〈18〉幕藩制の苦悶 (中公文庫)

 

 

平和な時代だが、『幕藩制の苦悶』も地味に面白い。いやむしろこのシリーズで一番面白いまであるかもしれない。天明の大飢饉から筆を起こしているのは、やはり幕府の衰退がこの出来事に起因するという見方からだろうか。菅江真澄の記録している飢饉の様子は実に悲惨なものなのだが、仙台藩のように米価が高くなるのに乗じて民を犠牲にしながら米を売って設ける藩まで出てきている。飢饉とは人災なのだ。一方、伊奈忠尊のような能吏が出て江戸の窮民を救っていた史実もあり、飢饉の害を放置して建築にうつつを抜かしていた足利義政の時代からは格段に進歩していることがわかる。

飢饉から打ちこわしが起き、世情が騒然とする中で老中の座についたのが松平定信だ。教科書的には「寛政の改革」と言われる改革の中身も、その実態を知ってみると興味深い事実がいくつも出てくる。女髪結や飯盛女までが風俗を乱すと禁止される中、民を監視するために市中に放った隠密が賄賂を取って取締をゆるめたりするため、隠密に隠密をつけることまで行われたという。性交すらも子孫を残すために必要だから行うだけ、というほどに禁欲的な定信時代の反動として化政文化の実りがあるのだとすれば、この堅苦しい人間性が江戸後期に与えた影響力は実に大きなものだったということになる。

  

日本の歴史〈19〉開国と攘夷 (中公文庫)

日本の歴史〈19〉開国と攘夷 (中公文庫)

 

 大河ドラマの影響で、やはりこの時代なら西郷の姿を探したくなる。本書では第一次長州征伐の軍賦役になった西郷にスポットを当てているが、結局西郷は長州藩とは戦わなかった。その理由として、若い頃に西郷が農政を担当していたことや、沖永良部島で島民の実情を知ったことがあげられている。戦争となれば莫大な費用が必要となり、その負担が農民にのしかかることを避けたということだ。ここで「戦わずして勝つ」ことを選んだ西郷の選択は民の立場を第一に考えた妥当な選択だったように思えるが、次巻においてはこうしたいかにも包容力に満ちた西郷とはまた別の西郷の姿が描かれることになる。

 

日本の歴史〈20〉明治維新 (中公文庫)

日本の歴史〈20〉明治維新 (中公文庫)

 

 

今年の大河ドラマ西郷どん』の時代考証を務める磯田道史氏は、ドラマ中でいずれ「ブラック西郷」が描かれることになると話していた。そんな西郷の一面が読めるのがこの巻である。「西郷の大陰謀」と題した章では西郷が徳川慶喜に対して仕掛けた策が詳述されているが、それが何かはドラマのネタバレになるのでここでは書かない(有名なことではあるが)。情に厚く、奄美大島への島津の苛政に怒っていた西郷でも敵に対してはこうも冷酷になれるのか、と思う場面だ。ドラマではまだただのお人好しを脱しきれいていない西郷がいつからこういう人物に変貌を遂げるのか、もドラマの見どころの一つになるだろう。

本書は西南戦争で幕を閉じるが、この本で紹介されている西郷の理想を見る限り、西郷と大久保の対決はほぼ不可避であったように思える。版籍奉還ののち、西郷が薩摩藩でおこなった藩政改革の結果は、下級士族による軍事独裁だった。農民の地位はなにも変わらず、かつてひどい搾取だと腹を立てた奄美大島での砂糖の専売もそのまま継続している。本書ではこのような西郷を「心情的にも政治思想的にも、下級武士の立場を基本的には脱却できなかった」と評している。西郷は薩摩の門閥の実験を奪うことには成功したが、それ以上の改革は望んでいなかった。結局、西郷にとっては郷中の仲間のような士族こそが大事だったということだろうか。士族の既得権を奪おうとする中央政府と、中央政府をも薩摩藩のように改革しようとする西郷とは、しょせんは相容れない存在だった。

余談になるが、この巻の古本に挟んであった小冊子には、著者と司馬遼太郎の対談が載っている。司馬遼太郎は当代一流の学者とも並ぶ知識人扱いされていたことがよくわかる。このことが現代の史家に「司馬作品と史実を混同しないで欲しい」と嘆かせる原因にもなっているのだが、こういうところから司馬遼太郎の影響力を知ることができるのは面白いものだ。

 

このシリーズを通して読んでいて感じるのは、日本史のスタンダードな概説を作る、という強い意志だ。一冊一冊が分厚いのは、政治史から経済史、文化史までこれさえ読めば一通り押さえられる、というものを目ざしていたからだろう。それだけに、どの巻も読みごたえがある。ここに紹介していない巻でも、興味のある時代の巻は一度手にとって見て欲しい。読んでみれば、このシリーズがいまだに読みつがれている理由がよくわかるのではないかと思う。

シリーズ日本古代史5『平安京遷都』に見る武士の起源

 

平安京遷都〈シリーズ 日本古代史 5〉 (岩波新書)

平安京遷都〈シリーズ 日本古代史 5〉 (岩波新書)

 

 

平安時代は今ひとつ日本人にとってなじみがない。時代区分で言えば「古代」なのだが、普通は古代と言って思い浮かべるのは古墳時代飛鳥時代であったりするし、平安時代のことはあまり頭には浮かばない。源氏物語だとかの王朝文学は有名でも、この時代に強い愛着を持っている人はそれほど多くないのではないかと思う。その理由はなにか。本書の「はじめに」に書いてあることが、そのひとつの答えになるかもしれない。

 

今の衣冠の制度は、中古の唐制を模倣したまま現在に至り、「軟弱」のありさまとなっている。朕ははなはだこれを嘆く。そもそも神州を「武」によって治めることは、もとから久しく行われてきたことである。天子がみずから元帥となれば、民衆もそのあり様をまねするだろう。神武天皇のときは、決して今日の姿ではなかった。どうして一日たりとも「軟弱」な姿をもって天下に示すことができようか。朕は、今、断然として服制を改め、その風俗を一新し、皇祖以来の「武」を尊ぶ「国体」を立てようと思う。

 

これが、明治四年の敕で明治天皇が言っていることだ。つまり、平安朝以来の「軟弱な」服装などの貴族文化は捨て去るべきものであるという認識である。理想とすべき過去は天皇が自らリーダーシップを取っていた飛鳥時代奈良時代、あるいは神武天皇が活躍していた神話の時代であって、藤原氏に政治の実権を握られていた平安時代などは忘却するべき時代だということになる。文化面においても、正岡子規紀貫之古今和歌集はくだらない歌集だと断定し、万葉集を高く評価した。このような明治の平安時代の評価を、現代人も引きずっているのかもしれない。

 

 しかし、まさにこの時代にその後の日本史を大きく左右するものが誕生している。戦前の日本を席巻した「神国日本」という考え方もそうだし、なにより重要なのはこの時代に武士が誕生していることだ。武士の誕生については地方の荘園経営者が自衛のため武装したものという見解と、平安京の治安維持のため誕生したという見解とがあるが、本書では後者を支持している。これは武士を職能のひとつとして考える「職能性的武士論」だ。

 

武士が職能なのであれば武勇に優れていれば武士になれることになるが、実はそう単純なものではなかったらしい。武士と認知されるには、武士の家に生まれることが必要だ。つまりは源氏と平氏なのだが、なぜその家系に限定されるかというと、平将門の乱を鎮圧したのがこのふたつの家系だからと本書には書かれている。武門の血を引いていないと、この時代では武士とは認められない。

 

本来都で生まれた武士たちが、その技量を磨いたのは辺境の地だった。すなわち蝦夷との戦争だ。東北では砂金が発見され、また質の良い馬や海産物、鷹の羽なども北方の地で手に入るため、平安の王権は北方の蝦夷とも時に争った。蝦夷の使っていた蕨手刀は日本刀の起源ともいわれるが、その意味では東北という辺境が武士を育てたともいえる。東北を理解しないと、平安時代は理解できない。本書は比較的新しい概説だけに、この辺境という視点がある。簡潔ながら王朝国家と東北との関係性を的確に表現している本書は、平安時代の入門書としてふさわしい良書と言えそうだ。

 

 

日本史のおすすめ本を20冊紹介してみる

手元の概説書や新書、読みやすい専門書などの中から面白く読める日本史のおすすめ本を選んでみました。受験に役立つ内容ではありませんが、面白いだけでなく何かしら得るところのあるものを選んでいます。今後の読書の参考までにご覧ください。

 

中公文庫 日本の歴史シリーズ

 

日本の歴史 (7) 鎌倉幕府 (中公文庫)

日本の歴史 (7) 鎌倉幕府 (中公文庫)

 

 

現在も読みつがれているスタンダードな日本史の概説書のシリーズ。巻によって異なるものの中公文庫の世界の歴史シリーズ同様、読みやすさには配慮されているうえ内容も詳しく日本史を学ぶ上では大いに役立つものです。特に『鎌倉幕府』や『南北朝の動乱』の巻は名著と呼ばれています。著者が主張を述べるときにはきちんと史料が引用されているので、根拠が怪しいということもなく、オーソドックスな日本史の流れを抑えるには一番向いているシリーズといえます。ただし内容には古びたところが見られるのも事実で、中世については『陰謀の日本中世史』などで知識をアップデートするのが有効です。

このシリーズの詳しいレビューはこちらからどうぞ。

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山川詳説日本史研究

  

詳説日本史研究

詳説日本史研究

 

 

これ一冊で教科書の内容からもう一歩踏み込んだ日本の通史をおさえることができます。山川出版社からは詳説世界史研究も発売されていますが、やはりこちらは日本史だけを扱っているので内容が濃い。重要なキーワードは太字で書かれ、絵図も多く挿入されているので「詳しい教科書」という感じの本です。受験用というよりは社会人が忘れている日本史の知識を補うために辞書的に使うほうが向いていると思われますが、コラムの内容には信長の従者弥助や明治維新の死傷者数など案外面白いものも多く、時間のあるときにめくってみると意外な知識が得られたりします。先に中公文庫の『日本の歴史』シリーズを読んでいると、この本の内容の多くはあのシリーズに依拠していることがわかります。

 

元号 全247総覧

 

元号 全247総覧

元号 全247総覧

 

 

現在、元号というものを使っている国は日本だけです。本書では、奈良時代以降使われたすべての元号についてその由来と改元の事情について解説しています。改元の理由を見ていくことでその時代の特徴や社会情勢も自然とわかるようになっていて、応仁の乱以降は兵乱による改元が多かったり、幕末には外国船来航による改元などもあったりします。それ以外では飢饉や疫病、地震などによる改元が多いですが、それだけ日本が災害大国であるということの証拠です。

 

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魏志倭人伝の謎を解く

 

魏志倭人伝の謎を解く - 三国志から見る邪馬台国 (中公新書)

魏志倭人伝の謎を解く - 三国志から見る邪馬台国 (中公新書)

 

 

三国志について多くの著作のある渡邉義浩さんが魏志倭人伝を読み解くという内容の本。邪馬台国論争は史料が倭人伝くらいしかないので想像の余地が大きく、それが多くのアマチュアがこの分野に参入する理由になっていますが、これを読んでいると魏志倭人伝の読解には古代中国の歴史や政治情勢、儒教などの幅広い知識が要求されることがよくわかります。これに加えて邪馬台国の実像を考えるには考古学の知識も必要なので、とても素人が気軽に参戦できるジャンルではありません。では、東洋史家が倭人伝を読むと、邪馬台国の位置はどこになるのか。それは読んでのお楽しみです。

 

古代国家はいつ成立したか

  

古代国家はいつ成立したか (岩波新書)

古代国家はいつ成立したか (岩波新書)

 

 考古学の知識を使って弥生時代から飛鳥時代までの古代社会の変遷について解説している本。興味深いのは考古学における「都市」の定義で、本書では都市には首都としての政治のセンター機能、および宗教と経済のセンター機能が必要と書かれています。邪馬台国の「首都」と言われることもある纏向遺跡は巨大環濠集落ですが、こうした集落は政治・宗教・経済のセンター機能を持っているため都市の萌芽は見られるものの、住民の大半が農民であるためまだ都市とは呼べないと考察されています。環濠集落に中国の城郭が与えた影響についても書かれていて、古代社会が思っている以上に開かれた社会であったことが想像できます。

 

倭国

 

倭国伝 全訳注 中国正史に描かれた日本 (講談社学術文庫)

倭国伝 全訳注 中国正史に描かれた日本 (講談社学術文庫)

 

 魏志倭人伝にはじまり後漢書や隋書・旧唐書・元史・明史など、中国の正史に書かれた日本の列伝を集めているある意味非常にマニアックな本です。「正史に描かれた日本」と言いつつ実は高句麗新羅百済・靺鞨の伝も載っているので古代史の史料が欲しい方にはお得。日本史よりも東洋史が好きな方が欲しい一冊かもしれません。明史日本伝は戦国時代の日本についての情報も含みますが、明智光秀らしい人物が二人もいたり、秀吉が薩摩の奴隷だと名乗ったことになっているなど、かなり誤りが多いことに驚きます。明の時代でこれなら魏志倭人伝の内容などどれほど信用できるのか心配になってきますが、これも中国人から見た日本像として貴重な史料のひとつです。

 

奥州藤原三代

 

奥州藤原三代―北方の覇者から平泉幕府構想へ (日本史リブレット人)

奥州藤原三代―北方の覇者から平泉幕府構想へ (日本史リブレット人)

 

 

本としては薄いですが内容はとても濃い。 中世日本の北方にほぼ独立政権として存在した平泉政権は中国とも盛んに交易を行っており、また平泉で信仰されていた仏教は遼や北宋・高麗・クメール王国のそれとも共通性のある国際的なものだったと指摘されています。このため平泉政権は当時の琉球王国にも比せられるべき存在だったという見方が示され、京都とは異なる平泉の自立性が強調されています。しかしその存在は鎌倉幕府にとっては許せるものではなく、古代以来の「征夷」の対象となってしまったという記述が、東北という地の背負う歴史の重さを感じさせます。

 

アイヌ学入門

 

アイヌ学入門 (講談社現代新書)

アイヌ学入門 (講談社現代新書)

 

 

「縄文のDNAと伝統を引き継ぐ存在としてのアイヌ」という視点からアイヌについて描いている著者ですが、本書では序章でアイヌ史について簡潔にまとめたあと、アイヌ沈黙交易や呪術、山の神の農耕儀礼古代ローマから伝わった小人伝説など、興味深いトピックが多く取り上げられています。驚くべきは奥州平泉から北海道の厚真へスタッフが派遣されていた可能性が指摘されていることで、中尊寺金色堂にもアイヌの金が使われていたかもしれないとも推測されています。知られている以上にグローバルに活動していたアイヌの実態を知ることができます。アイヌの歴史・文化を知るための格好の入門書です。

 

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陰謀の日本中世史

 

陰謀の日本中世史 (角川新書)

陰謀の日本中世史 (角川新書)

 

タイトルだけみると陰謀論の本かと思ってしまいますが、これは逆に歴史学会にはびこる陰謀論を『応仁の乱』著者の呉座勇一氏が次々と批判していくという内容。単に陰謀論批判ではなく、この一冊で中世史のあらましを学べるようになっています。本能寺の変をめぐる陰謀論批判にはかなり力が入っているので、信長に興味のある方は面白く読めるはずです。最終章の「なぜ陰謀論は人気があるのか」は人が陰謀論に引っかかる心理について解説していますが、この箇所はメディアリテラシーを高める上でも役立ちます。「○○の隠された真実」のような怪しい本を読む前にこういう本を一冊読んでおくことで、歴史本の良否をみわける眼を養うことができます。

 

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軍師・参謀

  

軍師・参謀―戦国時代の演出者たち (中公新書)

軍師・参謀―戦国時代の演出者たち (中公新書)

 

 戦国時代における「軍師」がどのようにして誕生したかを解説した本。意外なことですが、もともとの軍師の仕事は気象予報や出陣の儀式の主催などでした。戦勝祈願などの儀式は戦国大名に必要なものだったため、こうした知識を足利学校で学んだ人物は各地の戦国大名にスカウトされていたのです。しかし、やがて戦争のニーズに応じて『孫子』『呉子』などの兵法書もマスターした軍師たちは戦術のアドバイスも行うようになり、軍事顧問としての役割も果たすようになっていったことが解説されています。この軍事顧問としての役割だけが戦国末期まで継承され、「軍師」はしだいに「参謀」的存在へと変わっていったと説明されますが、黒田官兵衛などはその代表例だと書かれています。軍師の役割を通じて、合理的である半面吉凶や縁起を気にする戦国大名の実態も知ることができます。

 

戦国大名

 

 

新書一冊で戦国大名の行政機構や家臣団、税制、流通政策、国衆との関係までわかってしまうお得な本。主に北条家の統治について解説していますが、これは戦国大名としては北条家の史料がもっとも多く残っているからです。戦国大名の支配は思っているよりも繊細で細かい規定がありますが、これは「給人も百姓も成り立ち候様に」という言葉の通り、戦国大名の存立基盤である村が存続できるよう配慮されていたからで、容赦のない収奪を行えば大名自身の生存が危うくなってしまうからです。最終章では信長と他の戦国大名の支配体制に大きな違いがないことも示され、信長の「革新性」についても疑問を投げかけています。これを読めば、戦国大名とは独自の法律を持つ一種の「国家」だったということがよくわかります。

 

戦国大名武田氏の戦争と内政

 

戦国大名武田氏の戦争と内政 (星海社新書)

戦国大名武田氏の戦争と内政 (星海社新書)

 

 

北条家よりも武田家の支配体制について知りたい方にはこちらの新書があります。甲斐の内乱時代から武田信虎、信玄を経て勝頼の時代の内政と戦争について記すだけでなく、短いながら織田政権時代の武田領国の支配や真田氏の内政についても触れているので、一冊で多くの情報を得ることができます。驚くべきは武田信虎という人物の統治手腕で、甲斐の内乱を集結させただけでなく棟別銭の賦課をはじめ、国衆の勢力を削いで城下に移住させるというある種の「中央集権策」まで実施するなど、相当な豪腕であったことがわかります。信玄の覇業も信虎が戦国大名としての基礎を固めていたからこそ可能だったことなのです。

 

 信長の政略

 

信長の政略: 信長は中世をどこまで破壊したか

信長の政略: 信長は中世をどこまで破壊したか

 

 

信長研究一筋に打ち込んできた谷口克広氏の著書。文章が読みやすく、信長の戦争や外交、内政や宗教政策など、信長についての一通りの知識がこの一冊で得られます。近年の研究では信長には「中世的」な部分も多かったことが指摘されますが、そうした見解も取り入れつつ何度も居城を移転したことや流通政策、長槍部隊を創設したことなど信長の新規性についても解説しています。サブタイトルの「信長は中世をどこまで破壊したか」については、信長は「革命家」ではないとしても「合理的改革者」ではあったというのが著者の結論ですが、このあたりが現在多くの人が納得できる信長像かもしれません。織田信長について知るならまずはおさえておきたい一冊です。

 

検証長篠合戦

 

検証 長篠合戦 (歴史文化ライブラリー)

検証 長篠合戦 (歴史文化ライブラリー)

 

 

真田丸時代考証担当の一人で戦国の武田氏に詳しい平山優氏の著書。論文集なのに読んでいて面白いという珍しい本で、長篠合戦についての軍事的考察がメインとなっています。武田氏の鉄砲隊の編成も信長軍と特に変わるものではなく、織田軍に比べて特に遅れていたわけではないこと、信長軍が「兵農分離」していた証拠はないことなど、信長の革新性については上記の『信長の政略』よりも否定的です。戦国時代の馬についてよく言われる「戦国の馬はポニー程度の大きさしかない」についても考察が加えられており、戦国の馬は小柄ではあっても馬体は逞しく能力が高かった可能性が指摘されています。「武田の騎馬隊」が実在したかどうかも書かれているので、長篠合戦だけでなく戦国時代の合戦について関心を持つ方に広くおすすめします。

 

無私の日本人

 

無私の日本人 (文春文庫)

無私の日本人 (文春文庫)

 

殿、利息でござる!』というタイトルで映画化もされた本。これをおすすめする理由は、この本を読むことで江戸時代の村の統治の実態をよく知ることができるからです。これは主人公の穀田屋十三郎が集めた資金を仙台藩に貸し付けて利息を取り、吉岡宿の危機を救うという話ですが、これを実行するためにまず肝煎に話を通し、さらにその上の大肝煎に話を持っていき、さらにその上の代官、郡奉行、出入司という順番でこのプランを認めさせる必要があったことがわかります。建前上は江戸時代の日本を統治していたのは武士ですが、ふだん民の面倒を見ているのはこの肝煎(庄屋)であって、全国に50万人ほどいたこの庄屋こそが江戸時代を下支えしていたと磯田氏は書いています。こうした民衆の底力が宿場町を救ったという事実が『無私の日本人』には記されています。

 

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水戸黄門の食卓

 

水戸光圀は日本で最初にラーメンをつくった人物だった、という説は残念ながら取り消されてしまいましたが、明から招いた儒学者朱舜水が光圀に当時の「ラーメン」の作り方を伝授していたことは本当です。光圀は極めて好奇心旺盛な人物でしたが、本書を読めばその好奇心は食の方面にも存分に発揮されていたことがわかります。うどんを手打ちし、初鰹を好み、饅頭を頬張る光圀の食生活を知ることで、元禄時代の武士の生活にも迫ることができます。当時の武士が実は好んで肉食をしていたことも書かれていて、肉食のタブーが建前でしかなかったこともわかります。

 

徳川がつくった先進国日本

  

徳川がつくった先進国日本 (文春文庫)
 

 

日本はかなり治安の良い部類の国ですが、昔からこうだったわけではありません。むしろ室町期の日本人はかなりの暴れ者の集団でした。そんな日本人がなぜ平和的になっていったのかを、本書では段階的に解説しています。重要なきっかけは島原の乱と宝永地震天明の大飢饉です。災害に注目するところが著者ならではの視点ですが、天明の大飢饉は日本にとり国家的な危機であったため松平定信政権は代官改革を行い、民生に意を用いたため多くの名代官がこの時代に現れました。もともと軍事政権だった幕府が、ようやく民衆のため行政サービスを重視するようになってきたのです。災害が多く米に依存する当時の日本社会を維持するには、農村の復興こそが急務であったことがよくわかります。

 

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幕末史

子供の頃夏休みを新潟で過ごしたという著者は、その体験から「反薩長」に染まったと本書では書かれていますが、実際読んでみると本書の書き方はそれほど反薩長に凝り固まっているわけでもなく、バランスが取れているように思えます。講義調で書かれていて文章は読みやすく、幕末史入門の本として使いやすい内容になっています。龍馬暗殺に関して薩摩が怪しいとする見方など、著者の主観が混じっているところもありますが、幕末の志士たちの人物像が立ち上がってくるような書き方なので頭に入りやすいことは確かです。西郷隆盛は日本の毛沢東であると書かれていますが、この見方には賛否両論あるところでしょう。

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龍馬を超えた男 小松帯刀

  

龍馬を超えた男小松帯刀

龍馬を超えた男小松帯刀

 

著者は『西郷どん』の時代考証を務める原口泉氏。NHKBS『英雄たちの選択』でも小松帯刀を取り上げた回がありましたが、ここでは薩摩にとって小松という人物がいかに重要だったかということが強調されていました。番組中で桐野作人氏が「小松のことを嫌いな人は誰もいない」と言っていたほど人当たりのいい小松でなければ島津久光西郷隆盛の仲介をすることもできないし、長州のために銃を購入し、薩長同盟の成立にも大いに貢献したのも小松帯刀です。「薩摩の小松か、小松の薩摩か」と言われたほどのこの人物を抜きにして、幕末の政局は語れません。

 

司馬遼太郎で学ぶ日本史

 

「司馬?太郎」で学ぶ日本史 (NHK出版新書 517)

「司馬?太郎」で学ぶ日本史 (NHK出版新書 517)

 

 

司馬遼太郎をそのまま史実として読まれては困る、と歴史学者がこぼしているのを最近耳にします。これは確かにそのとおりで、司馬作品はあくまで小説です。しかし、司馬作品がただの娯楽に過ぎないのかというとそれも違っていて、やはり司馬作品には作者の鋭い視点があり、これが歴史を学ぶ上では役立つと磯田氏は言います。ただし司馬作品で歴史を学ぶには「司馬リテラシー」が必要になるため、司馬作品をどう読み解くかを知る必要があります。そのために役立つのが本書です。司馬遼太郎によれば、現在の日本をさかのぼっていくと濃尾平野に誕生した権力体にたどりつくのだそうで、その興亡を描いたのが『国盗り物語』です。本書ではこの戦国作品からスタートして幕末の『花神』、明治の『坂の上の雲』、そして昭和について書いたエッセイ『この国のかたち』に至るまで、それぞれの作品を読み解きながら司馬遼太郎がどう歴史を捉えてきたかを解説しています。すでに司馬作品に親しんでいる方も、これから読もうという方にも役立つ内容です。

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おまけ:石ノ森章太郎『マンガ日本の歴史』

 

マンガも時に歴史を学ぶ上で有効だったりします。ビジュアルがある方が頭にも入ってきやすく、建物や服装など当時の雰囲気も再現しやすいからです。今まで読んだ中では、石ノ森章太郎の『マンガ日本の歴史』がわかりやすいと感じました。このシリーズの詳しいレビューはこちらです。

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以上、今まで読んできた本の中から20冊紹介してみましたが、近代史以降はあまり詳しくないこともありそちらには手が回りませんでした。今後もし機会があったら、近現代史に絞ったものも紹介してみたいと思っています。ただし、半藤一利『昭和史』の内容だけは日本人としては知っておきたい内容だと感じました。語りおろしなので読みやすく、満州事変から敗戦に至るまでの昭和史の流れがよく分かる内容なので、強くおすすめしておきます。詳しい内容はこちらで解説しています。

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なお、世界史のおすすめ本についてはこちらで紹介しています。

 

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学問として学ぶのではなく日本史の歴史小説を読みたい、という方にはこちらでおすすめ本を紹介しています。

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