明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

【感想】中村光博『「駅の子」の闘い 戦争孤児たちの埋もれてきた戦後史』

 

 

2010年、「伊達直人」を名乗る人物から児童福祉施設に寄付が行われる「タイガーマスク現象」が起きた。「伊達直人」からプレゼントが届けられた児童養護施設「鐘の鳴る丘 少年の家」の事務室には、靴磨きをしている少年たちの写真が飾られている。この少年たちは戦争孤児だ。伊達直人ことタイガーマスクは孤児院の出身という設定だが、「伊達直人」が寄付をしたこの施設にも、かつては戦争孤児が存在していた。本書『「駅の子」の闘い 戦争孤児たちの埋もれてきた戦後史』では、この施設に飾られている写真に写っている元戦争孤児へのインタビューも掲載されている。

 

写真の中で靴磨きをしていた戦争孤児のひとりが伊藤幸男さんだ。伊藤さんは大阪で空襲に遭い、後に母も過労で逝ったため10歳で放浪生活に入っている。終戦から一年が経った銀座には、仕事休みで遊びにきたアメリカ兵がたくさんいた。「駅の子」と呼ばれる浮浪児たちは、このアメリカ兵を相手に靴磨きをして稼ぐ。だが商売道具は簡単に手に入らない。靴を磨く生地は、列車のシートの生地を剃刀で切り取ったものだ。靴墨はパンパンに協力してもらい、アメリカ兵にこの子に靴を磨かせてやってくれ、と頼んでもらって手に入れる。アメリカ兵も女性の前ならいい格好をしたがるから気前がよくなる。こういう知恵が、生きていくためには必要だった。

 

靴磨きで稼げるならまだいい方で、「駅の子」は生きていくために動物のような境遇にまで落ちることもある。伊藤さんの次にインタビューを受けている山田清一郎さんは、闇市で捨てられているものを拾って食べていたため、いつも腹を壊していたという。そんな生活を続けるうち、野良犬が残飯をバケツから食べるとき、上の方から食べるのを見た。下にあるものの方が傷みやすいことを犬は知っている。ものの食べ方を犬から学ぶという、文字通り野良犬同然の生活を強いられた戦争孤児も存在していた。山田さんの周りには、傷んだものを口にして命を落とした仲間もいたという。

 

終戦直後は、それでもまだ戦争孤児に対する同情的な目が存在していた。だが復興が進むにつれ、「駅の子」たちは社会の治安を乱す存在として扱われるようになっていく。のちに「狩り込み」(浮浪児の強制収容)にあい、児童保護施設に送られた山田さんは後に小学校へ通えることになったが、孤児は教室ではなく倉庫のような部屋に集められた。部屋の黒板には犬小屋だのばい菌だのと悪口が書かれていて、教師はそれを消そうともしない。同級生からのいじめも絶えることがなかった。このような仕打ちは、今も戦争孤児の心に深い傷を残している。

 

「よく身に染みたよね、人の冷たさっていうのかね。本当に優しかったら、あの孤児たちが、浮浪児がいたら、そこで何か周りでね、温かい手を差し出しているはずなんだよね、だから、日本人というか、人間は、案外そういう冷たさを持っているんじゃないかと思うけどね」 

 

 

【書評】岩波新書シリーズ中国の歴史2『江南の発展 南宋まで』

 

江南の発展: 南宋まで (岩波新書)

江南の発展: 南宋まで (岩波新書)

 

 

従来のような時代別ではなく、地域史にも着目した新たな中国史概説をめざす岩波新書シリーズ中国の歴史の二冊目が出た。本書では古代の長江流域の文化から筆を起こし、三国時代の呉政権から南朝政権、唐代から北宋南宋にいたるまで、中国の「船の世界」を中心に叙述している。

 

本書では、はじめに中国史を中国という空間に限定して捉える見方を改めることを提唱している。たとえば南北朝時代という言い方があるが、これは中華世界は統一されているのが本来の姿であり、北朝南朝はイレギュラーな政体だという中華史観の枠組みで中国史を見ている。だが、中国南部の「船の世界」は周辺海域から東南アジア、インド洋までつながっているのであって、これくらい広い地域まで視野を広げて中国史を捉えなおす必要がある、と著者は書いている。

 

この「船の世界」の南方世界へのかかわりが強調されているのが、三国時代の呉政権だ。本書では1章の「南から見る三国志」において、孫権が扶南や林邑など東南アジア諸国朝貢させており、さらには海上をつうじて遼東・高句麗とも外交を結んでいたことを書いているが、このようなスケールの大きな全方位外交が「江南立国の王道パターン」だと著者は説く。この先につづく東晋南朝諸王朝・南宋などの国家のモデルをつくったという点において、孫呉の存在意義は大きい。

 

六朝時代に入るとこの「船の世界」に貴族社会がつくられたことがよく知られているが、この「貴族」とはどのような存在かが2章ではわかりやすく解説されている。中世ヨーロッパの領主とは異なり、中国の豪族は国家機構に食い込むことで勢力基盤を築くが、官僚の地位は本来世襲はできない。だが、九品官人法における最初の任官ポストのランク(郷品)が家柄で決まることが多かったため、郷品が家格を表す指標となり、これが貴族制度を支えることになる。

官僚のポストの価値を決める指標として、品階の上下のほかに「清濁」の区別があったという指摘もおもしろい。南朝の社会においては実務系ポストが「濁官」であり、文雅な非実務系ポストが「清官」になる。これを著者は「総務部や経理部よりも、社内資料室付き・社史編纂室付きの方が出世ポストだった」と解説している。実務系ポストが軽んじられる体制には大いに問題があるので、梁の武帝のように実務系本位の官僚体系をつくる改革を行う人物も出てくる。

 

時代は進み、唐代に入っても本書では江南と他国の海上ネットワークが強調されている。日本の遣唐使もまた、東シナ海を経て江南をめざしたものが多い。9世紀には海上交通が十分に発展し、文化や物産が民間ベースで行き来するようになったことから、遣唐使の廃止も「民間交流が定着したので高コストの朝貢使節派遣が必要なくなった」と再解釈される。平安日本は海をつうじて中国に開かれていたのであって、遣唐使を廃止したから国風文化に移行した、と単純に考えていいわけではないようだ。

 

江南の都市のなかでも、南宋の首都である杭州は破格の発展をとげている。もともと中規模な地方都市にすぎなかった杭州は、五代十国時代に呉越がここを拠点に海上展開したために再び繁栄をはじめ、靖康の変後は北方からの流民を受け入れつつ世界屈指の大都市へと発展していく。この都市を頂点とする商品経済の波は農村にまで及び、鎮・市とよばれるマーケットが次々に生まれた。

マルコ・ポーロも驚嘆するほどの空前の繁栄を誇った杭州は、とうぜん多くの富裕な商人を抱えている。これらの商人が富をたくわえたあとどうするか、に中国史独特の特徴がある。富裕な商人は一族のある者には商売を継がせ、ある者には農地を買わせ地主とさせるなどの多角経営をおこなうが、もっともよい選択肢は科挙合格者を生み出すことである。

 

宋以降の科挙官僚は「官僚・地主(資本家)・読書人の三位一体構造」であるといわれる。日本や欧州が職業身分ごとに権能を分け合う(政治は武士、経済は豪農・豪商、文化は公家・僧侶のように)社会であるのと大きく異なり、中華帝国では官僚になれば政治力・経済力・文化力すべての社会的威信を総取りすることができた。しばしば用いられる「昇官発財」という言葉には、中国において政治的成功と経済的成功が密接にリンクしていたことがよく表れている。

したがって、富商たちは同じ職種に属する人たちと連帯して身分団体を結成し、国家に対抗するよりも(各家系が多角経営なので、この前提がそもそも欠けているのだが)、むしろ国家権力の一角に食い込み、国家機構内で上昇することをまずはめざした。前近代中国の経済的成功者から、国家権力を掣肘する動機を持った身分団体は生まれなかったのである。(p145)

 

 ここに中国史の「しくみ」の一部を見ることができる。富裕な商人が社会的に上昇するには一族から官僚を出せばいいのなら、フランスのように革命を起こして民意を政治に反映させる動機がなくなる。近代を迎えても中国社会が欧米諸国のように民主化することがなかったのは、このあたりにも原因があるのかもしれない。

【感想】戊辰戦争で百姓がどう戦ったかよくわかる『百姓たちの幕末維新』

 

文庫 百姓たちの幕末維新 (草思社文庫)

文庫 百姓たちの幕末維新 (草思社文庫)

 

 

日本人の8割をしめた百姓たちは、幕末維新をどう戦い、生き抜いたのか。本書『百姓たちの幕末維新』を読めば、激動の時代を百姓たちがどうサバイバルしたかがよくわかる。帯にも書かれているとおり、武士だけを見ても幕末は見えてこない。本書では百姓の大多数を占めた中・下層の百姓にスポットを当て、庶民の目線から幕末という時代を描き出すことに成功している。

 

本書では「幕末維新」の範囲を広くとっていて、1830年代から1880年代までとしている。このため、4章までは村のしくみや一揆がなぜ起こるのか、村役人の活動などに費やされている。幕末の百姓の戦いについて知りたい読者は退屈してしまうかもしれないが、4章までを読めば江戸時代の百姓の実態を詳しく知ることができるので、この部分は実質「江戸時代の百姓概説」として読むことができる。そういう目でみれば、江戸時代の百姓は多くの者が副業をもっていたこと、年間一石(150キログラム)の米を食べていたことなど、意外な百姓の実態も知ることができる。

 

とはいえ、やはり本書のハイライトは5章『百姓たちの戊辰戦争』だ。この章では、東北戦線における百姓たちが戊辰戦争をどのように戦ったか、くわしく語られている。戊辰戦争では「農兵」として徴兵された百姓もいるが、この章で注目すべきは非戦闘員の「軍夫」だ。軍夫は武器弾薬や食料の運搬・陣地の構築などのため使役される人夫のことだが、戦地では軍夫とて命の危険にさらされる。握り飯を運びにいく途中、銃撃されれるものもいるし、敵に捕まるものもいる。「小便をしたいから」といって縄をゆるめてもらい、そのすきに逃げ出す軍夫もいるなど、映画のワンシーンのような記録も残っている。

 

ときに、軍夫は戦いに身を投じることもある。敵方の武士を討ち取った軍夫は首を持ち帰り、これを戦功の証拠としているが、この時代でもまだ戦国時代の作法が生きていたことがわかる。火器の重要性が高まっていた戊辰戦争でもこのような戦いをする者がいたことは興味深い。戦功をあげたものは武士のように大小の刀を差すことが許されるなど、戊辰戦争は百姓が「武士」になるチャンスのある場だったこともわかる。戊辰戦争が終わるとやがて武士という身分自体がなくなってしまうのだが、そんなことはこの時戦っていた百姓たちの想像のおよぶところではなかった。

 

もっとも、百姓たちが皆このように勇敢だったわけではない。本書では庄内藩で取りたてられた農兵の姿も書かれているが、かれらは急造の軍隊のためあまり頼りにならず、ときに略奪を行うこともある。時には同じ百姓の家にも火をかける。戊辰戦争において、百姓は加害者にも被害者にもなった。武士だけを見ていてはわからない戦場のリアルが、ここにはある。

 

百姓は農兵となることによって、戊辰戦争に主体的にかかわることになりました。なかには、武士に劣らず奮戦する者も現われました。しかし、その奮戦のなかには、同じ百姓身分の者の家に放火するという行為も含まれていたのです。

戊辰戦争において、百姓は単なる無力な被害者・犠牲者ではありませんでした。農兵として戦闘に参加し、軍夫として軍隊を支えたのです。しかし、そのことは百姓が加害者にもなったことを意味しています。戊辰戦争の持つこうした一面を重く受けとめる必要があるのではないでしょうか。

(p296-297)

 

saavedra.hatenablog.com

この本と同じ著者による『武士に「もの言う」百姓たち』は「訴訟社会」だった江戸時代を知ることのできる良書だ。

 

【書評】出口治明『人類5000年史Ⅲ』

 

人類5000年史 III (ちくま新書)

人類5000年史 III (ちくま新書)

 

 

人類5000年史のシリーズもこれで3冊目となった。この巻では東洋史では宋からモンゴル帝国のユーラシア制覇、そして明王朝までが語られ、西洋史は中世ヨーロッパ世界の成立から十字軍、ルネサンスにいたるまでが記述されている。

 

私は西洋史に明るくないが、これを読むかぎりではごく標準的で無難な書き方をしているように思える。一方、東洋史の部分を読んでみると、宋王朝の近代性とモンゴル帝国開放性のの高評価が目立つ。対して明代は暗黒時代のような評価だが、モンゴルと明の評価は杉山正明氏の書籍をかなり参考にしている印象だ。これをそのまま受け取っていいかどうかは疑問もあるところだが、東洋史に興味のある読者にはおもしろい内容になっているのではないかと思う。

 

まず宋王朝についてみていくと、この本では宋代においてさまざまなジャンルで「革命」が起きていたことが語られている。政治においては殿試をとりいれて科挙を完成させたことで、官僚が補佐する天子の独裁が確立した。農業分野では収穫の早いチャンパ米がはいってくることで、食糧生産が増え人口が増大。海運ではジャンク船と羅針盤の発明により遠洋航海が可能になり、石炭やコークスの利用による火力革命で中華料理の原型ができあがるなど、多くの分野で画期的な技術進歩が起きている。

 

王安石の政治改革にも詳しくふれていて、著者は旧法党の政策には理論がないのに対し、王安石の新法は緻密で整合性のあるものとしている。私腹を肥やす大地主と困窮する民の格差がひろがると国力が弱くなると語った王安石を、著者はピケティより高く評価しているが、そこまで言っていいかどうか。ただの学者ではなく実務家として辣腕をふるった点では、王安石がピケティにまさっていたといえるだろうか。

 

モンゴル帝国の時代まで飛ぶと、ここにもいくつか興味深い記述がみられる。マルコ・ポーロが実在したかは確かめようがないこと、文永の役のモンゴルの目的は日本の硫黄だったことなどが語られる。モンゴルが大出版事業を行い、孔子の一族を中国史上最も大切にしたとも書かれている。銀を広大な帝国に流通させ、大グローバル時代を築いたとしてクビライはきわめて高く評価されているが、これにくらべて明の評価はだいぶ低い。たとえば、孔子の一族は明代になると大元ウルス時代には大事にされていたと嘆いていたエピソードが紹介される。開放的な大元ウルスに対し、明は退嬰的な暗黒政権という評価だ。正直、ここまではっきりと両王朝に白黒をつけていいかは疑問もあるところなので、岩波新書から今後出る中国史シリーズの明の巻とこの本を読みくらべてみたい。

 

イスラーム史について書くのを忘れていたが、もちろんこの本では中世イスラーム史も過不足なく記述している。なかでもイスラームの英雄、バイバルスの記述はくわしい。著者はよほどこの人が気に入ったのか、バイバルスは202ページから216ページにいたるまでみっちり語られている。モンゴルとの9回の戦、十字軍との21回の戦にすべて勝利し、民衆からの支持も厚かったこの英雄の生涯を語りたくてたまらない感じが伝わってくる。著者はモンゴルを高評価しているので、そのモンゴルにも勝ったバイバルスはさらに高評価になるということだろうか。あまりに筆が踊っているので、この人で一冊本を書いてはどうかといいたくなる。日本ではあまり知られていない人だけについ力も入ったのだろうか。

 

saavedra.hatenablog.com

 

saavedra.hatenablog.com

 

カーネギー『人を動かす』が語るリンカーンの煽りスキルの凄さ

 

人を動かす 文庫版

人を動かす 文庫版

 

若き日のリンカーンは煽りの達人だった 

D・カーネギー『人を動かす』はタイトル通り、人を説得するノウハウの書かれた実用書だ。だがこの本は読み物としてもなかなかおもしろい。アメリカの政治家や実業家のエピソードが豊富だからだ。中でも若き日のリンカーンの話は強烈だ。こんなことが書かれている。

 

彼がまだ若くてインディアナ州ピジョン・クリーク・バレーという田舎町に住んでいたころ、人のあら探しをしただけでなく、相手をあざ笑った詩や手紙を書き、それをわざわざ人目につくように路ばたに落としておいたりした。その手紙の一つがもとになって、一生涯彼に反感を持つようになった者も現われた。(p12)

 

『知られざるリンカーン』という著書も書いていて、リンカーンの人となりについて余すところなく研究したというカーネギーが、こういう話を紹介している。若いころのリンカーンは、かなり攻撃的な一面を持っていたようだ。リンカーンのこのような性格は弁護士を開業してからも改まることはなく、ジェームズ・シールズという政治家を諷刺する文章を新聞に匿名で投稿したことがきっかけで、ついには決闘沙汰にまでなっている。

 

 感情家で自尊心の強いシールズは、もちろん怒った。投書の主がだれかわかると、さっそく馬に飛び乗り、リンカーンのところに駆けつけて決闘を申し込んだ。リンカーンは決闘には反対だったが、結局ことわり切れず、申し込みを受け入れることになり、武器の選択は、リンカーンにまかされた。

リンカーンは腕が長かったので、騎兵用の広場の剣を選び、陸軍士官学校出の友人に剣の使い方を教えてもらった。約束の日がくると、二人は、ミシシッピー河の砂州にあいまみえたが、いよいよ決闘がはじまろうとしたとき、双方の介添人が分け入り、この果し合いは預かりとなった。(p12)

 

リンカーンは言わずと知れた演説の名手だ。演説がうまいというのは人の心を動かすのがうまいということであり、その能力を煽りに全振りすればこれだけ人を怒らせることになってしまう。リンカーンがどれほど無礼な投稿をしたのかぜひ知りたいところではあるが、残念ながら本書には投稿の内容までは載っていない。

 

とにかく、これをきっかけにリンカーンは人を嘲るのをやめ、人を非難することもまずなくなった。「人を裁くな、人の裁きを受けるのが嫌なら」を座右の銘とし、南北戦争中にリー将軍を攻撃する絶好のチャンスを逃したミード将軍を責めることもなかった。実はリンカーンはミード将軍を非難する手紙を書いていたが、この手紙が出されることはなかった。それは、リンカーンは過去の苦い経験から、手厳しい非難はなんの役にも立たないと知っていたからだ、とカーネギーは推測している。ご存じのとおり、リンカーンは暗殺されて56歳の人生に幕を下ろしているが、彼が辛辣な人物のままだったならもっと早く殺されていたかもしれない。事実、シールズと決闘していれば死んでいたかもしれないのだから。

 

自己重要感を満たせるものが人を動かす

カーネギーはこうしたエピソードを道徳訓として紹介しているわけではない。カーネギーが人を非難してはいけないと説くのは、あくまで実利のためだ。その証拠に、カーネギーはこの本で「なまじっか他人を矯正するよりも、自分を直すほうがよほど得であり、危険も少ない。利己主義的な立場で考えれば、たしかにそうなるはずだ」と書いている。人を非難してはいけないのはあなたが損をするからですよ、とカーネギーは説く。辛辣な批評などしても恨まれるだけで、「人を動かす」うえではなんの役にも立たない。

 

では、人を動かすためには何が必要か。この『人を動かす』で何度も強調されているのは自己重要感に訴える、ということだ。自己重要感とは「重要人物たらんとする欲求」のことだ。誰だって、どうでもいい人間とは扱われたくないし、できることならかけがえのない大切な人物と扱ってもらいたい。この欲求こそ、誰もが持っていて、かつ満たされがたいものなのだとカーネギーは言う。

 

この欲求は、食物や睡眠の欲求同様になかなか根強く、しかも、めったに満たされることがないものなのだ。つまり、八番目の”自己の重要感”がそれで、フロイドのいう”偉くなりたいという願望”であり、デューイの”重要人物たらんとする欲求”である。

リンカーンの書簡の冒頭に「人間は誰しもお世辞を好む」と書いたのがある。優れた心理学者ウィリアム・ジェームズは、「人間の持つ性情のうちで 最も強いものは、他人に認められることを渇望する気持である」という。ここで、ジェームズが希望するとか要望するとか、待望するとかいうなまぬるいことばを使わず、あえて渇望するといっていることに注意されたい。(p26)

 

カーネギーに言わせれば、ロックフェラーに巨万の富を築かせたのも、ディケンズに偉大な小説を書かせたのも、ときに少年を悪の道に走らせるのも、みなこの自己重要感なのだという。リンカーンが法律家をめざしたのもこの欲求を満たしたかったからだ。誰もが重要人物でありたいという「焼けつくような渇き」をもっているからこそ、これを満たしてやれる人間は人を動かす力を手に入れることになる。

人は己を知る者のために死す、なんて言葉があるように、人は自己重要感を満たしてくれる者のためなら、ときに命すら捧げることもある。だからこそ、若き日のリンカーンのように人の自己重要感を傷つけてはならない、ということになる。

 

日本一自己重要感を満たすのがうまいのは誰か

『人を動かす』にはこの自己重要感を満たすテクニックが多く紹介されている。「人に好かれる六原則」「人を説得する十二原則」「人を変える九原則」の各章で紹介されている内容は「イエスと答えられる問題を選ぶ」「わずかなことでもほめる」「笑顔を忘れない」「名前を覚える」「自分のあやまちを話す」などどれも具体的だ。

これらの原則は、ひとつひとつとってみればわりと常識的なものだ。目が醒めるほど特別なテクニックはひとつもない。だが、これらの原則を実際に使いこなせている人がどれほどいるだろうか。つねに笑顔で人の話を聞き、親しく名前を呼びかけ、相手をほめることを忘れず、自分の失敗談も交えつつ相手の立場に立ったアドバイスのできる人。そんな人は稀有だからこそ、今のところこの人は人生相談界のトップに立てているのではないだろうか。

 

dot.asahi.com

 

鴻上尚史の人生相談はいつも内容が濃いが、この回はとくに読みごたえがある。この相談は、「人の相談にはどう乗るべきだったのか」という、ある種のメタ人生相談になっている。相談者が親友の相談に乗っているうち、知らず知らずのうちに不快感を与えてしまい、ついには絶交されてしまったからだ。

この相談への回答として、 鴻上尚史はまず「人のことを思い、良い人生を送って欲しいと、さやかさんは思っているんですよね。とても優しい人だと思います」と相談者をほめている。そのうえで、相談者には「無意識の優越感」があったから嫌われてしまったのだ、ということを、自分の経験談を交えつつていねいに説明している。

相談者が親友に優越感を持っていたという指摘だけなら、他の人にもできるかもしれない。だが、できるだけ相談者の顔を立て(=自己重要感を傷つけず)、アドバイスを受け入れやすい状況をつくるという点において、鴻上尚史の手腕は抜きんでている。この回の回答では「誠実な関心を寄せる」「名前を覚える」「ささいなことでもほめる」「自分のあやまちを話す」「顔をつぶさない」など『人を動かす』で紹介されている原則がふんだんに使われている。鴻上尚史の人生相談は毎回が『実践版・人を動かす』だ。だからこれほど評判になっている。

 

dot.asahi.com

 

ところが、そんな鴻上尚史ですら、ときには批判されることもある。女子との接し方がわからないという相談者に対し、「男性と会話することに怯えている女性」をまず探そう、というアドバイスが一部で不評だった。この回答では女子高出身で男子とうまく話せない女性を「その女性は、だいたい80キロぐらい」と喩えていて、初心者バッターの相談者にはふさわしい相手だという話もしているのだが、チュートリアルステージとしてこういう人がふさわしいですよ、と差しだされる側からすればこれは自己重要感を傷つけられるアドバイスになるだろう。「チョロい相手」と扱われて嬉しい人はいない。

 

おそらく鴻上尚史は、相談者の心情に寄りそうことを第一に考えて回答しているのだと思う。そのせいか、この回答もどこか男子校的なノリを演じているようなところがある。その結果、「初心者用」と扱われる側の立場までは考えが及ばなかったのかもしれない。油断すると鴻上尚史ほどの人でもこうなってしまうほどに、全方位に人の気持ちに配慮するのはむずかしい。だからこそ、『人を動かす』は今でも求められ、ベストセラーであり続けているのだと思う。

 

saavedra.hatenablog.com

saavedra.hatenablog.com

アマプラで『少女終末旅行』を観ていたらすっかり絶望と仲良くなった

少女終末旅行』は癖になる

  

「星空」「戦争」

「星空」「戦争」

  • 発売日: 2017/10/13
  • メディア: Prime Video
 

 

このアニメ、最初は「きれいなfallout?」と思っていた。ユーリとチトが食料をみつけたり魚を食べていたりするたびに、いかんRAD値上がるぞ、なんて考えていた。falloutはポストアポカリプスで少女終末旅行ディストピア(らしい)ので全然違うのだが、本来まったく別物の作品を重ね合わせてしまっていた。

少女終末旅行』の世界も荒廃はしているが、falloutの世界ほど何もかも徹底的に破壊しつくされているわけではない。上層部に向かう途中では、建築物が整然と立ち並んでいる場所もある。ユーリとチト以外の人間も少しはいるし、かれらは敵対的でもない。この世界には多少の食料もあれば、人との交流もある。観ていて心がすさむほどではない。でもお世辞にもこの世界は美しいとはいえない。

 

少女終末旅行』は不思議な雰囲気のアニメだ。この世界には都市は残っているが、自然らしきものはなく、風景はどこまでもモノクロームで徹底的に彩りを欠いている。ユーリとチトは上層を目指して旅をしているが、食糧だってそんなに余裕があるわけではないのに、ふたりの会話は妙にのんびりとしている。ユーリはもともと能天気な性格だが、まじめなチトもそれほど先行きを心配しているようには見えない。

このアニメに、それほど大きな物語の起伏はない。たまにちょっとした危機が訪れるが、そこまで深刻な雰囲気になるイベントが起きるわけでもない。ユーリはときどき味のある台詞をしゃべるが、すごく深いことを言ってるわけでもない。ユーリとチト以外の登場人物も二人しかいないし、観る人によっては退屈するアニメだと思う。でもこの『少女終末旅行』全体を貫く雰囲気は、とてもよい。最初はなんか地味なアニメだな、と思っていたのに、見続けるうちにすっかりはまってしまった。このアニメは、何がそんなに「いい」のか。それを、これからできる限り言葉にしてみたい。

  

モノクロームの世界に、時おりもたらされる潤い

少女終末旅行』の何がいいのか。この謎を解くカギが、6話に隠されていた。このアニメの6話では、二人の乗っていたケッテンクラートを修理してくれるイシイという人物が現れる。イシイは飛行機をつくり、都市の外へ飛び立とうとするが、見事に失敗してしまう。

ばらばらになった機体の破片の中から、パラシュートで落下するイシイを二人は望遠鏡で見る。このとき、なぜかイシイは笑っていた。その理由をユーリは「絶望と仲良くなったから」と推測している。イシイの夢は壊れたが、彼女の笑顔にはやれるところまではやった、という満足感が滲んでいる。これでもう、どこにも飛んでいくことはできない。ならここで生きていくしかない、という前向きな諦観がそこにはある。

 

地味なのにこのアニメが味わい深いのは、物語の進行とともに視聴者が「絶望と仲良くなる」せいだ。絶望と仲良くなる、というとネガティブに聞こえるが、これは「幸せの基準値を下げる」ということだ。『少女終末旅行』を観続けるうち、視聴者はこのひたすらモノクロームで、物資や娯楽に乏しい世界に慣れていく。人は順応性に富む生き物だ。物語を追ううちに、いつのまにかユーリやチトと同じ目線で終末世界を味わえるようになる。世界が陰鬱なのは当たり前、と思うようになるのだ。

いや、ユーリやチトはこの世界を陰鬱とすら思っていないだろう。二人にとって、このモノクロームの世界こそが日常であって、それを不幸だなんて考えもしない。世界はただこのようにあるだけであって、二人はそこになんの感慨もさしはさまない。

 

だからこそ、たまに訪れる感動が、とりわけ大きなものになる。たとえば5話のラストの雨音の演出だ。二人の台詞を聞く限り、この世界には音楽というものはないらしい。だから、二人はただの雨音の中に想像の「音楽」を聴く。5話のラストは雨音が『雨だれの歌』になり、特殊エンドになる演出になっているが、ユーリとチトには本当に雨音がこのように聴こえていたのだろう。無機質で退屈極まりない世界だからこそ、ヘルメットや空き缶に叩きつけるただの雨音が、二人と視聴者の心を潤してくれる。

 

8話のユーリが月光を浴びながらはしゃぐシーンもいい。基本人工物ばかりのこの世界で、降りそそぐ月光は数少ない自然の恩恵だ。棒をふりまわして騒ぐユーリをいつも通りチトはたしなめるが、ビールを飲むと今度はチトのほうが激しく酔っぱらっている。月光というささやかな非日常を体験して、実はチトのほうがテンションが上がっていたのだろう。チトはいつも自由奔放なユーリの抑え役をやっているから、酔っぱらわないと心のままにふるまえない。そもそも、飲めるかどうかもわからない飲み物に手を出す時点で、チトはいつもと少し違っている。チトにそうさせているのは、ユーリの言う「月の魔力」だ。彩りのない終末世界では、月光程度のものが貴重な非日常体験になる。

 

幸せとは「移動平均乖離率」の大きさ

このアニメを観ていると、幸せとは何かを考えさせられる。普通に考えれば、娯楽も何もない殺風景な世界をひたすら旅しなくてはいけないユーリとチトの境遇は不幸だろう。だが、乏しい食料の残りを心配しながらも、ケッテンクラートを駆って終末世界をゆく二人は、それほど不幸には見えない。それは、ここまで書いてきたとおり、二人が絶望と仲良くなっているからだ。

言い換えれば、二人の幸せの平均値はとても低いところにある。だから、雨だれの音を聴いたり、お菓子を焼いたり、月光を浴びたりする程度のことが楽しく感じられる。視聴者からすればごく些細なことが、大きく二人の幸せに寄与する。ちょっとした非日常体験をするだけで、モノクロの世界に色がつくのだ。

 

株やFXをやっている人なら、「移動平均乖離率」という言葉を聞いたことがあると思う。普段の株価の平均値から株価が大きくプラスかマイナスに振れれば、乖離率は大きくなる。幸せとは、乖離率が大きくプラスに振れた状態のことだ。ある企業の株価が平均して100円なら、株価が120円になっただけでも乖離率は大きく上がる。平均株価が3000円の企業からすれば20円程度の変動は誤差にすぎないが、もともと平均株価が低い企業にとっては20円の差は大きい。現代人の感覚が平均株価が3000円の企業なら、ユーリとチトは平均株価が100円くらいの企業だ。もともとの幸せの平均値が低いから、ささいな体験で幸せが大きくプラス方向に乖離する。ユーリやチトよりはるかに恵まれた環境を生きていて、多くのモノを所有している現代人は、それが普通の状態だからふだんはあまり幸福感を感じていない。プラスの非日常体験が幸福であるとするなら、もともと恵まれない世界を生きているユーリとチトは、ちょっとしたことでも幸せを感じられる状態で生きていることになる。

 

モノが足りない状態で生きれば幸せになりやすいのだ、なんて話をしたいわけではない。ふつうは物資不足は人の心を荒廃させ、争いを生む。ユーリとチトは生きていけるだけの食料は手に入れていて、少ない物資を奪い合う人間も周りにいないのだから、彼女たちの生きている環境はかなり特殊だ。恵まれてはいなくとも、決定的に悲惨な境遇ともいえない。「絶望と仲良くなる」ことができるのも、この奇妙な終末世界に存在するある種の余裕のおかげだといえるだろうか。

 

世界史の流れを商業ネットワークから理解できる『教養のグローバル・ヒストリー』が面白い

 

教養のグローバル・ヒストリー:大人のための世界史入門

教養のグローバル・ヒストリー:大人のための世界史入門

 

グローバルヒストリーに基づく世界史入門として最適 

1冊だけで「世界史の流れ」をおさえられる本はないものか、とけっこう長いこと探してたんですが、これが最適な一冊と思いました。

世界史は単に各地域の歴史をそれぞれ学ぶよりも、多くの国や地域が商業ネットワークで結びつき、複雑にかかわりあいながら展開していく様子を眺められるところに面白さがあります。この『教養のグローバル・ヒストリー 大人のための世界史入門』は、「交易」に力点を置き、古代から近代にいたるまでダイナミックに人・モノ・金が移動して歴史を動かしていく様を描き出すことに成功しています。

経済の話が中心なので文化史の扱いが少ないという弱点はありますが、これを読めば世界史の本当のおもしろさを体験できると思います。『砂糖の世界史』のように特定の商品が国の興亡を左右する話が好きな人には絶対のおすすめ、そうでない人にとっても良質な世界史の入門書として活用できる一冊と思います。

 

以下、本書の中でも興味を惹かれたトピックをいくつか紹介します。

 

バグダードイスラーム・ネットワーク

交易をメインテーマとする本なので、本書ではイスラーム史においてもバグダードを中心とする商業ネットワークに注目しています。イアスラム教は開祖のムハンマド自身が商人出身であり、商業活動に肯定的でしたが、この本では特にアッバース朝第二代カリフ・マンスールの整備した道路に着目しています。

アッバース朝の首都バグダードからはホラーサーン道・シリア道・クーファ道・バスラ道と四つの幹線道路が伸びていて、ホラーサーン道は中央アジアに通じていて、長安にまでつながっています。この商業ネットワークがアッバース朝の繁栄を支えていて、バグダードの人口は最盛期には100万人を超えていました。増大する人口を支えるためメソポタミア南部で栽培されたのがサトウキビで、砂糖は西アジアの重要な特産品となります。やがて砂糖は近世において世界史を動かす重要な国際商品になりますが、その「前史」としての姿をすでにこの時代に見ることができます。

同時に、海上の交易路も整備されていきます。季節風を利用でき、遠距離航海ができるダウ船を操るムスリム商人は中国にも到達し、中国ではアフリカから連れてきた黒人奴隷の売買まで行っています。長安バグダードは海陸双方のルートで連結され、どちらも国際商業都市として空前の繁栄を誇りました。砂糖と黒人奴隷という、のちに近世ヨーロッパにおける重要な交易品となるものがすでにイスラーム世界で商われていたことになります。

  

砂糖の世界史 (岩波ジュニア新書)

砂糖の世界史 (岩波ジュニア新書)

  • 作者:川北 稔
  • 発売日: 1996/07/22
  • メディア: 新書
 

 

商業ネットワークを介して移動する病原菌

交易路を移動するのは人・モノ・金だけではありません。モンゴル帝国がユーラシアの大部分を制覇し、大陸内に駅伝のネットワークをつくりあげたため、もともとは東南アジアの風土病だったペストもこのネットワークを通り西方に伝わります。

ペストがマムルーク朝の支配するカイロにまで達すると、この都市に東方物産を求めてやってくるヴェニネィア商人の船とともに、ペスト菌が西ヨーロッパに伝わります。火薬はペストとともにモンゴル・ネットワークを通じてヨーロッパに伝わり、大砲・鉄砲に用いられて戦争のあり方を変え、騎士階級の没落をうながし、ヨーロッパ社会に大量の死をもたらしました。ペストも火薬同様ヨーロッパ社会に大量の死をもたらしましたが、当時の画家が画家が好んで「死の舞踏」を題材として取りあげたのもこのような世相が背景となっています。

 

明の海禁政策が生んだ倭寇琉球王国

朱元璋明王朝を建て、元をモンゴル高原に追放すると、明は周辺諸国朝貢を義務づけて自由貿易を取り締まりました。自由な取引を認めると皇帝から交易という恩恵を賜るというありがたみが薄れます。朱元璋漢民族の威信を復活させるため、周辺諸国朝貢を求めていました。

朝貢貿易は自由な取引を取り締まる海禁政策なので、海上交易で生活している福建や広東の沿岸地域の商人は海賊となります。これらの人々が後期倭寇の中心勢力です。明は倭寇の取り締まりに手を焼いてましたが、北方ではモンゴルの侵入も激しくなっています。実はこれも朝貢貿易の影響です。明の朝貢貿易周辺諸国に恩恵を与えるものであり、明にとって負担が大きかったため、明は朝貢の回数を制限します。するとモンゴルの利益が減ってしまうので、不満を持ったモンゴルの侵入を招いてしまったのです。倭寇とモンゴル侵入をあわせて北虜南倭といいますが、北虜も南倭も元をたどれば明の朝貢貿易が生んだものでした。

 

琉球王国についての記述にも興味深いものがあります。明の海禁政策で貿易を禁止された中国商人の活動の場として明が目をつけたのが琉球王国です。朝貢貿易朝貢してくる国に与えるものが多く、明の負担が大きいため永楽帝の没後は朝貢回数が制限されていきましたが、朝貢を制限すれば交易も縮小します。朝貢体制を維持したまま交易を縮小させないため、明は中継交易国として琉球王国を育成しました。具体的には大型のジャンク船を与え、朝貢貿易琉球仕入れる中国商品を特産品になるようにしたのです。琉球は他の国にくらべて朝貢回数が多く設定されたため、絹や陶磁器などの多くの中国の特産品が琉球に集まり、これを求めてアジアの海洋諸国が琉球王国に押し寄せることになりました。北虜南倭とともに、海洋王国としての琉球王国もまた明の海禁政策が産んだものといえます。

 

断片的な知識がつながる面白さ

 

 

このように、本書を読めば世界史の断片的な知識が商業ネットワークでつながるので、かなり世界史の全体像が理解しやすくなります。サブタイトルには「大人のための世界史入門」とありますが、こういう内容なので大学受験の論述対策としてもかなり使えるようです。知識の羅列でも雑学でもない、ほんとうの歴史のおもしろさを高校生の段階で知ることができたらかなり有益だと思います (引用したのは著者の北村厚氏のツイート)。

 

巻末の参考文献が充実

この本ではさらに学びを深めたい人のために、巻末に多くの参考文献を載せてあります。とりあげられているのは山川出版社の世界史リブレットや新書が多いので、難解なものはあまりありません。

世界史全体については世界システム論の本が多いですが、国際商品についてはジャガイモやコーヒー、砂糖、茶、タバコなどをそれぞれ取りあげた本を紹介しているので、交易から世界史を理解したい読者にはおもしろく読めるものが多いと思います。興亡の世界史シリーズからは『モンゴルと帝国 長いその後』『東インド会社とアジアの海』などがとりあげられていますが、このシリーズの書評についてはこちらで書きました。

 

saavedra.hatenablog.com

 

世界史リブレットシリーズの紹介も書いていますが、海域アジアや明の辺境の交易に興味があるなら『東アジアの「近世」』が役に立つと思います。

 

saavedra.hatenablog.com