あまりにもあちこちでネタにされすぎている映画だが、やはり観てよかった。重苦しい場面が多く、カタルシスなどまったく得られないが、「人間・ヒトラー」はあるいはこのような人物だっただろうか、と想像させてくれる。ヒトラーだけでなく、主人公のユンゲやヒトラーの愛人エヴァ・ブラウン、そしてフェーゲラインやゲッベルスなどの人物像も興味深い。人間の矮小さも気高さも愚かさも、すべてがここに詰まっているという気がする。
ヒトラーの秘書に採用されたユンゲが最初に対面したのは、意外にも紳士的で人の良さそうなヒトラーだった。しかし、それは結局のところ、大して利害関係のない人物としか心を通わせることができなくなっていたということだろう。この時点ですでにヒトラーは側近のことも信じられなくなっている。部下にも次々と逃げられ、陥落寸前のベルリンにおいて、頻々と寄せられる敗戦の報告に憔悴しきっていたヒトラーからすれば、ただ黙々と自分の言うことをタイプし続けるユンゲのような人物だけが好ましい存在と映っていたのかもしれない。ベルリンから逃げろと言わない女性や子供になら、いくらでも優しくできるのだ。
すでに存在しない戦力を当てにし、助けに来ない部下を無能と罵倒し、市民を見捨てることを自己正当化するヒトラー。ここにいるのは演説の天才でも、カリスマ的な指導者でもなく、ただ現実逃避を繰り返すだけの哀れな初老の男である。食事のシーンで「優れたものは弱者を倒すことで生き残ってきた、弱者への同情を私は禁じている」というヒトラーの台詞ももはや滑稽でしかない。その論理に従うなら、連合軍に対して弱者であるヒトラーこそが死ななくてはならないことになるのだ。この時点でのヒトラーには、もう痛々しさしか感じられない。
このような男なのに、主人公がそばにいたがったのはなぜなのか。本人も作中でその理由は「わからない」と言っているのだが、人間とはそういうものかもしれない。ヒトラーの秘書たちもこの期に及んで自分たちこそが優れているというヒトラーの台詞に引いているのだが、むしろそこに哀れさを感じたのだろうか。
個人的に一番印象に残ったのは、エヴァ・ブラウンがダンスパーティーの席でスウィングをかけてほしい、と言っていたシーンだ。最初は現実逃避がしたいだけかと思ったが、これはむしろエヴァが周囲の人物に気を使っているということだろう。残されたわずかな日数をせめて楽しく過ごさせてやりたいと思っているのだ。本作ではエヴァにしろヒトラーにしろ、自分に近い人物や好ましい人物には紳士的であったり、好人物であったりする。しかしその程度の優しさなら、凡人にでも発揮できる。状況に追いつめられたヒトラーがただの凡人に成り下がる姿を克明に描いた本作は、ヒトラーを描いた作品の中でもとりわけ印象深い一作と言えそうだ。