明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

【書評】『土偶を読む』検証を通じて縄文沼に誘ってくれる良書『土偶を読むを読む』

 

 

土偶を読む』で示された「土偶は植物の姿をかたどったもの」との読み解きは明快で斬新だった。だが斬新な説だから正しいとはかぎらない。ベストセラーになりサントリー学芸賞を受賞した『土偶を読む』の新説が本当に正しいのか、縄文時代の専門家が大真面目に検証したのが本書だ。とはいっても、本書の内容はただの『土偶を読む』批判にとどまらない。土偶研究史や縄文研究の「今」についての考古学者へのインタビュー、植物と土偶をめぐる対談など、土偶をめぐる様々なトピックをとりあげているので、良質な土偶縄文文化入門書としても読むことができる。特別な前提知識は必要ないので、縄文時代に少しでも興味があるなら楽しく読めるのではないかと思う。

 

土偶を読む』はイコノロジー(見た目の類似)を用いて「土偶の正体を解明した」としている。そこで、本書では土偶が本当に植物に似ているか検証するため、編年と類例を用いる。編年は土偶の新旧関係や年代の配列、類例は同時期の同じタイプの土偶のことだ。この双方の面から見て妥当なら、土偶のモチーフは植物となる。そして検証結果はといえば、◎(妥当)となったものは、残念ながら一つもない。『土偶を読む』全般に編年と類例という視点が欠けているからだ。土偶はいきなりその形になるわけではなく、徐々に形が変わっている。有名な遮光器土偶も、長い時間をかけて小さな目から巨大な目へと変化している。『土偶を読む』では遮光器土偶の目は「サトイモの親芋から子芋を取り出した跡」と考察されているが、それなら目が小さい土偶はなんなのか、ということになる。しかも縄文時代は北東北でサトイモは育たなかったとの指摘もあり、この点からも遮光器土偶サトイモの精霊説は成り立たない。『土偶を読む』は土偶の正体を解明したとはいえないようだ。

 

土偶が植物ではないなら、土偶とはなんなのか。ここに興味を持つ人のために、本書は『「土偶とは何か」の研究史』の章を設けている。考古学者にして大道芸人の白鳥兄弟氏が担当するこの章はかなり充実していて、明治時代から2020年までの土偶研究の流れをこの章で一通り知ることができる。お守り説や神像説・女神説・半神半人像説・祖先像説・呪物説など、土偶に関しては数多くの説が登場していることがわかる。この章は変わり種の説も紹介していて、土偶宇宙人説への言及もある。この説の初出は1962年に宇宙友好協会の会報の記事に掲載されたものだそうで、意外と古い。こういう学問的には評価できない説まで網羅しているので、この章はなかなか楽しく読めた。これだけ多くの学説を並べられると、「土偶とは〇〇だ」と簡単に決められないのではと思えてくる。白鳥兄弟氏も「すべての土偶が同じ性格を持っていたとはかぎらない」といっている。それぞれの土偶に固有の役割があったかもしれないわけで、この点でもやはり「土偶は植物の姿をかたどったもの」とは断定できない。

 

本書ですでに検証されたとおり、『土偶を読む』の内容は学問としては評価できない。しかしこの本は刊行後すぐ多くのメディアでとりあげられ、サントリー学芸賞も受賞した。こうした高評価の背景には「専門知への疑念」があったと、最終章の『知の「鑑定人」』では指摘される。『土偶を読む』著者の竹倉史人氏は「土偶は一部の人だけで扱うのではなく、もっと開かれた議論が展開されることが望ましい」と主張している。これは竹倉氏の説が考古学者にほとんど相手にされなかった過去があるからだ。竹倉氏は考古学者に冷遇されたことを『土偶を読む』の「はじめに」と「おわりに」で繰り返し述べているが、こう書かれると読者は「考古学界とはアマチュアの自由な発想を認めない、頭の固い学者の集まりなんだな」という印象を持つかもしれない。事実Amazonではこの本を「バカ学者の視点を覆した痛快な内容」と評するレビュアーもいる。専門外の人間が、柔軟な発想で土偶の正体を解きあかしていく様は確かに痛快だろう。しかしその読み解きが正しいかは、専門知により検証される必要があるはずだ。竹倉氏は「本書にジャッジを下すのは専門家ではない」と主張し、『土偶を読む』の「鑑定人」から考古学者を除外した。だが最終章では『土偶を読む』を評価した人々のなかに、考古学者という「専門知の鑑定人」が不在だったことを問題視している。そして、ポスト真実時代に入り、消費者の好みや感情が優先されがちな現代だからこそ、良質な「知の鑑定人」としての専門家が必要になるとも説かれる。知は専門家だけが独占していいものではないが、専門家抜きに知を評価するのは危うい。だからこそ、『土偶を読む』を専門家が検証する『土偶を読むを読む』が書かれた。本書の帯に書かれているとおり、この本を読めば縄文研究の現在位置がわかり、縄文時代の解像度がかなり上がる。専門知が積み上げられた成果だ。縄文研究を通じて専門知の必要性を再認識するうえでも、本書は有益な一冊といえる。