この本の著者、桃崎有一朗氏によれば、武士がどこからどう生まれたのか、という問いに日本の歴史学界は答えられていないのだという。そこで、中世史を専門とする著者がみずから古代史の領域に分け入り、調べてみることになった。本書『武士の起源を解きあかす』の内容は多岐にわたっているのですべては紹介できないが、ここでは著者が提唱する「有閑弓騎」という概念に着目したい。鎌倉武士がそうであるように、初期の武士は弓騎兵だった。日本独自の弓騎兵の姿を、著者は「有閑弓騎」と呼んでいるのだが、これが武士の誕生に大きくかかわっている。
なぜわざわざ「有閑」と名づけているかというと、弓術の習得には時間がかかるからだ。著者は弓道の部活動の経験から、日本で騎射術を最初に身につけたのは「食いつなぐための生産活動以外に割ける時間的余裕を持つ富裕層」だったと説く。ここでいう富裕層とは、富豪の百姓かその上の領主階級、つまり廷臣やそれを輩出する層のことである。
なぜ、騎射術が必要とされたのか。ひとつには、東北地方の蝦夷と戦う必要性からだ。まず蝦夷が弓騎兵であり、歩兵でこれと戦うのは困難であるため、律令国家も弓騎兵を必要としていた。このため、聖武天皇の時代に富豪百姓を弓騎兵に登用する政策がはじまった。これらの「有閑弓騎」が最初に日本史にあらわれるのが文武天皇二年、山背の賀茂祭における「騎射」だという。この当時、賀茂祭は日ごろ修練した弓馬術を披露する場でもあったらしい。
また著者によれば、弓馬術自体が蝦夷からもたらされた可能性もあるという。俘囚(蝦夷)へ対応する「夷俘専当」に任じられていた藤原藤成は、俘囚と交流するうち、蝦夷の騎射術を身につけたかもしれないと著者は考える。
俘囚と国衙の接点となる彼の仕事は、俘囚との特別に濃密な交流をもたらしたに違いない。そして蝦夷(俘囚)がこの機会に、藤成の一家に戦術を伝えた可能性が指摘されている。その説では、それは疾駆する馬上から太刀で斬る剣術だといい、その伝来を”戦術革命”と高く評価しているが、論証が不十分でり、残念だが本書では採れない。むしろ、蝦夷は「生来騎射に長じる」と定評があり、後に弓馬術が武士の代名詞となり、藤成の子孫の秀郷が伝説的な弓馬術の達人と評されたのなら、違う答えが導かれるはずだろう。藤成一家に戦術が伝えられ、それが武士の成立に影響を与えたとしたら、それは騎射術と考えるのが自然だろう。その異民族由来の特別な騎射術があってこそ、藤成の曾孫に秀郷という弓馬の達者が排出された、という筋書きは、十分にありそうだ。(p105)
蝦夷ははたして「異民族」なのか、という疑問はあるものの、蝦夷が騎射術を藤原秀郷の祖先に伝えたという指摘は、非常に興味深いものがある。武士という日本固有の軍事力の誕生に、東北地方が大きくかかわっていたと考えるなら、蝦夷はもっと注目されていい存在かもしれない。
『続日本後紀』には「弓馬の戦闘は、夷獠の生習にして、平民の十、その一に敵する能わず」と書かれている。蝦夷の戦闘能力は、普段の狩猟生活で弓術を身につけていることに由来している。蝦夷は馬飼も生業としていたため、弓術と馬術の両方を身につけられる状況にあった。「有閑弓騎」とは違い、生業そのものが戦い方に結びついている、という点では、蝦夷の在り方は遊牧騎馬民族にも通じるものがある。
この本の最終章で、著者は「武士とは統合する権力」だと説明する。武士とは古代から存在していたさまざまなパーツを組み合わせることでできた、複合的存在だ。武士の成立に欠かせないパーツのひとつとして、蝦夷という存在がある。既存の要素がいくつか結合し、どの要素にもなかった新しい性質が生まれることを「創発」と呼ぶが、著者にいわせれば、武士とは「古代の要素から創発された中世」ということになる。このように見るなら、古代蝦夷にも新たな角度から光を当てることができるのではないだろうか。