明晰夢工房

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【感想】ソフォクレス『オイディプス王』(kindle unlimited探訪6冊目)

 

 

本を読むならとにかく古典を読め、という人がいる。なんだか権威主義的であまりお近づきになりたくないタイプだ。とはいうものの、確かにこれは読んでおいたほうがいい、と思える古典はある。現代人でも退屈することなく読め、読了後に深い感慨に浸れ、かつ古典を読み切ったという自己満足まで得られるお得な書物。『オイディプス王』はまさにそんな一冊だ。これほど完璧なストーリーが2500年前に書かれていたことに驚くが、完璧だからこそ淘汰されずに今まで読み継がれているのだ。古典はただ教養をひけらかしたい人が読んでいるわけではない。面白いからこそ読む人がいるのだ。

 

タイトルに【感想】と入れたはいいものの、この本はどう感想を書いたものか。ストーリーは短いし、あらすじ自体はよく知られているものだ。本作の主人公・オイディプスエディプス・コンプレックスの語源になったこともあまりにも有名だし、ある意味この言葉について語るだけでネタバレになってしまう。私自身、阿刀田高の入門書で『オイディプス王』がどんな話かは大体知っている。それでもわざわざ原作を読む理由はなにか。

 

ひとつには、やはり名作に直接触れてみたい、という欲求があるからだ。阿刀田高はすぐれた古典の案内者で、多くの古典の入門書を書いているのだが、それらを読んでも結局は阿刀田高のフィルターを通して古典を読んでいることになる。それも悪くないが、やはり原作を読まなければ古代ギリシャの雰囲気に存分に浸ることはできない。あらすじだけ読んでわかった気になっていいのか、という不安もぬぐい去れない。『オイディプス王』はごく短い話なので、できればこの本を直接読んだほうがいい。

 

この名作を一読して思うのは、人は究極的には人生をコントロールすることなんてできないのではないか、ということだ。父親殺しと近親相姦、オイディプスはこのふたつの大罪を犯した。片方だけでもかなりの重罪だが、オイディプスはこれらの犯罪をしようと思ってしたわけではない。それどころか、悲劇を避けるべく行動しているのである。やがてその手で父を殺すというアポロンの予言を恐れ、オイディプスは故国コリントスを離れている。それでもかれは、残酷な運命から逃れられることができない。最善の行動をとっているつもりで最悪の結果を招いてしまうからこそ、『オイディプス王』は悲劇の金字塔として読まれつづけている。

 

 

私はここで『歎異抄』の親鸞の言葉を思い出す。親鸞は弟子の唯円に「あなたは思い通りに殺すことのできる縁がないから、一人も殺さないだけなのである。自分の心が善いから殺さないわけではない。また、殺すつもりがなくても、百人あるいは千人の人を殺すこともあるだろう」といっている。オイディプスは悪人ではない。それどころか、怪物スフィンクスからテーバイを救った英雄である。そのオイディプスも、そうとは知らずに父を殺してしまう。善悪にかかわらず、状況次第で人は何をしでかすかわからない──という親鸞の諦観が、不思議と遠いギリシャの物語に重なってみえる。

 

巻末の解説を読むと、ソフォクレスが本作において「テュケー」、つまり運や偶然などをテーマとしていたことがわかる。誰も悪くなくても、ただ運命のいたずらで悲劇は起きてしまうのである。この悲劇を回避する方法はあっただろうか。本作に登場する羊飼いは、まだ幼いオイディプスを殺すよう命じられた。この者はやがて親を殺すとお告げがあったからだ。だが幼子を殺すに忍びず、羊飼いはオイディプスを助けた。予言を信じてオイディプスを殺しておけばよかった、といっても詮無きことだ。人としての情がある限り、そこは助けるに決まっている。しかしこの羊飼いの選択が、結局オイディプスに父を殺させた。父殺しの下手人はオイディプスだが、俯瞰的に見ればこの殺人の犯人は運命そのものだ。悲惨な結末を誰のせいにもできないからこそ、本作は古代ギリシャ屈指の悲劇なのである。