明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

『バッタを倒しにアフリカへ』と「やりたいこと」という呪い

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バッタを倒しにアフリカへ (光文社新書)

バッタを倒しにアフリカへ (光文社新書)

 

 

もうだいぶ前から評判になっているので手にとってみたが、たしかにこれは一度読みだしたらやめられない本だ。日本とは全く異なるモーリタニアの生活習慣も興味深いし、バッタの孤独相と群生相の違いなど、他では得られない知識も得られる。何より、クライマックスで「神の罰」と言われるバッタの大群と著者が対峙するシーンは感動的だ。およそバッタにもアフリカにも興味がない読者でも、間違いなく楽しめる一冊だと思う。

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しかしながら、こちらのエントリを読んだあとに改めて本書を読んでみると、そこで浮かび上がってくるのは「やりたいことと稼ぐことを一致させる困難さ」だった。著者の前野ウルド浩太朗さんは、心の底からバッタが好きだ。どれくらい好きかというと、「バッタに食べられたい」と考えるほどに好きなのだ。

 

小学生の頃に読んだ科学雑誌の記事で、外国で大発生したバッタを見学していた 女性観光客がバッタの大群に巻き込まれ、緑色の服を喰われてしまったことを知った。バッタに恐怖を覚えると同時に、その女性を羨ましく思った。その頃、『ファーブル昆虫記』に感銘を受け、将来は昆虫学者になろうと心に誓っていたため、虫にたかれるのが羨ましくてしかたなかったのだ。

 

バッタが好きすぎてバッタに触るとアレルギーが出るまでになった著者なのだが、残念ながら日本ではバッタ研究の需要は少ない。日本にはバッタの被害がほとんど存在しないためだ。この国に住んでいては、バッタ研究で食べていくのは至難の業になる。プロゲーマー・ウメハラも語っているように、好きなことがあることがかえって「呪い」になってしまうのだ。

 

saavedra.hatenablog.com

プロゲーマーという職業が存在し、ゲーム実況をするユーチューバーがたくさん存在する現在とは違い、ゲームセンターで腕前を競うことが全てだった少年時代のウメハラにとっては、人生で一番打ち込めることが格ゲーだったというのは「呪い」だったに違いない。世界チャンピオンになるほどの腕を持っていても、その道を極めた先に富も名声も得られないような時代を彼は生きてきたのだから、こう考えるのは当然のことだ。

 

やりたいことの度合いが強ければ強いほど、それで稼げないのは不幸だ。バッタに食べられたい、というほどにバッタが好きなら、他の仕事で稼ぎつつ趣味でバッタ研究をする程度で満足できるはずがない。前野さんはあくまで研究者なのだ。そして研究者として大成するために、前野さんはモーリタニアへ旅立つ。バッタが猛威を振るう現場に赴かなければ、優れた研究者にはなれないと考えたからだ。ところがこの決断が、かえって彼の将来に危機を呼び込むことになってしまう。

 

唇はキスのためではなく、悔しさを噛みしめるためにあることを知った32歳の冬。少年の頃からの夢を追った代償は、無収入だった。研究費と生活費が保証された2年間が終わろうとしているのに、来年度以降の収入源が決まっていなかった。金がなければ研究は続けられない。冷や飯を食うどころか、おまんまの食い上げだ。昆虫学者への道が、今、しめやかに閉ざされようとしていた。

 

ろくに言葉も通じないアフリカで通訳やドライバーを雇い、サソリのうろつく砂漠を必死で探し回っても、前野さんはバッタの大群に遭遇することはできなかった。夢破れて帰国したあと、彼は無収入になってしまう。しかし、この無収入であるということが、後に大きな武器となる。

 

 収入源を探していた前野さんが目をつけたのが、京都大学白眉プロジェクトだ。若手研究者の育成を目的としているこのプロジェクトでは、5年間の任期で給料が得られ、しかも研究費も支給される。授業も一切やらなくていい。バッタ研究に専念したい前野さんにとっては渡りに船のプロジェクトだ。

このプロジェクトの面接では、かえって無収入であることがアピール材料になった。収入を失ってまでアフリカに行こうという熱意こそが、本気の証明になったからだ。最終面接に文字通り眉毛を白く塗って臨んだ前野さんは、京大総長から直々に感謝の言葉までもらうことになる。この場面はとても感動的だ。世の中何が幸いするかわからない。

 

こうして見事に「好きを仕事に」することに成功した前野さんなのだが、彼の体験談を「好きを極めれば成功できる」という美談にまとめ上げることができるとは、自分には思えなかった。むしろ、バッタ研究のような好きなことと稼げることの共通部分が少ないジャンルだと、研究者として生きて行くにはこれほどまでの困難が伴うのだ、という教訓として本書を読むことができるのではないかと思う。好きな道を征くことには覚悟が求められるのだ。

 

今「好きを仕事に」と言っている人の多くは、結局セミナーなどでそう言い続けることで食べている人が多いのではないかと思う。要はただのポジショントークだ。あるいは、たまたまそうすることに成功した人もこういうメッセージを発する。しかし、一人の成功者の影にはその何百倍もの失敗者がいることは語られない。自己啓発書はすべて成功者が書いているから、そういうものばかり読んでいたら生存者バイアスにどっぷり浸かることになる。

 

そういう意味で、この『バッタを倒しにアフリカへ』は、「成功者」にはなったものの、好きなことと稼ぐことを両立させるための極めて危険な綱渡りを余すところなく語った体験談として、とても貴重なものだと思う。本書には「好きを仕事に」という綺麗事は一切出てこない。書かれているのはアフリカでのひたすらに泥臭い著者の奮闘と、ときに笑える現地でのトラブルだ。こういう目に遭っても悔いがないという人しか、夢は追ってはいけないのかもしれない。夢への入り口で覚悟の足りない者を追い返すのも、それはそれで優しさだ。著者の意図したところかはわからないが、本書はそんな優しさに満ちている。

 

 

漫画志望者は必読。そうでない人が読んでも圧倒的に面白い『荒木飛呂彦の漫画術』

 

荒木飛呂彦の漫画術 (集英社新書)

荒木飛呂彦の漫画術 (集英社新書)

 

恐ろしいものの片鱗を味わったぜ…

これは凄い。無駄な箇所が一行たりとも存在しない。頭のてっぺんから尻尾の先まであんこがぎっしり詰まってる。いやむしろあんこしかない。こんなにも濃厚なノウハウ書なんてそうそう読めるもんじゃない。これは一流の漫画の指南書であると同時に、上質なエンターテイメントでもあります。下手なエンタメ小説を読むよりよっぽど面白い。

 

何しろ荒木飛呂彦が自作を解説しながら漫画のノウハウを手取り足取り教えてくれるんだから、これは面白くないわけがないんです。読者を引きつけるコツからジョジョの創作の舞台裏、キャラの作り方から魅力的な絵の描き方に至るまで、新書一冊でここまで充実した内容はちょっと他に例がない。荒木飛呂彦ファン、ジョジョ好きの人になら間違いなくオススメだし、そうでなくともおよそ創作というものに興味のある方ならまず読んで損はありません。

 

まず手にとってもらえなければ話にならない

 荒木さんは16歳のとき、同い年のゆでたまご先生がデビューしたことで衝撃を受けます。せいぜい最終選考に残る程度だった荒木さんはこのときから、どうすればプロになれるのかを真剣に考えるようになります。

そこでまず気をつけないといけないのは「編集者に最初のページをめくらせること」。

当時は漫画志望者から原稿を受け取ると、袋からちょっと出しただけでもう見てくれない編集者がいくらでもいたのです。そんな仕打ちを受け、順番待ちをしている荒木さんの目の前で泣いている人すらいました。そんな目にあわないためには、まずどうにかして原稿を読んでもらうところまで持っていかなければならない。

 

だから、1ページ目の絵柄は最大限の注意を払わなくてはいけません。どんな絵なら見てもらえるのか?きれいな絵や不気味な絵、エロい絵や逆に下手な絵など多くの例が挙げられていますが、ここでは例として荒木さんのデビュー作の『武装ポーカー』の絵も挙げられています。これは必見。

 

この最初のコマでは、5W1Hが入っていることが基本だと書かれています。そして、「複数の情報を同時に示す」ことも重要。主人公の台詞や髪型、服装などからその人物の性格や収入、独身かどうかなど、多くの情報が伝わってくることが大事であると説かれています。まずここで他作品と差をつけないと、評価すらしてもらえない。

 

漫画の基本四大構造とは何か?

 

まず読者を引きつける方法を学んだら、ここからいよいよ本題に入ります。荒木さんの考える「漫画の基本四大構造」は以下の4つ。この4つの要素から漫画は構成されています。

 

1.キャラクター

2.ストーリー

3.世界観

4.テーマ

 

これは重要な順番に並んでいます。つまり、キャラクターが一番大事だということです。実際、キャラクターさえ描ければ漫画は描けると主張する人もいます。ただし本書ではこの4つの要素のバランスをとることが大事であると説かれ、どれかひとつだけが突出した作品は限界があるとも書かれています。

 

面白いのが、『孤独のグルメ』をこの4つの要素で分析してみせている部分です。井之頭五郎というキャラの立った主人公がいて、ストーリーはないようで実はデザートからメインディッシュに至る食事の流れがきちんと起承転結になっている。「一人で食事を楽しむ」というテーマも明確であるなど、やはり名作と言われる作品は各要素のバランスが取れているのです。これから何かの作品を鑑賞するときも、この4つの要素に分解してみることで多くのことが学べると思います。

 

魅力的なキャラを作るための「身上調査書」

 

 漫画の4要素のうちもっとも重要なキャラクターをどう作るか。荒木さんはキャラの絵を描く前に、必ず「身上調査書」を作ることにしています。ここでは年齢と性別からはじまり、身長と体重はもちろん趣味や特技、将来の夢から家族関係など、全60項目にわたる詳細なプロフィールを書き込みます。キャラを立たせるにはここまでやるのがプロ。

 

ここでいちばん大事なのが「動機」だと荒木さんはいいます。キャラを考える上ではまず性格よりも、どんな目的でストーリーに参加しているかが重要。そして、少年漫画で読者を一番惹きつける動機はやはり「勇気」。何かに立ち向かっている人物は普遍的な魅力があります。でもただひたすら正しい人間だと偽善的になるので、時には人間的な弱さも加味する必要がある。身上調査書には「弱点」も必要であるとも書かれています。そうでなければ読者が感情移入できるキャラクターにはならない。

 

そして、敵キャラには内に秘められている醜い欲望を体現させる必要があります。誰もが持っている後ろめたい感情を解放させるからこそ、魅力的な悪のキャラクターができあがります。ディオが圧倒的に人気があるのはまさに「俺たちにできないことを平然とやってのける」からなのですが、このことをディオの生みの親である荒木さんに解説されると異常なほどの説得力があります。

 

少年漫画のストーリーは常にプラスへと向かわなくてはならない

本書では、エンターテイメント作品ではストーリーが常にプラスへと向かい、主人公は「上がって」いかなくてはいけないと解説されています。ジョナサンがディオに愛犬を殺されたりするようなマイナスが初期にあったとしても、状況は時間の経過とともにプラスにならないといけないし、主人公はだんだん強くならないといけない。

主人公が停滞したり悩んだりするようなことは基本、良くないことだと書かれています。物語のスパイスとして一時的に苦境に陥ることがあっても、それはあまり長引かせては読者の気持がマイナスになってしまうので駄目。一例として「キック・アスジャスティス・フォーエバー」のように、主人公が一度普通の女の子に戻るような展開は物語を盛り下げるだけ、とも解説されています。

 

この視点から見ると、いろいろと言われていた『異世界はスマートフォンとともに』だって、主人公がどんどん強くなって女の子に次々とモテていっているし、その意味ではちゃんと少年漫画の王道にのっとってはいるわけなんですよね。エヴァンゲリオンはあえて終盤でシンジの内面の葛藤を描いて話題を呼びましたが、王道をあえて壊すことで読者を惹きつけるのはかなりの冒険になるのだろうと思います。あれをやらなければエヴァは社会現象になることはなく、普通の面白いロボットアニメで終わっていたんでしょうから、時には冒険することも必要かもしれませんが。

 

エンターテイメントに現実を持ち込んではならない

 実際、主人公の状況がどんどん好転していくなんて現実にはありえないことです。でも、そのありえないことを描くのがエンターテイメントなんだ、と荒木さんは主張します。これは全く同意です。

よく、「こんな冴えない男が可愛い女の子にモテるなんてご都合主義じゃないか」という人がいます。でも、そういう現実ではありえないことを実現できるからこそ漫画は楽しいんです。ひたすらリアリティを追求するなら、それはエンタメではなく純文学になってしまいます。『王立宇宙軍』のシロツグはかっこよくリイクニを助けられたりしないからこそあの作品には価値があるのかもしれませんが、エンタメとして見るならカタルシスは足りません。作者は読者を楽しませないといけないのです。

 

以前、「ヒットしない作品は往々にして俺TUEEEではなく作者TUEEEをやってしまっているのだ」という話を聞いたことがあります。これがリアリティだ!と情け容赦ない現実を読者に突きつけていくスタイルは、作者の傲慢というものなのかもしれません。あれだけ過酷なブラジルのスラム街を描いている『シティ・オブ・ゴッド』だって、最後にはちゃんと救いが用意されているわけですし。

「自分のアタマで考える」ためにこそ「地図」が必要

本書の内容について、私にも全く異論がないわけではありません。ストーリーが常にプラスに向かわなくてはいけないという部分についても本当にそうだろうか?と思いますし、要所要所で語られる映画作品についての見解も、必ずしも同意できないものもありました。

ですが、ずっと漫画の第一線を生き抜いてきた人の見解として、創作を志すならまず本書の内容は知っておく必要があるだろう、と思いました。もちろん、「自分のアタマで考える」ことは大事です。でもまったく手探りの状態でゼロから考えるよりは、まずは偉大な先達の思考法を知り、その上で自分のアタマで考えるほうがずっと効率も良いし、得られるものも多いはず。

 

荒木さんはあとがきの中で、この本は「漫画を描くための様々な道が記された地図にしたかった」と書いています。漫画家としてどういう方向性を目指すにしろ、まずは手がかりとなるものが必要。本書は漫画家を目指す人のための、力強い羅針盤となってくれます。もちろんそんなことを考えずとも、ただ暇つぶしのために読んだとしても面白い一冊です。暇つぶしで終えるつもりが、思わず漫画を描きたくなるなんて副作用までついてくるかもしれませんが。

「黄金の道」とは、さらに発展していくための道。今いるところから、先へ行くための道です。「自分はどこへ行くのか?」を探すための道とも言えます。

ですから、変なことを言うようですが、この『漫画術』に書いてある通りに漫画を描いてはいけないのです。僕が「黄金の道」として書いたことをそのまま実践しても、そこに発展はありません。

この『漫画術』を土台にして、さらなる新しい漫画や、パワーアップした漫画、あるいは全く違っていたり、とてつもなく正反対の、この本を無視した漫画でもいいでしょう。そういったものを皆さんに生み出して欲しいと思って書いた本なのです。(p280)

  

「おんな城主直虎」が変えたもの、変えなかったもの

今回の「おんな城主直虎」はついに徳川家最大の黒歴史、信康事件を主題に取り上げてきた。ドラマ中では信康は賢く、家臣からの信頼も厚い名君として描かれている。従五位の下の位を与えるという信長の申し出も徳川家に不和を招き寄せるための策だと即座に見抜き、辞退する慎重さも見せた。もしここで信康が官位を受け入れていたら、朝廷から官位をもらった義経と同じような立場になっていただろう。

 

しかし、信長の周到さは信康の更に上を行っていた。信康は大人しく信長の手駒になるような男ではないと見るや、今度は難癖をつけて排除してしまおうというのだ。海老蔵演じる信長は声こそ荒らげないものの、いやだからこそかえって異様な迫力を醸し出している。洋装に身を包み這いつくばる酒井忠次を見下ろす信長の姿は魔王そのものだ。

 

「おんな城主直虎」は、今まで数々の革新的なドラマ展開を行ってきた。徳政令という地味なテーマを前半のドラマの主軸に据え、瀬戸方久のような今までの大河ではあまり前面に出てこなかったような人物にも光を当てた。何より視聴者の度肝を抜いたのは小野政次の最期だ。井伊家伝記では悪役でしかない政次を隠れた忠臣として描いただけでも画期的だったのに、直虎自身の手でとどめを刺すという凄まじさは、中世という時代の残酷さを余すことなく描き出すという脚本家の覚悟を視聴者の胸に刻みこんだ。あのシーンがあっただけでも、このドラマは大河史上に残る名作になったと思っている。

 

たとえば「軍師勘兵衛」に見られたような、ある種の甘さはここには全く見られない。このドラマには官兵衛のように、戦のない平和な世を作るなどと言い出す者もいなければ、そんな夢を見ている者もいないのだ。いつ自分の命が取られるかわからない世界で、ただ皆が生き残るために必死で生きている。そのひりつくような緊張感が、このドラマを良い感じに引き締めている。国衆として井伊谷という小さな領地をどう切り盛りしていくかだけが、直虎の課題だった。これこそが戦国のリアルなのだ。天下国家のことなど射程に入れなくとも、優れたドラマ作りは可能だということを見せつけた本作は、大河の新境地を切り開くことに見事に成功している。

 

直虎の近親者が次々に命を奪われ、政次までが死に追い込まれるという容赦のない展開が続いたあとで、ようやく万千代の出世物語が始まった。今まで滅亡寸前にまで追い込まれた井伊家の運命を視聴者がつぶさに見ているからこそ、ここでカタルシスを得られる展開になってきている。しかしここに来て、このドラマは信康事件というさらに過酷な題材をぶち込んできた。このドラマは本当に読者を安心させてくれない。まるで脚本家が喉元に白刃を突きつけているかのようだ。この作品は視聴者の覚悟を試してくる。こちらもいい加減な気持で対峙するわけにはいかない。

 

これだけさまざまに挑戦的なことをしている「おんな城主直虎」なのだが、「魔王」としての信長のイメージだけは変えなかった。信長という人物は歴史学の世界ではかなりイメージが修正されていて、従来考えられていたのとは異なりむしろ保守的な部分も多かったのではないか、と指摘されることが多い。ここでは詳しく触れないが、信長軍の特徴とされる兵農分離も実際にはなかったと言われたりするし、天下布武の「天下」の示す範囲も機内だけを示していると最近は考えられているらしい。史実の信長の人物像は、ドラマ中で描かれているものとは隔たりがある。

 

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それでも、ドラマ中であえて従来通りの「魔王」的な信長像をここで出してきた理由は、それこそが徳川家に降りかかった災厄を描く上で効果的だったからだろう。中世という時代の残酷さ、理不尽さを描き尽くすために、世間に流通している信長のイメージを利用したのだ。これは視聴者におもねるためではない。あくまで脚本上の必要性からやっていることだ。

その証拠に、このドラマでは家康の母に信康を斬れ、とまで言わせている。いくら生きのびるためとはいえ愛する我が子を殺せということほど、現代人に理解しにくいものはない。それでも逃げずにこのシーンを描いたこのドラマは本当に凄い作品だと思う。

 

信康は賢すぎるため、信長の押し付けた理不尽を一身に背負う覚悟でいる。我が身を犠牲にして徳川家を救おうとしているのだ。そして、そんな人物であるからこそ、誰も信康は死なせたくない。家臣が次々と自分を斬れと訴える姿は、「自分がスパルタクスだ」と大勢が名乗り出た『スパルタクス』のラストシーンをも彷彿とさせる。こんなにも辛い別れはそうそう見られるものではない。

 

saavedra.hatenablog.com

今思えば、ここで予想していたようなことはすべて杞憂に終わった。直虎周辺の人間が次々と世を去ってしまうのは、中世の残酷さを描くために必要なことだった。そして、後の直政の雄飛の時代に至るまでの「溜め」を作るためにも、やはり井伊家の危機は描かなければいけなかったのだ。

 

これから先の歴史の展開は、史実を調べればわかることではある。だがこのドラマは最期まで気は抜けないだろう。今までの展開がこちらの予想をすべていい意味で裏切っているからだ。「視聴者の予想を裏切り、期待に応える」という、フィクションの理想の姿がここにはある。この画期的な作品の挑戦を、一視聴者として最後まで受け止めたい。

お前が作者になるんだよ!

今週のお題「芸術の秋」

 

「芸術の秋」なんて言いますけど、そもそも芸術に取り組むのに秋にかこつける必要ってないと思いません?暑くも寒くもないし季節的に取り掛かりやすいというのはあるかもしれないけど、結局鉄は熱いうちに打てで、なんだってやる気になった時に取り組むのが一番なんですよ。

「雫、それって本当に今やらなければいけないことなのかい?」って雫パパに言われても、やっぱり雫にとってはあの時期に小説を書かないといけなかったわけです。受験勉強を犠牲にするくらいの覚悟で臨まないと、物語的にも緊張感が出ないでしょ?まあそんなメタな話はどうでもいいとしても、物事には必ず「旬」がある。その時期を逃してはいけない。チャンスの女神に後ろ髪はないのだ。

 

とは言っても世の中には冬のせいにして暖め合う人達だっているわけだから、秋のせいにしてなにか芸術的なことを始めるのもいいだろう、と思います。絵も音楽もできないよ、という人でも、小説なら取り組めるかもしれないですよね。普段ブログ書いてる人なら文章を書くのにも抵抗はないだろうし。

ところで、いつもブログで書いている通り私は投稿サイトで小説を書いてるんですけど、小説って芸術に入るんでしょうかね。文芸って言葉があるくらいだから入るのかな。いや、これはたぶん小説にもよるんでしょう。三島由紀夫みたいないかにも文学文学してる格調高い文章が書ければこれは「芸術」でいいかもしれない。じゃあミステリは?ラノベはどうなの?私の書いてるものは芸術の範疇に入れていいの?

 

……と3秒くらい考えたんですが、先日カクヨム公式で拙作を散りあげてもらったことを思い出しました。

 

kakuyomu.jp

 

「今回は特に“文章”が良かった作品をご紹介。もちろん文章以外も素晴らしいのだけれど、その素晴らしさを十二分に引き出す文章の力を持った作品を集めました」ですって。嬉しいですねえ、こういうことを言ってもらえるというのは。やっぱり小説って全部文章で構成されているので、こうして文章を評価していただけるというのは何よりの喜びです。

 

……え、結局ただの自慢じゃないか、ですって。大事なのはここからなんですよ。リンク先で公開されてる私の作品について、「なんだ、こんな程度俺だって書けるわ」とお思いになった方もいると思います。そう、それですよ。芸術に取り組むきっかけなんてその程度でいいのです。立派な動機なんて要りません。なんかあいつ調子に乗ってるから鼻っ柱をへし折ったるわ、これから私が本物の文章力というものを見せてさしあげますよ。そのくらいの気持ちではじめて全然OKなんです。何しろ、今ちょうど面白そうな企画やってますからね。

 

kinky12x08.hatenablog.com

レギュレーションなど詳しい内容についてはリンク先を見て欲しいのですが、この小説大賞の凄い点はなんといっても「応募作すべてに審査員3人からの詳しい講評がつく」ということです。ウェブ小説の悩みどころとして「なかなか感想がもらえない」というものがありますが、この大賞に応募すれば、少なくとも3人からは確実に読んでもらえるのです。講評の内容だって真剣です。遊びで投降しても全然無問題ですが、講評は本当に全作品しっかり読んで真面目にやってます。ちなみに第3回の講評はこんな感じです。

kinky12x08.hatenablog.com

いやあ、この時は私は金賞で惜しくも優勝逃しちゃいましたね(また宣伝かよ)。このように優勝作品にはイラストもつきますし、優勝しなくてもきっちり隅から隅まで目を通してもらえるので、自作を読んでほしい方は気軽に応募してみましょう。もしかするとうっかり優勝してしまうなんてこともあるかもしれないから。

 

カクヨム公式に取り上げられた私の作品について、「いや他にいいのあるでしょ?なんでもっといい作品に光を当てないの?」とお思いの方もいるかもしれません。おそらく、それは間違っていないでしょう。投稿サイトには膨大な数の作品が存在するので、すべての良作に均等に光が当たるわけではないのです。もっと取り上げられるべき優れた作品だって他にあるかもしれない。

 

ただ確かなことは、バットは振り続けなければボールには当たらないということです。私の書いたものは運良く公式の目に止まっただけ。それはそうです。でも、少なくとも投降し続けないと読んでもらう機会も訪れない。自分の番が回ってくるまで腐らずにやり続けないことには、道が開けないことも確か。私がウメハラだったら「ガチャを回し続ける意志力」って新書でこの辺の話題を書きたいと思います。

 

そうは言っても、いつ自分の番が回ってくるかわからないのではモチベーションが下がり気味になるのも間違いのないところです。でも本物川小説大賞なら、100%確実に読んでもらえます。こんな機会はなかなかありません。今小説やってみようかな……と悩んでいる方は、もう思い切って挑戦してみるのがおすすめですよ。人生そんなに長くないし、見る阿呆より踊る阿呆になったほうが100倍楽しいってことは実体験上確実に言えますから。

 

ちなみに、この企画の主催者の大澤めぐみさんは傑作青春小説『6番線に春は来る。そして今日、君はいなくなる。』の作者です。これは切なくて読後感がとてもいいのでぜひ読んで欲しい。

saavedra.hatenablog.com

「豆腐メンタル」でも文章を書き続けるには、どうすればいいのか?

ウェブで文章を書くなら批判は避けられない

ウェブで小説などを書いていると、時にはあまり聞きたくない言葉を浴びせられることがあります。オチの意味が分からないだとか、こんなものを書くなんて痛々しいにも程があるだとか、挙げ句の果てにはこういう小説は書くべきではないだとか、こちらを叩いてくる人達の言葉は実にバリエーション豊か。

 

いや、書くべきではないって何?なんでそれをアンタが決めるの?表現の自由って何だ、こっちが書きたいことを書いて何が悪いんだ、とは思いつつも、こういうことを言われるたびにやはりメンタルは削られていくものです。私みたいに大して有名でもない作者ですらこんなことを言われるのなら、もっと有名な作者は一体どれくらいの批判を浴びているのか……?これから紹介するエッセイは、カクヨム初期にファンタジーランキング1位になった作品を書いていた佐都一さんのエッセイです。

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このエッセイ、本人の実体験を踏まえて書かれているだけあって、実に示唆に富んでいるのです。カクヨムがオープンして間もないころには様々な混乱があり、コンテストの最中には上位ランカーはさまざまな心ない言葉を浴びせられました。このエッセイは、佐都さんがそのような状況下にあって「どうすれば豆腐メンタルでも創作を続けられるか」について実践してきた内容を綴ったものです。

 

これはまさに現場からの声です。今心が傷つき弱っている人に、無責任な叱咤激励の声を飛ばす人は多いものですが、そんな外野からのアドバイスなんて大して役には立ちません。砲弾の飛んでこない安全圏からなら、どんな勇敢なことだって言えるのです。このエッセイはおもに小説を書く上での心構えについて記したものですが、ブログにも通じる部分が大きいと思うのでここで紹介する次第です。

 

悪意は立ち向かうのではなく「かわす」方がいい

「そんな弱いメンタルのままじゃプロになれないよ」とウェブ作家に向かって言う人がいます。そもそも皆がプロになりたいわけではないのですが、性格というのは生まれつきの部分も多いし、そうそう簡単に変えられるものではありません。

そこで、より実践的な方法として、このエッセイでは悪意と戦うのではなく、悪意をかわす方法を推奨しています。例えば、おかしな上から目線のアドバイスネガコメが来たら削除を推奨。悪意をぶつけたい人にまで向き合う必要はないし、逃げればいい。ツイッターで変な人に絡まれたら即ブロック。これでOK。

 

ここで、「いや、せっかく読んでくれたんだから批判的意見にも向き合わなければ」と真面目な人ほど考えがちなのですが、これこそが心が折れる原因になるのです。こちらに余裕があって、様々な意見に耳を傾けられるのならそれもいいでしょう。でも、それができるのはもともと強い人だったり、たくさん褒められていて「感情貯金」に余裕のある人だったりするのです。豆腐メンタルの人が強い人と同じ戦略を採用してはいけません。弱者には弱者なりの身の施し方というものがあるのです。

 

どうしても避けられない「嫉妬」の感情とどう向き合うか

このエッセイでは、ウェブ作家生活を続ける上でどうしても避けられない「嫉妬」の感情との向き合い方についても触れられています。全体からすればほんの一握りではありますが、ウェブの世界では参入してすぐにランキング上位に駆け上り、書籍化の栄光を勝ち取る人がいます。そこまで行かなくても、「○○PV達成しました」「○○ポイントに到達しました」など、日々成果報告がツイッターで流れてきます。

これは、そうした成果を得られていない人からすると、かなり心をえぐられるものです。ブログのPV報告や収入報告にも似たような面はあるでしょう。他人の成功報告は、時にそれができていない自分の無能さの証明であるように感じられることがあるのです。これが辛い。

 

嫉妬の感情なんて、持たなければそれに越したことはありません。しかしそう思い通りにならないのが人の心というものです。では、どうすればいいのか?詳しくは本文を読んで欲しいのですが、ここでも大事なのは「目をそらす」ことです。嫉妬心は存在しているのだから、これを無理やり叩き潰してもどうにもならない。それよりも、まず受け入れること。自分の心が折れないようにすることが何よりも大事です。

 

謙虚になって心が折れるくらいなら、傲慢になったほうがいい

これはあくまで私の場合は、ということですが、批判を受けてあまり謙虚になるのは考えものだと思っています。というのは、自己評価が低いときというのは、酷評ですら「誰も読んでくれない自分の作品をちゃんと読んでくれたんだ、感謝しなければ」と思ってしまい、ネガティブな言葉を全身で受け止めて疲弊してしまうからです。

 

ですが、これは危険な徴候です。酷評した人が見る目があるとは限らないし、仮にその人の言うことが正しいのだとしても、酷評を真に受けすぎて自分の能力まで疑うようになると、書き続けることができなくなってしまうからです。

書き続けることを邪魔するような言葉は、どんな正論でも毒です。どんな物事でも、結局続けなければ物にならないのだから、こちらの心を折ってくるような言葉は聞かないほうがいい。

 

冒頭で「貴方の話はオチの意味がわからない」と言われたと書きましたが、これは私が創作をはじめて間もないころです。その人は、良い点はほんの少しだけ、悪い点についてはずいぶん念の入った詳細な感想を送ってきました。私は何も言い返しませんでしたが、心のなかではこう思っていました。

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ちゃんとオチつけてるのにオチがないように思えるなんて、頭悪いね。自分の読解力のなさを長々と感想欄でアピールするなんて、生きてて恥ずかしくないの?こう考えたほうが私はテンションが上がりますし、どう見てもこちらの心を折りにかかっている意見にまともに向き合うだけ時間の無駄だと思っています。別にその人のために書いてるんじゃないんだから。

 

作品を読んだ人がその作品にどのような感想を言っても、それは表現の自由というものでしょう。しかし作者の側も、ネガティブな感想を受け取らない自由があるのです。メンタルを健全に保つためにも、受け取る言葉は選んでいい。エッセイ中にも書いてありますが、酷評を真に受けてこちらが書けなくなっても、向こうは責任なんて取ってくれないんだから。

 

 心が折れやすい人にこそ書いて欲しい

 実際問題、人目に触れるところで何か書いてたらいろいろと言われてしまう、それ自体はどうしようもないことです。ですが、それで心が折れるような人はブログなんて書かない方がいい、とは思いません。それだと結局炎上上等のプロブロガーみたいな人ばっかり生き残ることになるんじゃないの?とも思うからです。

 

どの世界でもタフな人が生き残りやすいのは事実で、自然とそういう人の声が大きくなりがちです。だからこそ、時にはそうでない人の声も聞きたくなるのです。運良く勝ち上がった人の生存者バイアスまみれの自己啓発書なんて世の中にはいくらでもあふれかえっているのだから、その逆のメッセージにだっていくらかの価値はあるはず。マイノリティの発言はそれだけに貴重なのだから、上手く自分を守りつつ書き続ける方向性を模索するのも悪くないでしょう。今回紹介したエッセイは、そのような人にとって大いに役立つものだと思います。

ローグライク的価値観を持つと、人は何度でも挑戦できる

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最近、片道勇者でずっと遊んでいる。こういうローグライクというのは面白い。明確なストーリーはないが、アイテムや町、モンスターの配置などはランダムで決まるので何度プレイしても違う展開が楽しめるし、ジョブの種類も多いので攻略法も職ごとに変わってくる。1本で長く楽しめる作品だ。

 

ローグライクというのは簡単に言うと、トルネコシレンのようなゲームのことだ。マップがランダムに生成され、アイテムの配置もプレイのたびごとに異なる。主人公が死ぬとまたレベル1からのスタートになるので、プレイヤーは何度でも緊張感をもってゲームに臨めることになる。 

 

 

この種のゲームの特色は、プレイが運に大きく左右されることだ。

空腹なのに食料が手に入らないと死ぬし、ろくなアイテムがない状態でモンスターハウスに突っ込むと詰むし、あと1回攻撃すれば倒せるはずだったモンスターにたまたま攻撃が空振りすればそこでジ・エンドだ。

逆に、たまたま強い攻撃アイテムを持っていてモンスターハウスの敵を一掃できればレベルはたくさん上がるし、大量のアイテムをゲットできるし、いいことずくめだ。そういう理不尽さも、ローグライクの魅力のひとつだ。毎回のプレイそのものがストーリーになるから、ストーリーが必要ない。

 

ローグライクの世界における成功には、運が大きく関わっている。プレイヤーが何度も何度もこの手のゲームを遊んでしまうのは、次は幸運にもうまくいくかもしれない、という期待が持てるからだ。努力は必要だが、すべてが自己責任ではない。失敗するたびに「ここで死んだのは俺が下手だからだ」と自分を責めていたら、トルネコは「1000回遊べるRPG」にはならない。

 

 

「英雄たちの選択」によく出演している飯田泰之さんが、「人生の8割くらいは運」とどこかでいっていた記憶があるが、渾身の作品が受けるかどうかだって、ある程度は運で決まってしまうところがある。だから、1作にすべてを賭けてはいけない。結果がすべて実力の反映だと思っていたら、結果が伴わないともう次に挑戦する意欲がなくなってしまう。

 

逆に、当たるかどうかは運次第だくらいに気楽に構えていると試行回数を増やせるし、試行回数が増えればいつかは当たることもある。繰り返しているうちに実力もアップする。しょせん確率論の問題なら、当たるまでガチャを回し続ければいい。

 

先日、知恵泉に出演した為末学さんが「スポーツ選手って頑張れば夢が叶う的なことを言いがちですけど、それって逆に言えばうまくいってない人は頑張ってないってことになるんですよね」と話していた。頑張れば必ずゴールにたどり着く。これは1本道RPGの価値観だ。でも、現実はローグライクの方に近くて、大きく運に左右される。親が毒親だったりしたら、生まれたときからモンスターハウスに突っ込まれているようなものだ。天災のような理不尽なイベントもしばしば起きる。個人的に、「努力すれば夢は叶う」的な公正世界信念のようなものは、東日本大震災でかなり壊されたのではないかと思っている。

 

はっきり言って、頑張ってもダメなときはダメだし、頑張らなくてもうまくいくときはうまくいくのだ。そういうものだと知っていれば失敗しても過剰に自分を責めることもないし、次回のプレイではいい目が出るかもしれないと期待を持つこともできる。深刻になりがちな人ほど、ローグライク的価値観を取り込む必要があるのかもしれない。

「ガチ恋おじさんの黄昏」を読み、「優しさ格差」について考えた。

noteの有料記事ですが、先日こういう文章を読みました。

note.mu

「ガチ恋」という言葉は最近知ったんですが、これは「アイドルに対して真剣な恋愛感情を抱き、それをモチベーションにしてアイドルのイベントに参加する行為、またはその人」と記事中では定義されています。スターとしてのアイドルではなく、一人の異性としてアイドルを求める、この記事はそういう「ガチ恋勢」の人へのインタビューをまとめたものです。

 

これがなかなかに辛い内容なんです。私は子供の頃からアイドル、と言うか芸能界そのものにあまり興味がなくて、「推し」のためにCDを何十枚も購入するような人のことはよく理解できなかったのですが、この記事を読んだあとではそういう人にもそれなりに切実な事情があるのだ、と考えるようになりました。

 

現実世界のヒエラルキーが、そのままアイドルファンの格差になる

この記事を読んでいて驚いたのは、アイドルファンの世界にも、男社会のヒエラルキーそのままの格差が存在するらしい、ということです。

この記事における「ガチ恋おじさん」(以下Aさんとします)によると、アイドルファンの世界では、ちゃんとした仕事についていて家庭を持っている、いわば現実社会における勝ち組のような人が発言力が自然と強くなるそうです。

 

アイドルファンの世界では、「ガチ恋」はあまり良く思われないそうです。いえ、一般世間からもあまり良くは思われていないでしょう。恋心が報われることはまずないのだし、あくまで自分はアイドルのパフォーマンスを応援するためにファンをやっているのだ、というのが大人の態度ではあるのでしょう。

その立場からすれば、アイドルが結婚を発表したとしても、少なくとも表向きはこれを祝福するべきだ、ということになります。実際、Aさんの入れ込んでいるアイドルが結婚を発表したときも、Aさんはファンならそれは祝福するべきだ、と言われたそうです。ファンなら推しの幸せを我が事のように喜ぶべきだろう、というのはひとつの正論ではあります。

 

ですが、こういう正論をAさんに言ってくるのがどういう人なのかというと、良い仕事についている人や家庭持ち、恋人のいる人、といった人達なのです。そういったものに恵まれていないAさんからすると、これがとても理不尽なことのように感じられるのです。貴方達がそういう正論を言えるのは、恵まれた立場にいるからでしょう?と。

 

私も創作をする立場の人間ですが、ウェブの小説書きの人の中では「多くのポイントを稼ぐことが大事なんじゃない。少数でも熱心に読んでくれる人がいることのほうが大事」と主張する人を見かけたりします。でも、よく見てみると、そういうことを言っているのは結構多くのファンを抱えていたり、界隈では実力者として有名な人だったりするのです。

「ファンなんて少数でいい」という台詞が吐けるのは、たくさんの評価をもらっているという余裕が背景にあるからではないの?そもそも「少数の熱心なファン」だって、ある程度有名にならないとつかなかったりしませんか?と私なんかは言いたくなったりするのですが、人間、自分の持っているものには無自覚になりがちなもののようです。

「感情貯金」に余裕のある人とない人の格差

 推しのアイドルが結婚しても祝福できる、我がことのように喜べる。なるほど、これは大人として望ましい態度です。ですが、そういう態度を取れる人というのは結局、アイドル以外に心の拠り所を持っているのです。

Aさんにガチ恋なんておかしい、と正論をぶつけてくる人は、家族や恋人、良い仕事など、実生活において心の支えになるものを持っている人ばかりでした。精神的に余裕のある人が、他者の幸せを祝福できるのは当然のことです。しかし、Aさんにはそんな余裕はありません。縋れるものがアイドルしかないのに、なぜ「ガチ恋」をしてはいけないのか?彼に向かってちゃんとした恋人を見つけろなんて言うのは、「パンがなければケーキを」と言っているのと何が違うのか?これは、非常に重い問いであると感じました。

togetter.com

私はこの話を読んでいて、「感情貯金」という概念を思い出しました。このまとめによると、人から優しさなどの好意的感情を多く受け取ってきた人はそれだけ「感情貯金」に余裕ができるので他者にも優しくできるようになり、逆に他者から冷たくされてきた人は貯金が減って精神に余裕がなくなる、ということです。

 

家庭や仕事に恵まれているアイドルファンが「ガチ恋」している人を正論で非難するのは、私には感情貯金をたくさん持っている人が貯金の少ない人を責めている、という話のように思えました。実生活で十分な優しさや承認を受け取っている人は、アイドルに恋愛感情など抱く必要はありません。そんなことをしなくても十分に満たされているからです。

一方、優しさの不足している人からすると、あくまで仕事上のこととはいえ、自分に優しさを向けてくれるアイドルの存在は貴重なものです。そこに恋愛感情が生まれてもおかしくはありません。他に心の隙間を埋めるものが何もないのに、アイドルを異性として好きになるのがなぜいけないのか?と言われたら、私にも返す言葉なんてないのです。

 

 「感情の支払い」は心に余裕のある人にしかできない

ここであえて世間的な立場に立つなら、こう反論することもできます。つまり、「いま家庭に恵まれている人だって努力してその地位を獲得したんだから、優しさが足りないというのなら優しさを得られるような人間になるべく努力するべきだ」と。

欲しいのならまず与えよ。優しさはその対価として得られるものなのだ。これは間違いのない正論です。そもそもアイドルもその容姿やパフォーマンスで多くを他者に与えているからこそ、代わりにファンの賞賛を得られるのですから。

 

ですが、「感情貯金」が少ない人が、その少ない貯金の中から優しさを他者に向けるのは難しいものです。アイドルに縋らなければいけないほど心に余裕のない人に、果たしてそんなことが可能なのか。「感情労働」という言葉があるように、人に気を使うだけでも精神は摩耗するものです。であれば、まずどうすれば「感情貯金」を貯めることができるのか?という話になると思いますが、これもなかなか簡単ではありません。

 

saavedra.hatenablog.com

これは以前書いたエントリですが、『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』作者の永田カビさんは、どうしても満たされない心の隙間を埋める方法として、まずは「レズ風俗に行く」という方法を選びました。あくまで商行為としてではあれ、生身の人間と触れ合うことで満たされるものが、確かにあるのです。風俗とは違いますが、アイドルの握手会にだって似たような面はあるでしょう。

でもこれでは不十分ですし、心を満たすのにお金が必要になってしまいます。結局、永田さんの心が本当に満たされたのは、このレポ漫画が評判になり、世間に認められたことでした。彼女はこの経験を「甘い蜜が大量に口に注ぎ込まれた」と象徴的に表現しています。長い間ずっとマイナスだった感情の収支が、ようやくプラスになったのです。

 

おそらく、この「感情貯金」を増やすための一般的な解というのは存在しないでしょう。永田さんの体験談はかなり特殊ですし、だからこそ漫画として売る価値もあるのですが、こういう形で世間に受けいられる例は稀です。永田さんには漫画という武器がありましたが、多くの人はそういうものを持っていません。持たざるものが人の優しさを受け取れる側になるには、どうすればいいのか?答えは宙に舞っているのです。

 

「優しさ格差」の差は埋めがたい

 「既婚男性はモテる」なんて話を時折聞くことがあります。女性に結婚しても良いと思わせた「品質保証」があり、結婚しているからもう相手を探す必要が無いという余裕がそうさせるのでしょう。これを逆から見ると、今孤独な人は孤独であるがゆえに余裕がなく、他者に好感を与えづらいために孤独から抜け出しにくい、という構図も見えてきます。

 優しさを得やすい人と得にくい人の間には、こうした残酷なまでの非対称性があります。これが経済格差なら、財源さえあればお金のない人にお金を与えることは可能です。でも、優しさを得られていない人に、優しさを分配することは果たして可能なのか?

この記事の中でAさんは、「もっとやさしくして欲しい」と語っていました。優しさに飢えているからこそアイドルを好きになってしまうのだから、これが偽らざる本音でしょう。彼から見れば、優しさに十分恵まれている(ように見える)既婚者や恋人持ちの人がガチ恋を批判するのは、ただの強者の論理でしかないのかもしれません。

 

うろ覚えですが、以前ONE PIECEのどこかで人形たちが友達のいない人の友達に、恋人のいない人の恋人になってあげたという話を読んだことがあります。一時はつまらなくなったとかいろいろ言われていたONE PIECEではありますが(最近また盛り返してますが)、こういう話が書けるだけでも尾田栄一郎という人は凄いと思います。

ですが、こんな「やさしい世界」はリアルには存在しません。友だちがいない人は友達が、恋人がいない人は恋人が余計に得にくくなってしまうのが現実です。

 

優しさが平等に配分されないこと、それ自体はどうしようもないことかもしれません。ただ、だからこそ、今アイドルのような存在に夢中になっている人に「もっとまともな生き方しろよ」などと言えるのは自分がそうせずにいられるほど恵まれた立場にいるからではないのか、と省みることも、時に必要なのではないかと思います。