明晰夢工房

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【書評】人を悪行に駆り立てるのは共感だった──ルドガー・ブレグマン『Humankind 希望の歴史(下)』

 

『Humankind 希望の歴史』上巻においてルドガー・ブレグマンはスタンフォード監獄実験やミルグラムの電気ショック実験など、性悪説の証拠とされてきた科学実験を批判し、人間の本質は善であると主張してきた。では本来善良なはずの人間がなぜ悪をなすのか。これについて述べるのが下巻になる。意外なことに、ここでキーワードになるのは「共感」だ。

 

共感は人間の良い性質のひとつだ。人は共感できる人には協力を惜しまない。だが本書によれば、「共感はわたしたちの寛大さを損なう」。人が犠牲者に共感するとき、その人物を犠牲者にした者たちをひとまとめに敵と認識するようになる。ブレグマンの言い方を借りると、「共感は、世界を照らす情け深い太陽ではない。それはスポットライト」なのだ。共感は、人生にかかわりのある特定の人や集団にのみ光を当てるもので、その範囲はごく狭い。つまり、共感の外側にいる人間集団には、人は残酷なこともできてしまう。

 

共感が残酷さを生んでしまう顕著な例は戦争だ。本書の10章では、第二次大戦においてドイツ兵が勇敢に戦った原因を友情に求めている。ドイツ兵はイデオロギーにほとんど影響されることはなく、命を惜しまず戦ったのは仲間のためだった。ブレグマンによれば、テロリストですら大義のためだけに死ぬわけではないという。アメリカの人類学者も「彼らは互いのために、人を殺し、自ら死ぬのだ」と指摘している。友情で結ばれ、共感できる仲間たちのために、彼らは戦う。そもそも信頼できる仲間と一緒でなければ、恐怖を乗り越えられない。

 

ここまで読んだだけでは「やっぱり人間は善良ではないんじゃないか」という気もしてくる。人が善意を向けられる範囲がごく限られていて、共感できない相手には平気で残酷にふるまえるのなら、差別の解決は困難だ。共感と外国人恐怖症はコインの表裏だ、とブレグマンは説く。共感の幅は広げられないのか。あるいは共感できない集団とも争わない方法はあるのだろうか。本書を読み進めれば、さまざまな分断を解決するヒントも見えてくる。

 

本書の17章で著者はアメリカの心理学者ゴードン・オールポートの理論を紹介している。彼の考案した偏見をふせぐ方法はごく単純なものだ。偏見や憎しみ、差別は相手をよく知らないことから生まれるので、これらの治療法は交流することだ。南アフリカの人種差別を解決しようとしたオールポートの「接触仮説」は多くの科学者から批判されたが、ブレグマンは信頼と交流が成果をあげている例を数多く紹介している。白人がイスラム教徒と交流することで、イスラム嫌悪が減る。多様なコミュニティで暮らす人ほど、人間は皆同じだと考え、見知らぬ人を助ける傾向がある。交流は差別や偏見を減らす処方箋として有効だ。ブレグマンはただ希望的観測を並べているわけではない。人々が互いに慣れるにのは時間が必要で、オールポートが「歴史の力」を軽視していたと語ったように、差別はすぐにはなくならない。だが彼は「あきらめることは、歴史の長い教訓を読み誤ることだ」とも語っている。そして1994年、南アフリカの大統領になったのは交流の力を深く理解していたネルソン・マンデラだった。

 

この本では上巻同様、人間の善性を示す多くの実例を紹介している。住民に直接政治参加することを認め自治に成功したトレスやポルト・アレグレ、リゾートのような刑務所を運営し再犯率を世界最低にしたノルウェー、マネジメントを廃止して従業員のモチベーションを上げたビュートゾルフなどが、人を信じて成果をあげた例だ。これだけ多くの例を挙げられてもなお、自説に都合にいい例ばかり出しているのではないか、人の善性を信じて失敗した例はないのか、といった疑問が自分の中にも残っている。それだけ人の本質は悪だとくり返し説得されてきたせいだろうか。そういえば本書の上巻では、人が性悪説に傾きがちなのはマスメディアが原因の一つだと書かれていた。ニュースになることの多くは例外的な悪いことだが、強く印象に残る。人はネガティブなことを避ける本能があるので、悪い出来事に意識が吸い寄せられがちだ。だとすれば、本書が人間の良い面を強調するのも意味があることになるだろうか。ブレグマンによれば、ニュースを見ることでメンタルヘルスに悪影響があるという。とはいえニュースを避けても、人間の利己的な面に焦点を当てたフィクションもノンフィクションもいくらでもある。それなら真逆の本が一冊くらいあってもいいだろう、という気はする。

 

ブレグマンは本書の上下巻をつうじて、人間の本性は善であると訴えてきた。だが個人的には、性善説性悪説のどちらが正しいか論じることにはあまり意味がないように思う。人が共感できる対象に思いやりを示す点を見ればそれは善だし、共感できない対象を攻撃するのを見れば悪だと感じる。どちらか一方だけが人間の本質ではない。人が利己的か利他的か、という論争も同じで、結局人は両面を持っているのではないか。本書のエピローグで、ブレグマンはホッブズが物乞いにお金を恵んであげたエピソードを紹介している。これはホッブズにいわせれば、「物乞いが苦しんでいるのを見て不快になるのが嫌だからそうした」のだ。不快を避けるためだから利己的な行為だというわけである。だが、どうして人助けをすることに快を感じるのか。それは人が利他的だからではないのか?と見ることもできる。結局、なんとでも言えてしまうのだ。

 

実はブレグマンもここは理解していて、「純粋な利他主義は存在するのかという議論に意味はない」とも書いている。そんな議論をするより、お互い得をするように行動すればいいのだ、他者に寛容になればすべての人が勝者になれる──が、本書の結論になる。人に善意を向けることはおおむね「良い取引」になる、というのだ。だがこれだけ説得されても、人は表立って善行をすることを避ける。本書のエピローグで書かれているとおり、人は善行に利己的な動機を見出そうとするし、誰も偽善者とは思われたくないからだ。だがここで遠慮してはいけない、とブレグマンは説く。人は社会性を持ち、他人の真似をするから、善行もまた真似される。「人間は利己的だ」と強調すれば善行は自分をアピールするための行為と見られるので、広まらない。ブレグマンが人間の善性、利他性を強調するのが世界に善行を伝染させるためだとすれば、本書はなかなか壮大な社会実験を試みている一冊ともいえる。

 

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