明晰夢工房

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天然理心流はなぜ多摩の豪農に伝わったのか?須田努『幕末社会』

 

 

天然理心流を開いた近藤内蔵助は、江戸の両国薬研堀に道場を構えていた。だがなかなか門人が増えなかったため、多摩の農村で出稽古をはじめ、この地域に土着していた八王子千人同心たちに剣術を伝えていったことはよく知られている。やがて多摩地域の百姓身分のなかから才能のある者が近藤家へ養子に入り、二代目以降の近藤家の名跡を継いでいく。宮川勝五郎、のちの近藤勇もこうして天然理心流の四代目を継ぐことになった。

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だが、もともと千人同心たちの武術だった天然理心流は、やがて豪農たちの剣術へと変わっていく。その背景には、幕末期特有の多摩地域の社会情勢がある。須田努『幕末社会』によると、天保期には百姓一揆の作法が崩壊し、蜂起した無宿たちは暴力の行使をためらわなくなった。百姓一揆とは本来、幕藩領主の「仁政」を引き出すための訴えであり、暴力を用いない作法が確立していた。だが領主への信頼が失われ、「仁政」を期待できない時世では暴力を封印する意味もなくなる。木枯し紋次郎』にも出てくる甲州騒動では三千人もの大集団が片端から大きな商家、村役人の住まいを襲撃し、百六か村三百五軒を破壊するほどの騒ぎを起こしている。多摩は甲州に隣接しているため、この地域の豪農や村役人は自衛のための武術を身につける必要に迫られた。

 

『幕末社会』3章によると、多摩地域において天然理心流拡大の受け皿になったのが、日野宿名主の佐藤彦五郎と、小野路村名主の息子小島鹿之助だ。佐藤彦五郎は土方歳三の義兄であり、みずからも天然理心流に入門し免許を得ている。彦五郎は名主として多摩地域の治安を守る義務感から剣術を身につけた。彦五郎は自宅を改造して道場とし、ここで近藤や土方・沖田ら試衛館のメンバーが多摩の門人に稽古をつけることになる。彦五郎や小島鹿之助のような地域の有力者が支持したことで、天然理心流は入門者を増やすことができた。

 

多摩の治安を担う者たちは、やがて剣だけでなく銃も手にすることになる。多摩はもともと幕領であり、代官の江川英龍が海防のため農兵を設置する必要があると訴えていた。英龍の息子・英武の代になり、「盗賊・悪党」の蜂起に対し農兵を取り立て、在地社会の治安維持にあたることになった。こうしてゲベール銃で武装する農兵銃隊が誕生し、百姓も武力として組み込まれた。幕末において「武威と仁政」が崩壊するなか、武士の治安維持能力が低下し、そこを農兵が埋めていった。

 

1866年、横浜開港以来続いていた物価騰貴や天候不順などが原因で、「武州世直し騒動」がはじまった。この世直し勢は最大で10万人余りにまでふくらんだが、多摩でこれに立ち向かったのが農兵銃隊だった。佐藤彦五郎は農兵銃隊を率いて世直し勢に発砲し、その後逃走する土民を追撃したという。天然理心流を学んだ試衛館メンバーが京では治安維持のため必要とされ、同じ流派を学んだ佐藤彦五郎が多摩の治安維持のため活動したことは興味深い史実だ。幕領である多摩に縁のある者たちが幕府側・秩序維持側に立ったのは必然だったのだろうか。