明晰夢工房

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「風流天子」徽宗皇帝の野心とチベットへの軍事行動

 

 

宋の徽宗皇帝は、一般的には風流人のイメージがある。水滸伝における徽宗は、芸術好きでプロレベルの画才をもつが、政治に無関心なため高俅や蔡京などの奸臣に朝廷を牛耳られる「被害者」のようなキャラクターになっている。ところが実際の徽宗には、意外と野心家の一面があったようだ。岩並新書の中国史シリーズ『草原の制覇』には、徽宗チベットに向けて積極的な軍事作戦を展開していたことが記されている。

 

いったん旧法党が政権を握ると、それまでの新法政策を否定し、新しい版図の煕河路も放棄することとなった。しかし、その後哲宗が親政をはじめて、神宗の政策の継承を宣言すると、ふたたび対外積極策をとって青唐に侵攻し、1099年には湟水を遡って青唐城を占領する。つづいて徽宗趙佶(在位1100~25)の治世になって新法路線を継承すると、再度青唐への遠征軍が派遣される。1104年には青唐のチベット政権を滅ぼし、その故地に州県制が導入されることになった。(p140)

 

王安石のはじめた「新法」は富国強兵策で、北宋をかつての漢や唐のような強大な国家にすることが理想だった。このため積極的な対外政策をおこなうことになるが、強大な契丹と戦うのは現実的ではなく、まず西夏の打倒が目的になった。西夏を叩くにはその南側の青唐チベットに橋頭保を築く必要があるため、北宋は青唐チベット集団を攻撃目標に定めた。青唐チベット集団は、馬の調達先としても重要な意味を持っていた。北宋は馬の産地を契丹西夏に抑えられてしまっているため、青唐の確保はこの点からも必要不可欠だった。

 

ところが、徽宗の時代に青唐チベット政権を滅ぼしたことが、北宋滅亡の第一歩になってしまう。

 

契丹西夏との戦争では失敗続きだった北宋にとり、神宗から徽宗にかけての対青唐戦争は、対外戦争における初めての軍事的な成功となったのである。しかし、このときの成功体験は徽宗の野心に火をつけることになる。このあと女真(金)の勃興に直面した徽宗は、さらに積極策を推し進め、ついには契丹とのあいだの盟約を破棄し、未完だった中国統一の宿願をかなえようと、金と連携して幽州(燕京)を奪回する。ところが、これが遠因となって、最終的には靖康の変という亡国へとつながっていく。神宗以来の煕河路経略にはじまる対外積極策の採用は、北宋滅亡に至るユーラシア東方の激動をもたらす遠因となる一つの転換点であった。(p140)

 

建国以来、契丹西夏に圧迫され続けた北宋にとり、青唐チベットを打倒できたことは快挙だったに違いない。だがこの成功体験が亡国を招いてしまったというのだから、歴史は何が災いするかわからない。徽宗が中国統一の夢を見なければ、北宋はもう少し長持ちしたのだろうか。徽宗契丹と組んで金と戦っていたらどうなっていたのかと考えたくなる。だがこれはしょせん後付けの思考でしかない。燕雲十六州の回復は北宋建国以来の悲願であって、太宗はそのために親征して契丹に大敗している。先祖が代々願ってきたことを、徽宗だけが願わずにいられたとは思えない。軍事などとは無縁な風流人のようでいながら、やはり徽宗も時代の子だったということだろうか。