明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

【感想】佐藤厳太郎『伊達女』にみる歴史研究と歴史小説の幸福な関係

 

伊達女

伊達女

 

 

歴史小説には「そう来たか」がほしい。ここで言う「そう来たか」とは、史実(とされているもの)を意外な方向で解釈する、ということだ。この作品を読む人の多くは、伊達政宗の生涯についておおむね知っているだろう。だから、新味を出すには政宗の生涯を彩る出来事をどれだけ新しい視点から書けるか、が勝負になる。その点、本作『伊達女』は実にうまくやっている。これを読めば、政宗の母義姫や妻の愛姫、娘の五六姫などについて、新しいイメージを持つことができるだろう。歴史小説はこうでないといけない。

 

一番印象に残ったのは、義姫が主人公の『鬼子母』。義姫について、一般的にどんなイメージがあるだろうか。大河ドラマ独眼竜政宗』で岩下志麻が演じた、気丈で冷厳さすら感じる母の姿を思い浮かべる人は多いかもしれない。片目を失い、醜い姿になった政宗を愛することができず、ついには毒すら盛った鬼女。通俗的な義姫のイメージは今でもこんなところだろうか。本作『鬼子母』では、義姫は気丈なイメージは引き継いでいて、女の身ながら戦場に現れ、伊達と最上の仲介をする大胆さをみせつける。ここは史実通りだ。

 

では、政宗に毒を盛った話をどう処理するか。ネタバレになるのでここには書けないが、読者にとってはかなり意外な展開が用意されている。政宗の機知と、義姫が政宗を思う気持ちがよく表れている。気丈な義姫がわが子を失いかけ、動揺する脆さも見ることができる。本作での政宗母子の関係性はあたたかなものであり、案外この二人は仲が良かったのではないか、と考えたくなるほどだ。少なくとも私にとっては、こうあってほしいと思う親子の姿がここにあった。 

  

もちろん、歴史小説はフィクションであり娯楽であって、歴史の真実はこうだった、と主張するためのものではない。だが、本作で描写される義姫母子の関係性には、ある研究成果が反映されている。伊達家の正史『貞山公治家記録』では政宗が自分に毒を盛った母を殺す代わりに、母の愛する弟・小次郎を殺害したことになっている。ところが、大悲願寺の過去帳には、小次郎の生存が記録されているというのである。このことが、本作の最後に記されている。小次郎が生きていたとするなら、義姫が政宗に毒を盛ったのは本当なのか、という疑問が出てくる。本作は、この疑問に小説というかたちで答えている。なぜ小次郎が死んだことにされたのか、これも本作の読みどころのひとつだ。

 

 

『素顔の伊達政宗』によれば、政宗は膳に毒を盛られた後も、何度も義姫と手紙を交わしている。手紙の内容はいずれも親子の情愛を感じさせるものだという。朝鮮に出兵した折などは、「ぜひ無事に日本に戻って、もう一度お会いしたい」とまで書いている。とても毒殺をたくらんだ母に送る内容には見えない。『鬼子母』で描かれる強い絆で結ばれた義姫母子の関係は、史実に近い可能性もある。

 

歴史小説がつねに歴史学の最新知見を活かすべきだとは思わない。その知見が娯楽にとってプラスになるとは限らないからだ。だが、すぐれた作家は作品をおもしろくできるものは何でも貪欲に取り入れる。その中には当然、歴史研究の成果も含まれる。同じ人物や時代を書く作家が数多くいるなかで、どうやってオリジナリティを出していくかが歴史作家には問われているのだが、本作『伊達女』は歴史学の知見を活かすことで伊達家の女性たちの新しい一面を描くことに成功した一例といえる。

 

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佐藤厳太郎作品では芦名家の興亡を描いた『会津執権の栄誉』も強くおすすめしたい。こちらでは政宗は敵側として登場する。

念仏は信じられない人も救ってくれる?ひろさちや『日本仏教史』

 

 B'zの曲に「信じる者しか救わないセコい神さまより僕と一緒にいるほうがいいだろ」みたいな歌詞があるが、信じていない者を救ってくれる神様はいるだろうか。神様はともかく、仏様ならいるようだ。『日本仏教史』では、一遍のこんな言葉を紹介している。

 

 名号は信ずるも信ぜざるも、唱ふれば他力不思議の力にて往生す。

 

名号とは南無阿弥陀仏の六文字のことである。信じようと信じまいと、念仏を唱えればその力によって極楽浄土へ行くことができる。信じてなくても救われる、というのは信仰として相当ハードルが低い。だが一遍もはじめからこれでいいと思っていたわけではない。一遍がこのような教えを説くに至るまでの苦悩を、この本ではわかりやすく解説している。一遍が「信心は関係ない」と確信するに至った経緯は以下のようなものだ。

 

一遍は36歳で故郷の伊予を離れ、遊行の旅に出て念仏の札を配って歩いた。だが熊野で一遍は信仰の危機に直面する。熊野の本宮へ向かう途中、一人の僧に札を配ろうとしたとき、その僧は「信心が起きないのに札を受け取れば、妄語(嘘をつくこと)の罪を犯すことになる」と札を拒んだ。この僧が受け取りを拒めば他の参詣人も同じことをすると慌てた一遍は、「信心が起きなくても受け取りなさい」と念仏札を渡した。

 

この場では大勢の人が念仏札を受け取ってくれたものの、一遍は悩む。信仰心が起きないのに唱える念仏に意味はあるのか。そんな念仏で人々は救われるのかと。一遍は熊野本宮の証誠殿に籠もり、神勅を仰いだ。すると熊野権現が山伏の姿をとって現われ、「一切の衆生南無阿弥陀仏と唱えた瞬間に往生すると決まっているのだから、信・不信を取捨することなく札を配れ」と説いたのだという。

 

この体験で一遍の迷いは消え去ったということだが、信心が起きない者も救いたいという気持ちが、このような宗教体験をさせたのだろうか。実は、この「信心」は親鸞の考えでは自分で起こすものではなく、「如来よりたまはりたる」ものだ。信仰心は阿弥陀如来から与えられるのだとすれば、信心が起きない人はどうすればいいのかわからない。自分の意志で信心を起こせないのだから。

 

念仏を信じられない人は救われないのだろうか。どうしたってこの疑問は沸く。ここで、著者はキリスト教の予定説と親鸞の教えを比較する。神はあらかじめ救う者とそうでない者を決めていて、救われる予定の者は必ず神を信じるようになる、というのが予定説だ。ところで、阿弥陀仏も救う者と救わない者をあらかじめ決めているのだろうか。もちろんそうではなく、阿弥陀仏は一切の衆生を極楽世界に迎えたいと願っている。信じられないから救われないわけではない。しかしそれでも信心が起きないという悩みは残る。そんな人はどうするべきか。この本で紹介されている親鸞の言葉はこうだ。

 

 「詮ずるところ、愚身の信心においてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり」

(つまるところ、わたしの信心はこれだけだ。この上は、念仏を信じる/捨てるは、それぞれの勝手である)

(p149)

 

親鸞は念仏を信じられないと悩む人は阿弥陀仏がそうさせているのだから仕方がない、という達観に立っているというのが著者の考えだ。しかし悩める人々をこう突き放せないのが一遍なのである。結局、信心は問わないことになった。一遍はよほど真摯な人だったのだろう。もちろん法然親鸞もそれぞれに真摯なのだが、真摯さのかたちは異なる。『詳説日本史研究』では法然親鸞・一遍の教えをこのように整理している。

 

詳説日本史研究

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  • 発売日: 2017/08/31
  • メディア: 単行本
 

 

法然:ひたすら念仏を唱えようとする人々の努力が阿弥陀仏の救いをもたらす

親鸞阿弥陀仏の救いを信じる心が起こったときに救いが決定する

一遍:努力の有無や信不信にかかわらず、名号を唱えれば救いがもたらされる

 

こうしてみると、やはり一遍の教えがもっともハードルが低いと思える。信じなくても救ってくれる阿弥陀仏が慈悲深いのか、そのように説いた一遍が慈悲深いのか。いずれにせよ、一遍が悩める人々と真剣に向き合っていたことだけは確かである。

ブログに「本当の感想」をもらうことの難しさ

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もうとっくにこの話題の旬は過ぎてしまっているが、改めて上記のまとめを読み返し、いろいろと思うことがあったのでここに書いておく。

 

作家もそうだが、何かしら創作をしている人は、単に創りたいものがが創れればそれで満足、という人ばかりではない。誰かに反応してもらえるから、褒めてもらえるから、という動機でがんばる人も多い。そのことの良しあしをここで論じる気はない。ただ、皆がダーガーのようにひたすら孤独に砂場で砂を積みあげ、好きな風景をつくることに没頭できるわけでないことは確かだ。反応が気になるタイプの人はどうしたって気になる。

 

では、小説に感想をもらいやすくするにはどうしたらいいだろうか。書き手が感想をもらえれば励みになるように、感想を送る側もまた、作者に反応してもらったほうが書く甲斐があるというものだろう。つまり、感想がほしければ、感想をもらったときに大喜びしてみせたり、感想をくれた読者と交流するなどのサービス精神があったほうがいいことになる。

 

ふだんから愛想よくふるまい、知人が多い人ほど作品への感想はもらいやすい。それは作者だってわかっている。だが、ここで作家は考える。愛想よくふるまって、その結果として小説への感想が増えたとしても、その感想は果たしてほんとうに「感想」といえるのか、と。人間は誰でも返報性の心理を持っている。自分によくしてくれた人には何か返したくなるのが人間である。つまり、いつも愛想よくしていた場合、感想は愛想の対価として返ってきたのではないかということだ。生真面目で職人気質な作家ほど、そう考えるのではないだろうか。コンテンツ自体とは別の力で感想をもらうなど邪道ではないかと。

 

小説に感想を書くという行為は、実はけっこうハードルが高い。何しろ相手は作家であり、文章のプロなのだから、こちらの文章を見る目も厳しい。的外れなことを書いて失望されるのが怖い、逆鱗に触れて執筆意欲をなくさせるのは申し訳ない。感想を書く側にはそんな気持ちがあるかもしれない。これがイラストなら「尊い」とか言ってればいいかもしれないが、小説にはもっと言葉を尽くさなくてはいけないような気もする。そう考えると、なかなか筆が進まなくなる。加えて読み手は作家ではなく、必ずしも感情をうまく言語化できないという事情もある。そうして書きあぐねているうちに、作者の求めている感想が得られないことになる。

 

このハードルの高さを、作者も知らないわけではない。いや知っているからこそ、その高いハードルを越えてきたものだけを「本当の感想」だと考える。読者に愛想を振りまかなくても、感想に返事を返さなくても、それでも感想を書かせてこそその作品には力があるといえる。感想が来ないということは、そのハードルを越えさせるだけの作品が書けなかったということになる。少なくとも諸口さんはそう考えていたようだ。

 

感想が来ないということが、ただちにその作品の質の低さの証明になるとは、私は思わない。だが実際問題として、感想がもらえないことで執筆のモチベーションが下がる人はいる。なぜ小説家になろうの作品はあんなに似たようなタイトルばかりなのか、と疑問を呈する人がいるが、それは流行に乗らなければなかなか読んでもらえず、反応ももらえないからだ。やはり応援してもらえることは、強烈に執筆意欲をかき立ててくれる。ネットで他作品のPV数や感想コメント数が可視化されたこの時代、自作に反応がもらえないのはつらいだろう。ネット時代の創作者は、全員がスカウターを装備した世界を生きている。自作の戦闘力のなさが丸裸になってしまうのだ。人と比べるなといわれても、自作の叩きだした数字を気にしないのは難しい。

 

ここまで書いてきて、なぜこのブログは感想なんてたまにしか来ないのに続けられているのだろう、と考えた。おそらく、私は「感想は来ないもの」だと思っているのだろう。特に人気者のブロガーでもなければそんなものだ。自分への期待値が低ければ反応はなくて当たり前と思える。書きたいことを出力できればまずはそれで満足、というところはあるし、あまり他人に期待してもあとで落ち込むだけ、ということも経験則として知っている。過去の栄光などそもそも存在しないから先細りになっていく心配とも無縁だし、いつも低空飛行だからこそたまにたくさん読まれたときはありがたくも感じられる。こう考えていくと、辺鄙なブログも案外悪いものではないのかもしれない。

 

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利害関係を抜きにした「本当の感想」はなかなかもらえないものであるとするなら、書き手の側でできることはなんだろうか。そう考えつつ過去記事を読んでいたら、この記事では「自分自身への期待をどれだけ手放せるかが、ブログを長く続けるコツだ」と書いていた。これは言うは易し、ではある。手間暇かけた書いた文章は、やはり読んでほしい。私も最初はそうだった気がする。いつからあまり自分に期待しなくなったのか、よく覚えていない。ただいつのまにか、文章とは基本、ごく少数の人間にしか届かないもので、それでいいのだ、と思うようになった。この認識に立てば、たまに来る感想にありがたみを感じられるようになる。今後しばらくは、あまり他人にも自分にも期待しないようにしつつ、書いていければと思っている。

小林一茶の夜の営みの回数を記録した『七番日記』に何を読みとるか

 

 

 小林一茶の残した『七番日記』という日記がある。これは大変貴重なものである。というのは、なんと一茶が妻との房事の回数を記録しているからである。江戸時代の文献で、夫婦の性生活を記録したものはほとんど存在しない。それだけに、『七番日記』は一茶の生涯だけでなく、近世日本の夫婦関係を知るうえできわめて重要な史料になる。

 

小林一茶は江戸で俳諧師として生計を立てていたが、文化9年(1812)に故郷の柏原に帰郷し、その2年後には結婚している。一茶が52歳のときだったが、妻に迎えた富農の娘・菊は 28歳と親子ほども年が離れていた。若い妻をめとってよほどうれしかったのか、一茶は結婚の二年後に「こんな身も拾ふ神ありて花の春」という句を詠んでいる。

 

一茶が菊との交わりをわざわざ記録していたのはなぜなのか。本書ではまず青木美智男の見解を紹介しているが、彼に言わせれば「子供ほしさゆえの焦り」だという。一茶は継母や弟との13年にわたる遺産争いの末、ようやく家を継いでいる。そのうえ52歳という年齢を考えれば、一日も早く跡継ぎを作りたかったという思いがあったことは容易に想像できる。

 

だが著者は、子宝に恵まれることだけがこの記録を残した動機なのか、と疑問を呈している。『七番日記』には菊の労働や里帰り、月水(月経)についての記録も多くみられ、だからこそ女性の身体性に注目した大変貴重な記録といわれているのだが、こうした記録を残したのはなぜだろうか。著者は、一茶は門人の指導で家を留守にすることが多かったため、菊の子が本当に自分との性関係の結果か確認する必要があったのではないかと推測する。このように見ると、急に話が生々しくなる。一茶も自分が年老いていることはとうに自覚している。菊が若い門人に心を動かす可能性を、一茶も考えたのだろうか。蛙や雀に温かいまなざしを注ぐ一茶と、「三交」「夜五交合」などと日記に記す一茶の像がなかなか結びつかないのだが、一茶も俳諧師である前に、悩める一人の男だったのだろう。

 

一茶の日記からは、菊の交合についての考えも読みとることができる。菊は誰も触っていないのに茶碗が壊れたことを「怪霊」なことだといっているが、これは亡父の月命日の墓参りの日、一茶と交わった夜の出来事だった。亡父の命日に事に及ぶという禁忌を犯したため、怪しい出来事が起きたと菊は考えている。菊は妊娠中の交合(こちらも禁忌とされる)についても後ろめたさを感じているが、一茶は妻ほどには禁忌を気にしなかったのだろうか。妊娠中の行為は当然、子作りのためではない。一茶の欲求を受け止める菊の心中は、軽いものではなかっただろう。

 

このようにして励んだ結果、菊は七年間で四人の子供を産んだ。だが、四人とも幼くして病気で命を落としている。一番長く生きた金三郎ですら1年9か月しか生き延びられなかった。江戸の人々の命のはかなさを思い知らされる。一茶は、金三郎の死は乳母が乳が出ず水ばかり与えていたせいだと記している。「哀レナルハ赤子也」という文言からは一茶の激しい憤りが読みとれる。次々とわが子を失った菊の心の内はどうだっただろうか。この時代、跡継ぎを生むのは妻のつとめであり、菊もそれを知っているからこそ一茶の求めに応じている。だが、わずか37歳で逝った菊が、いったい何のために生まれてきたのかと考えたことはなかっただろうか。残念ながら、そこまでは一茶の日記からは読みとれないようだ。

ヴァイキングは人間を生贄に捧げていたか

ドラマ『ヴァイキング』ではウプサラで人が神の犠牲に捧げられるシーンがある。アセルスタンもシーズン1ではここで殺されかけていたが、まだキリスト教を信じていることを見抜かれて犠牲になる資格がないということになり、助かった。

 

シーズン2ではアセルスタンはマーシア王女クウェンスリスの問いに答え、北の民は9年に一度ウプサラで人を犠牲に捧げると答えている。このような風習が、ヴァイキングの社会に実際にあったのだろうか。『ヴァイキングの暮らしと社会』の宗教について書いている箇所を読んでみる。

 

ヴァイキングの暮らしと文化

ヴァイキングの暮らしと文化

 

このようなヴァイキングの宗教の核をなしたのは何であろうか。その答えは簡単だ。儀礼宗教(カルト)、ギブ・アンド・テイクの原則にたつ実利を意図した行為、すぐに実行できる宗教的ならわしである。この宗教が最高潮に達するのは「ブロート」とよばれる供儀の祭礼であり、それには公的なものも私的なものもある。かなり古い時代のスカンディナヴィア人はたしかに人間を供儀に捧げていた。けれども、それは西暦紀元直後、つまりこの北方の地では鉄器時代と呼ばれていることのことである。ヴァイキング時代になると、そのような風習はどうやら残っていなかったらしい。そのかわり、動物の供儀は頻繁におこなわれていたと思われる。

 

人間を生贄に捧げるのは、ヴァイキングキリスト教徒との違いを際立たせるための演出のようだ。ヴァイキングは自分の守護神を「親愛なる友(ケーリ・ヴィンル)と呼び、その神をかたどった護符を財布に入れるほど信仰心は強かったが、その信仰心を自分自身を神に捧げるという形では表さなかったらしい。

【感想】『ヴァイキング』シーズン2(1話)でさらにヴァイキングの略奪の理由付けが明確になった

 

 

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ドラマ『ヴァイキング』はシーズン1のドラマ終盤に入るとラグナルの兄、ロロの存在がクローズアップされてくる。ロロはヴァイキングの英雄として名声を勝ち得る弟に対し、いまひとつ冴えない己の現状に忸怩たる思いを抱いている。そこをスウェーデン王ホリックと敵対するボルグにつけ込まれ、ホリックに忠誠を誓う兄と戦うことになってしまう。

 

ロロは戦場の勇士ではあり、ラグナル軍相手に鬼神のような戦いぶりを見せるものの、ラグナルを前にするととたんに戦意を喪失してしまう。ロロは戦士としてはラグナルより強いかもしれないが、人間としての器が違いすぎるのだ。戦いが終わった後、あまり感情的にならないラグナルが珍しく怒りをみせる。彼は「なぜ仲間同士で争わなければならない!西の土地を手に入れればこんなことをしなくてすむのに」と叫ぶ。ロロが弟の器量に嫉妬し、自分のためだけに戦っているのに対し、ラグナルはいつもヴァイキング全体の利益を考えている。このように、弟が明らかに兄よりすぐれていることが、ロロの嫉妬の原因だ。バラーラデーヴァとバーフバリ兄弟の運命を見る思いだ。先のことはわからないが、この兄弟は遠くない未来、ふたたび対決する時がくるような気もする。

 

それはそうと、ボルグとの戦いの後にラグナルの語ったことは重要だ。ヴァイキング同士の戦いは土地の不足から起きるこだ、と彼は認識している。実際、この戦いはホリック王とボルグとの土地争いが原因で起きたものだ。二度とこんな争いを起こさないためにも、新しい土地が必要だとラグナルは言っている。ついさっきまで兄弟同士で戦う悲劇が起きていただけに、よけいにラグナルの言葉には説得力がある。ロロがボルグ側についたのはロロ自身の問題であって、ヴァイキングの事情は関係ないのだが、この場ではラグナルはロロ自身の罪を問わなかった。

 

ラグナルは身内であるロロを直接裁くことができないので、「立法者」に金を握らせてロロを無罪とする。ラグナルはすでに首長なので、ロロを自分で無罪にもできただろうが、その場合、情けをかけられたロロの誇りが傷つく。だからこうするしかなかった。ロロは「お前の影でいたくなかった。だが影を抜け出したら光はなかった」とラグナルに語る。しばらくロロは日陰者として生きていくしかないのだろう。

 

ラグナルにはロロを許す寛大さがあるが、その副作用なのか、自分自身にも甘いところはある。アスラウグと浮気しておいて子供ができたから二人目の妻にすると言い出し、ショックを受けたラゲルサが家を出ていってしまう。裏切り者のロロやキリスト教徒のアセルスタンを受け入れるラグナルのおおらかさは、ここでは裏目に出た。もっとも、ラグナルがアスラウグを妻に迎えたのは政治的判断でもあるだろう。まだ若く、これから子をたくさん産めそうなアスラウグが妻なら何かと都合はいい。ただ、ラゲルサやビョルンとアスラウグの折り合いを考えなかったのはいただけない。

 

シーズン1ではアセルスタン視点やラゲルサ視点があったことでヴァイキングの価値観に視聴者がなじみやすくなっていたが、シーズン2に入り、「仲間同士の争いをなくすため」という大義名分ができて視聴者がよりヴァイキング側に感情移入しやすくなったように思う。今後は略奪行も大規模になっていくだろうし、イングランドのエグバート王も手強そうなので戦記としての色合いが濃くなっていくのだろうか。

【感想】ドラマ『ヴァイキング』(シーズン1)はヴァイキングの残酷さとの距離の取り方が絶妙な歴史ドラマ

 

 

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このドラマを観る前は、感情移入が難しいのではないかと思っていた。ヴァイキングを主人公に据える以上、どうしても略奪を描かざるをえない。ヴァイキング側からすれば乏しい農業生産力を補うための行為とはいえ、略奪は一方的な暴力でしかない。そこに一切罪悪感など持たないヴァイキングを主人公にして、視聴者は楽しめるのだろうか。カナダヒストリーの製作したドラマ『ヴァイキング』は視聴者が倫理的葛藤を引き起こさずドラマに入り込めるよう、周到な配慮がなされている。

 

まず、主人公のラグナル・ロズブロークの人物造形が非常に巧みだ。ラグナルもヴァイキングの一員ではあり、率先して略奪は行う。初めてイングランドにたどりつき、リンディスファーン修道院に押し入ったときは史実通りここを襲撃している。だが、ラグナルは善人ではないものの、やみくもに暴力を用いることをよしとする人物でもない。リンディスファーンではノルド語を話せる修道士・アセルスタンの命を助け、連れ帰って奴隷にしている。

ラグナルがアセルスタンを助けたのは、使いものになると思ったからだろう。言葉の通じるアセルスタンからイングランドの情報を聞き出し、さらには交渉役として使う気もあったかもしれない。だが言葉を交わすうち、やがてラグナルはアセルスタンとの間に奇妙な友情を築き、奴隷の身分から解放している。それどころか、2回目のイングランド遠征のときにはアセルスタンに鍵を預け、家の留守すら任せている。ラグナルは信仰の違いを超えてイングランド人とも理解し合える度量の広さがあり、アセルスタンもラグナルの信頼に応えている。

 

ラグナルという男のおもしろさは、反抗的なものは仲間でもあっさり殺すことがあるのに、イングランド人に対してはまず交渉を持ちかけるところだ。2回目のイングランド遠征で、海岸でノーサンブリアの兵士に出会ったときも、まず隊長の誘いに乗り王に会おうとする。この時は結局戦いになったが、それは仲間が隊長を信用しなかったからだ。ラグナルは必要なときは勇敢に戦うが、避けられる戦いは避けようともする。教会に押し入っても、抵抗しなければ傷つけないと約束する。もちろん宝物はしっかり奪っていくのだが、無抵抗の人物まで殺したりはしないので、視聴者はいつのまにか略奪者の側のラグナルに惹きつけられていくことになる。

 

ラグナルの妻・ラゲルサの存在も極めて重要だ。ラゲルサは男勝りの気性の持ち主で、ラグナルが留守のときに家に押し入った賊を独力で斬り捨てるほど強い女戦士でもある。腕が立つラゲルサは2回目のイングランド遠征に加えてもらうが、首長ハラルドソンの手先であるクヌートがサクソン人の娘を犯そうとしているのを目撃してしまう。ラゲルサがクヌートを咎めると、クヌートは今度はラゲルサを犯そうとする。だがラゲルサがここでおとなしく屈するはずもなく、逆にクヌートを刺し殺してしまう。

おそらくヴァイキング行のなかで、凌辱など日常茶飯事だっただろう。このドラマはそこから目をそらすことなく、残酷な現実もきちんと描いている。だが、ヴァイキングの残酷さが100%肯定されることもない。ラグナルは無用の暴力を用いず、ラゲルサは暴行に歯止めをかける。このバランス感覚が絶妙だ。ラグナルもラゲルサも生業として略奪を行っていて、そこに葛藤を感じることはまったくない。だが、視聴者がついていけなくなるほどの蛮行を行うこともない。この夫婦は、視聴者が感情移入できるぎりぎりのラインを綱渡りで生きている。

 

ヴァイキングの暮らしと文化

ヴァイキングの暮らしと文化

 

 

このドラマで描かれているヴァイキングの姿は、どれくらい史実に基づいているのだろうか。レジス・ボワイエ『ヴァイキングの暮らしと文化』によれば、ヴァイキングの実態とは以下のようなものだ。

 

とにかくきびしい時代であったのだ。西欧であれ、近東であれ、商人が平穏に交易に旅立ったとは思えない。値切ったり、売買したり、物々交換したり、自分の財産を守る能力が同時に必要とされたのであり、いざというときには情け容赦なく、なんとしてもチャンスをものにしなければならなかった。「片手に切断銀をはかる秤、片手に両刃の長剣」というイメージをこれまでなんども用いてきたが、そこには、ヴァイキングというものが象徴されているように思われる。秤と剣のいずれを用いるかは、そのつど時と場合に応じて決定された。安全のために地中に埋められた品物や「宝物」が、スカンディナヴィア各地で数多く出土してはいるが、かれらの略奪活動を立証できるようなものはさほど多くない。これらとちがって、窃盗や略奪よりも純然たる交易活動を立証しているのは銀貨であろう。各地の銀貨がまさに山のごとく大量に出土し、造幣されたままのものもあれば、切断されたものもある。切断されたのは、必要な分だけを切りとるためだった。いうまでもないが、取引は貴金属の重量でなされたのであり、ある特定の貨幣によってではない。特定の通過を基準にするには、平均的なヴァイキングの行動範囲があまりにも広すぎたのだ。ヴァイキングは商人として定義されるべきであり、戦士であったのは偶然にすぎない。

 

これが正しいとすれば、ヴァイキングは戦士よりも商人としての性質が強いようだ。ラグナルたちの一団はこうではなく、戦士としての性質がより強いが、イングランド側に交渉を持ちかけるラグナルの姿勢には「商人」としての一面を見てとることもできる。ラグナルにとって戦いは金品を得るための手段であって、それ自体が目的ではない。

 

ラグナルの故郷・カテガットに残されたアセルスタンがドラマのキーパーソンであることの意義も大きい。この人物を通じて、視聴者はラグナル、そしてヴァイキングたちの価値観を相対化することができる。リンディスファーン修道院の生き残りであるアセルスタンは、暴力とは縁のない人生を生きてきたため、カテガットのヴァイキングの風習に驚くシーンがしばしばある。ラグナルが首長ハラルドソンとの対決に勝利をおさめたのち、ハラルドソンに仕えていた女奴隷が死を選んだため「死の天使」に喉を切られるシーンがあるが、目をそらそうとするアセルスタンにラグナルの息子は「ただ死ぬだけだろ」と平気で言う。ここでアセルスタンは戸惑いの表情をみせる。ヴァイキングの風習が現代人から見て受け入れがたいものであるときは、アセルスタンが視聴者の気持ちを代弁してくれる。アセルスタンは終始ラグナルから大切に扱われているのだが、ヴァイキング達とアセルスタンの間には埋められない溝もある。

 

ラグナルがアセルスタンを故郷に残していったのは、農場を任せられる人物がほかにいないからでもあるだろうが、アセルスタンに略奪の現場を見せたくないという配慮でもあるだろう。ラグナルがアセルスタンを通訳として連れて行ったほうが、イングランドでの交渉はうまくいくはずだ。だが、それをすればアセルスタンはヴァイキングの味方としてノーサンブリアの地を踏むことになる。これはアセルスタンにはつらい未来になる。彼は修道士だから、略奪の手伝いをするのは神への裏切りにもなるかもしれない。そんな選択をアセルスタンにさせないところも、ラグナルの魅力のひとつであるともいえる。

 

ヴァイキングに襲撃されるイングランド側の為政者があまり良い人物でないこともまた、ヴァイキングの残酷さを中和させている。ノーサンブリア国王エラは忠実な部下を毒蛇が這いまわる穴に落として殺すし、ラグナル一行に金を払う約束も守らずだまし討ちにしようとする。国王の弟エゼルウルフは傲慢なうえ武人としては無能で、部下の忠告も聞かずラグナルたちが陣地を築いているときに攻撃しなかったため、絶好のチャンスを逃してしまう。ラグナルたちを異教徒と見下すわりにはイングランド側にはあまり立派な人物が出てこないため、ラグナルたちの勇敢さや友情の篤さが際立つ仕掛けになっている。

 

歴史ドラマの難しさは、その時代の価値観を描きつつ、かつ現代人にも受け入れられる内容に仕上げなくてはいけないところにある。ドラマ『ヴァイキング』はこれまで書いてきた通り、さまざまな手を用いて視聴者がヴァイキングの倫理観に拒否感を抱かないようにすることに成功している。この土台があってこそ、はじめて巧みなシナリオも生きてくる。題材が題材なので暴力シーンは少なくないが、そこに耐性があるならこの作品を観ないのはもったいない。確かにラグナル達ヴァイキングには獰猛な一面があり、彼らは略奪を楽しんでいる。だが彼らにも法や秩序があり、宗教もある。仲間のために命をささげる高潔な者もいれば、野心家も卑怯者もいる。つまりヴァイキングとはただの人間なのである。生身の人間としてのヴァイキングの魅力をここまで見事に描いた作品は、そうそうない。

 

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