明晰夢工房

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小林一茶の夜の営みの回数を記録した『七番日記』に何を読みとるか

 

 

 小林一茶の残した『七番日記』という日記がある。これは大変貴重なものである。というのは、なんと一茶が妻との房事の回数を記録しているからである。江戸時代の文献で、夫婦の性生活を記録したものはほとんど存在しない。それだけに、『七番日記』は一茶の生涯だけでなく、近世日本の夫婦関係を知るうえできわめて重要な史料になる。

 

小林一茶は江戸で俳諧師として生計を立てていたが、文化9年(1812)に故郷の柏原に帰郷し、その2年後には結婚している。一茶が52歳のときだったが、妻に迎えた富農の娘・菊は 28歳と親子ほども年が離れていた。若い妻をめとってよほどうれしかったのか、一茶は結婚の二年後に「こんな身も拾ふ神ありて花の春」という句を詠んでいる。

 

一茶が菊との交わりをわざわざ記録していたのはなぜなのか。本書ではまず青木美智男の見解を紹介しているが、彼に言わせれば「子供ほしさゆえの焦り」だという。一茶は継母や弟との13年にわたる遺産争いの末、ようやく家を継いでいる。そのうえ52歳という年齢を考えれば、一日も早く跡継ぎを作りたかったという思いがあったことは容易に想像できる。

 

だが著者は、子宝に恵まれることだけがこの記録を残した動機なのか、と疑問を呈している。『七番日記』には菊の労働や里帰り、月水(月経)についての記録も多くみられ、だからこそ女性の身体性に注目した大変貴重な記録といわれているのだが、こうした記録を残したのはなぜだろうか。著者は、一茶は門人の指導で家を留守にすることが多かったため、菊の子が本当に自分との性関係の結果か確認する必要があったのではないかと推測する。このように見ると、急に話が生々しくなる。一茶も自分が年老いていることはとうに自覚している。菊が若い門人に心を動かす可能性を、一茶も考えたのだろうか。蛙や雀に温かいまなざしを注ぐ一茶と、「三交」「夜五交合」などと日記に記す一茶の像がなかなか結びつかないのだが、一茶も俳諧師である前に、悩める一人の男だったのだろう。

 

一茶の日記からは、菊の交合についての考えも読みとることができる。菊は誰も触っていないのに茶碗が壊れたことを「怪霊」なことだといっているが、これは亡父の月命日の墓参りの日、一茶と交わった夜の出来事だった。亡父の命日に事に及ぶという禁忌を犯したため、怪しい出来事が起きたと菊は考えている。菊は妊娠中の交合(こちらも禁忌とされる)についても後ろめたさを感じているが、一茶は妻ほどには禁忌を気にしなかったのだろうか。妊娠中の行為は当然、子作りのためではない。一茶の欲求を受け止める菊の心中は、軽いものではなかっただろう。

 

このようにして励んだ結果、菊は七年間で四人の子供を産んだ。だが、四人とも幼くして病気で命を落としている。一番長く生きた金三郎ですら1年9か月しか生き延びられなかった。江戸の人々の命のはかなさを思い知らされる。一茶は、金三郎の死は乳母が乳が出ず水ばかり与えていたせいだと記している。「哀レナルハ赤子也」という文言からは一茶の激しい憤りが読みとれる。次々とわが子を失った菊の心の内はどうだっただろうか。この時代、跡継ぎを生むのは妻のつとめであり、菊もそれを知っているからこそ一茶の求めに応じている。だが、わずか37歳で逝った菊が、いったい何のために生まれてきたのかと考えたことはなかっただろうか。残念ながら、そこまでは一茶の日記からは読みとれないようだ。