明晰夢工房

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『世界歴史大系 ロシア史1』と「タタールのくびき」

 

ロシア史〈1〉9~17世紀 (世界歴史大系)

ロシア史〈1〉9~17世紀 (世界歴史大系)

 

 

ロシア史の本は案外日本には少なくて、とくにキエフ公国時代のロシアを書いている本はなかなかないので、この分厚い本を手に取りました。出版社は安心の山川出版。

499ページでロシアの起源からキエフ公国、モンゴルの侵入から「タタールのくびき」時代、モスクワの台頭からロマノフ朝の成立などを叙述しています。時代的にはピョートル大帝の直前あたりで終わっています。

 

読んでいてわかるのは、ロシアはキエフ公国時代からずっと遊牧騎馬民族に悩まされているということ。モンゴルのロシア侵入が最も大きな波ですが、それ以前からキエフ公国は遊牧民との関係に苦労しています。

 

ビザンツ皇帝は、前記の『帝国統治論』のなかで、1章から8章までをパツィナキータイ(ペチェネーグ)と隣接諸侯との交渉、関係の説明にあて、その生活ぶりを活写している。ペチェネーグと和を講ぜぬかぎり、ロースは、戦士としても商人としても、コンスタンティノープルにくることはできない、とさえいっている。(p60)

 

南ロシアのステップ地帯にすむペチェネーグはキエフ公国の強敵で、キエフ大公スヴャトスラフはこのペチェネグ族に襲われ戦死しています。スヴャトスラフはハザールを攻略し大打撃を与えていますが、このハザールもまた遊牧国家で、一時はスヴャトスラフにとってもモデル国家となった「先進国」でした。ハザールはユダヤ教を信仰していたことでも有名です。

 

モンゴルによるロシア支配、いわゆる「タタールのくびき」がロシア史にどんな影響を及ぼしたかは補説で解説されていますが、これについては大きな影響があったという説とそうでないという説があり、前者についてはさらにふたつに分かれているそうです。ひとつはモンゴル支配がロシアの後進性の原因になったとするもので、この時代にロシアの都市や手工業が大打撃を受けたことを強調します。もう一つの立場ではモンゴルは分裂状態にあったロシアに専制支配というプラス面を持ちこんだというもので、モンゴル侵入による被害を認めつつも、その支配体制が現在のロシアのもとになっているとするものです。

 

 

このあたり、モンゴル史家からするとまた別の見方があり、たとえば杉山正明氏は『モンゴル帝国と長いその後』でこのように書いています。

 

  そうしたいっぽう、バトゥ到来以後、ルーシは巨大な破壊と流血の嵐に襲われただけでなく、のちのちずっと野蛮なモンゴルに生き血をすわれ、とことんしゃぶられ尽くしたとされる。ルーシを牛にたとえ、その首にはめられた「くびき」をあやつって、主人顔にやりたい放題をくりかえす帰省中のモンゴルという図式・絵柄は、まことにわかりやすい。いわゆる「タタルのくびき」のお話である。

 これは、ロシア帝国時代につくられた、自己正当化のためである。アレクサンドル・ネフスキー神話とタタルのくびきは、どう見ても二律背反である。そのどちらをも主張して平然としているのは、もちろんおかしなことだが、実はいずれも童話か御伽噺とでもおもえばそれまでである。この手のことを真剣にとりあげるのは、どこか無理がある。(p172)

 

次いで宮脇淳子『モンゴルの歴史』より引用。 

モンゴルの歴史[増補新版] (刀水歴史全書59)

モンゴルの歴史[増補新版] (刀水歴史全書59)

 

 

モンゴル軍が侵入したとき、ロシアはリューリク家の貴族(公侯)たちが抗争をくりかえし、その支配下にある都市も対立関係にあって、統一がなかった。ロシアの描く公公と各都市と、そしてロシア正教会は、モンゴル人の支配を完全に受け入れた。これ以後の数百年間のモンゴルによる支配を、「タタールのくびき」と呼んで、「アジアの野蛮人による圧政のもとで、人びとは苦しんだ」と喧伝したのは、ロマノフ朝ロシア時代の19世紀になってからである。(p161) 

 

モンゴル史家は、モンゴル支配の残虐さはロマノフ朝の創作と考える傾向にあるようです。こうした見解が正しいのかどうかは私にはわかりませんが、モンゴル史家の見解も知っておくことで、よりロシア史の見方が深まると思います。