明晰夢工房

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世界史の鼓動が聴こえてくる漫画『天幕のジャードゥーガル』2巻までの感想

 

 

 

これはある意味、世界史そのものを描いた作品だ。かつてモンゴル史家の岡田英弘は「世界史はモンゴル帝国からはじまった」と主張したが、そのモンゴル帝国が東西に領土を広げていく時期を舞台に展開する『天幕のジャードゥーガル』は、まさにモンゴル史が世界史と重なっていく時代のストーリーとなっている。主人公のシタラ、のちのファーティマ・ハトゥンはモンゴルの後宮に仕えることになるので、この作品も一種の「後宮もの」ではある。だがモンゴル帝国が東西のさまざまな文化を含みこむ大帝国であり、シタラ自身もイランでイスラームの高い文化を身につけた元奴隷なので、シタラがモンゴルに身を置くこと自体が高度な文化交流の意味合いを持ってくる。加えて、女性の権力が比較的強いモンゴル帝国でオゴデイの皇后ドレゲネと接点を持つシタラは、モンゴル帝国の命運そのものにも関わってくることになる。そんなシタラの一生を描く『天幕のジャードゥーガル』は、モンゴルの後宮という舞台を大きく超え、ユーラシア全体を視野に入れた物語になっていく。

 

この漫画の一巻では、三分の一くらいが奴隷少女シタラがイランの都市トゥースの学者夫婦のもとにひきとられ、イスラームの高い教養を身につけていく過程に費やされている。このあたりの描写はかなり丁寧で、シタラがエウクレイデス(ユークリッド)の『原論』やビールーニーの『占星術教程の書』について教えを受けるシーンも含まれている。「すべてのイスラム教徒は知を求める義務がある」ため、これらの書籍で解説されている高度な数学を、奴隷のシタラも教えてもらえている。学者夫婦の息子でやはり学問好きなムハンマドとシタラの交流も描かれ、順調に進めばいずれは学問好きな二人が結ばれる日もくるのだろうか、という淡い期待も抱かせるが、そうは問屋が卸さない。モンゴルがトゥースに攻め寄せてくるからだ。

 

モンゴル兵に捕らえられ、天幕群へと連れ去られたシタラは、ファーティマへと名を変えることになる。ここでファーティマは新たな文明に出会う。チンギス・カンの元へ向かう途中の長春真人だ。「不老不死の賢者」といわれる長春真人は道教を修めた人物で中華文明の象徴だが、この人物の前でファーティマは天文学の知識を披露する。これはイスラーム文明と中華文明の対面だ。ユーラシア大陸の大部分を征服し、あらゆる文明を呑みこんでいくモンゴルにおいて、世界中の文化は入り混じり、攪拌される。モンゴル人は世界を支配すべく運命づけられたと信じていて、事実モンゴルのもとで新たな世界秩序が生まれつつあった。しかしファーティマはモンゴルの驕りを赦すことはできない。ファーティマの主人となるチンギス・カンの第四皇子トルイの妃ソルコクタニは、世界中の知識をモンゴルが手に入れることを当然と考えている。その知識の象徴が、かつてファーティマが読んだことのある『原論』だ。この書物を手元に置いているソルコクタニは、世界のすべてを吞み込むモンゴルの姿そのものだ。このモンゴルの中において、ファーティマは自分だけは「異物」であり続けると決意する。

 

『天幕のジャードゥーガル』2巻でのキーパーソンは、ファーティマ同様、モンゴルの中の「異物」であるドレゲネだ。ドレゲネはモンゴルの第二代カアン・オゴタイの第六妃だが、いつも不機嫌そうな顔をしていて、オゴタイにすら「私はあなたの敵です」と吐き捨てるほど強烈なモンゴルへの敵意を抱えている。ドレゲネはあるきっかけでファーティマと出会うことになるが、彼女がファーティマに語る過去は読者に強い印象を残す。ドレゲネはもともとナイマン族の生まれでメルキトに嫁いだ人物だが、ナイマンは西域の都市から文化が流れ込む文明的な一族で、メルキトは族長がシャーマンを務める独自の信仰を持つ部族だった。それぞれ独自の世界を持つこれらの部族も、結局モンゴルに征服されてしまう。ドレゲネもファーティマ同様、モンゴルに世界そのものを奪われた人物だったのだ。モンゴルに征服された地域の人物でも、モンゴルに溶け込んで平穏な生活をしている者はたくさんいる。ファーティマの知己でサマルカンド出身のシラもそのひとりだ。だがモンゴルでの出世をめざす彼とは違い、ファーティマもドレゲネもモンゴルへの敵意を保ち続けている。カアンの妃でモンゴルの総会議(クリルタイ)に参加できるドレゲネと、豊かな知恵を持つファーティマが組めば、モンゴルを内側から食い破れるかもしれない。やがて来る嵐を予感させつつ、二巻ではさらに物語の舞台が広がった感がある。この段階ではまだ大きくストーリーが動いているわけではないが、モンゴルを舞台にした特大スケールの話が読めるだけでも世界史好きな人にとっては大満足の作品だと思える。漫画が面白かった人はモンゴル研究者のコラム「もっと!天幕のジャードゥーガル」を読めばさらに楽しめる。

 

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