明晰夢工房

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「人間は機械であり自由意志など存在しない」と主張するマーク・トウェインの問題作『人間とは何か?』を紹介する

 

これほど身もふたもない本もなかなかない。何しろこの本でくり返されるマーク・トウェインの主張とは「人間とは自己満足のために生きる機械である」というものだからだ。機械であるからには、人間のどんな輝かしい行為も称賛には値しない。崇高な慈善事業も、尊い自己犠牲も、すべてはそれを為す者の自己陶酔にすぎないのであり、満足を最大化する為に機械的になされたことなのだ──という醒めた人間観が、この作品では延々と披露される。

 

この作品は、マーク・トウェインが匿名で発表した『人間とは何か?』を漫画化したものだ。この漫画はマーク・トウェインの分身である老人と、青年実業家との対話で構成されている。老人は独自の人間機械論を展開し、「人間に人間的価値などない」と冒頭で断言する。まだ若く、この人間観に納得できない青年はさまざまな観点から老人に反論するものの、結局は老人の言い分にねじ伏せられてしまう。人間は設計通りに作用する機械であり、シェイクスピアすらも「高性能な機械」にすぎず、自力で作品を生み出したのではない、という老人の主張は極論にも思える。だが、それでも彼の言い分にはどこか抗いがたいものを感じてしまうのも確かだ。

 

この身もふたもない人間観に、なぜ抗いがたい魅力を感じてしまうのだろうか。それは、この人間観を採用することにメリットがあるからだろう。この本の最終章で老人は、「人間は無力で何も生み出してはいない。だからすべて自分が悪いと思い背負い込むこともまた人間の驕りだ」と結論づける。この考えは人々を自己責任論から解放してくれるものだ。人間が機械であり、周囲の環境に自動的に反応しているだけの存在なら、あらゆる失敗はその人のせいではなくなる。そして、あらゆる成功もその人の功績ではない。「人間は気質や環境に形作られた存在なのだから、誇りも尊厳も全て捨ててしまうべきなんだよ」という老人の言葉は、成功者の驕りに冷水を浴びせかける。そこには、確かにある種の痛快さがある。

 

人間は設定通りに動くだけの機械であり、自由意志など存在しない。この前提に立てば、自分にも他人にも寛容になれるのだと、老人は説く。全ては「なるべくしてそうなっている」のなら、我々は誰を責めることもできないし、自分を責める必要もない。自分にも他人にも優しくなれる人間機械論は、なかなかいいもののように思える。だが、この人間観を全面的に受け入れることをためらわせるものもある。あらゆる凶悪犯罪も、自分に対してなされた加害も、なるべくしてなっただけと肯定するのか。身勝手な欲望で他者の人生を破壊した人物も、本当にそうせずにはいられなかったのか、という疑問がわく。ここに人間機械論の難しさがある。結局、それは人間の自然な感情に逆らうのだ。自由意志なき世界で倫理や道徳をどう組み立てるのか、「そうせざるを得なかった」人でも裁いていいのか、という問題が立ちはだかる。残念ながら、この本はこのあたりの疑問には答えてくれていない。

 

私はあまり哲学的な人間ではないので、自由意志があるかないかではそれほど悩まない。いずれが真実だとしても、自由意志があるという建前を捨てたら社会が成り立たなくなるとは思うので、あるということにして生きていくだろう。むしろ私が気になるのは、どうしてマーク・トウェインがこんな本を書いたのかだ。彼はアメリカ文学界における最大級の成功者なのだから、自由意志を否定するインセンティブはない。他の多くの成功者のように、自分は意志と努力でこの成功を勝ち取ったのだ、と主張してもいいはずだ。人間が機械にすぎないなら、彼は自分の成功を誇る資格がなくなってしまう。なのに、どうしてわざわざこんな本を書いたのか。

 

その答えともとれる内容が、この漫画のエピローグには描かれている。ここに出てくるマーク・トウェインの娘クララによれば、「父の性格的な特徴の一つは、困っている人に温かい同情を示すこと」だという。自己責任論を退け、弱者に寛容な価値観をつくりあげるために、マーク・トウェイン人間機械論を生み出したのではないか。弱者に情けをかけるるべきだと唱えるだけでは、もともと優しい人しか弱者を助けない。弱者に同情的でない人にも、弱者がその立場にあるのは当人のせいではない、と論理的に説明するために、人間機械論が必要だった可能性はある。この漫画で最後に説かれるとおり、マーク・トウェインの人間観は「赦しの思想」だったのだろうか。