明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

【感想】ソフォクレス『オイディプス王』(kindle unlimited探訪6冊目)

 

 

本を読むならとにかく古典を読め、という人がいる。なんだか権威主義的であまりお近づきになりたくないタイプだ。とはいうものの、確かにこれは読んでおいたほうがいい、と思える古典はある。現代人でも退屈することなく読め、読了後に深い感慨に浸れ、かつ古典を読み切ったという自己満足まで得られるお得な書物。『オイディプス王』はまさにそんな一冊だ。これほど完璧なストーリーが2500年前に書かれていたことに驚くが、完璧だからこそ淘汰されずに今まで読み継がれているのだ。古典はただ教養をひけらかしたい人が読んでいるわけではない。面白いからこそ読む人がいるのだ。

 

タイトルに【感想】と入れたはいいものの、この本はどう感想を書いたものか。ストーリーは短いし、あらすじ自体はよく知られているものだ。本作の主人公・オイディプスエディプス・コンプレックスの語源になったこともあまりにも有名だし、ある意味この言葉について語るだけでネタバレになってしまう。私自身、阿刀田高の入門書で『オイディプス王』がどんな話かは大体知っている。それでもわざわざ原作を読む理由はなにか。

 

ひとつには、やはり名作に直接触れてみたい、という欲求があるからだ。阿刀田高はすぐれた古典の案内者で、多くの古典の入門書を書いているのだが、それらを読んでも結局は阿刀田高のフィルターを通して古典を読んでいることになる。それも悪くないが、やはり原作を読まなければ古代ギリシャの雰囲気に存分に浸ることはできない。あらすじだけ読んでわかった気になっていいのか、という不安もぬぐい去れない。『オイディプス王』はごく短い話なので、できればこの本を直接読んだほうがいい。

 

この名作を一読して思うのは、人は究極的には人生をコントロールすることなんてできないのではないか、ということだ。父親殺しと近親相姦、オイディプスはこのふたつの大罪を犯した。片方だけでもかなりの重罪だが、オイディプスはこれらの犯罪をしようと思ってしたわけではない。それどころか、悲劇を避けるべく行動しているのである。やがてその手で父を殺すというアポロンの予言を恐れ、オイディプスは故国コリントスを離れている。それでもかれは、残酷な運命から逃れられることができない。最善の行動をとっているつもりで最悪の結果を招いてしまうからこそ、『オイディプス王』は悲劇の金字塔として読まれつづけている。

 

 

私はここで『歎異抄』の親鸞の言葉を思い出す。親鸞は弟子の唯円に「あなたは思い通りに殺すことのできる縁がないから、一人も殺さないだけなのである。自分の心が善いから殺さないわけではない。また、殺すつもりがなくても、百人あるいは千人の人を殺すこともあるだろう」といっている。オイディプスは悪人ではない。それどころか、怪物スフィンクスからテーバイを救った英雄である。そのオイディプスも、そうとは知らずに父を殺してしまう。善悪にかかわらず、状況次第で人は何をしでかすかわからない──という親鸞の諦観が、不思議と遠いギリシャの物語に重なってみえる。

 

巻末の解説を読むと、ソフォクレスが本作において「テュケー」、つまり運や偶然などをテーマとしていたことがわかる。誰も悪くなくても、ただ運命のいたずらで悲劇は起きてしまうのである。この悲劇を回避する方法はあっただろうか。本作に登場する羊飼いは、まだ幼いオイディプスを殺すよう命じられた。この者はやがて親を殺すとお告げがあったからだ。だが幼子を殺すに忍びず、羊飼いはオイディプスを助けた。予言を信じてオイディプスを殺しておけばよかった、といっても詮無きことだ。人としての情がある限り、そこは助けるに決まっている。しかしこの羊飼いの選択が、結局オイディプスに父を殺させた。父殺しの下手人はオイディプスだが、俯瞰的に見ればこの殺人の犯人は運命そのものだ。悲惨な結末を誰のせいにもできないからこそ、本作は古代ギリシャ屈指の悲劇なのである。

歎異抄における「善人」「悪人」とは何か?『NHK「100分de名著」ブックス 歎異抄 仏にわが身をゆだねよ』 (kindle unlimited探訪5冊目)

 

 

kindle unlimitedを利用するメリットのひとつが、100分de名著シリーズがいろいろ読めることだ。いきなり古典に挑戦するハードルが高すぎるなら、まずこれから入ってみるのがいい。各界の著名人のわかりやすい解説が、古典を身近なものにしてくれる。シリーズ一冊目として、歎異抄を選んでみた。実家が曹洞宗の檀家なので、自力の禅宗と真逆?の浄土真宗についても知っておいたほうがいいと思ったからだ。

 

歎異抄の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」の一節はあまりにも有名だ。「悪人正機説」として知られるこの一節は、何を言おうとしているのか。釈徹宗氏の解説を読んでみると、歎異抄における「善人」「悪人」の定義が現代人の考えるものとは異なっていることに気づく。それぞれの定義は以下のようなものだ。

 

・善人……自力で修業して悟りに至れる人

・悪人……煩悩まみれで自力で悟りを開けない人

 

阿弥陀仏はここでいう「悪人」を憐れみ、救おうとしている仏だ。煩悩だらけで悟りなんて開けない人をこそ救済の対象にしているのだから、まず「悪人」こそが救われなくてはいけないことになる。そのうえさらに、阿弥陀仏は本来救うべき対象でない「善人」までも救ってくれる、というのである。歎異抄は別にむずかしい話などしていない。自力で泳げず溺れている者は他力でしか救えない。そのような人こそが「正機(=仏の救いを受ける本当の対象)」なのだ。

 

「悪人」こそが救われるという浄土仏教の教えは、一般的な社会通念とは異なる。釈徹宗氏は、ここにこそ宗教の本領があると主張する。通常の社会通念からこぼれてしまう者を救ってこその宗教だ。社会と同じ価値基準しか持たないなら、「悪人」は救えない。「悪人」をまず救う浄土仏教の教えは、「選択一神教」といわれることがある。この本では「弱者のための宗教は総じて一神教傾向が強くなる」と書かれているが、弱者や愚者のための教えである浄土仏教もまた一神教に近い性質をもつことになる。己の愚かさを自覚すればこそ、仏の前に我と我が身を投げ出すことができるのだろう。

 

そして親鸞こそは、愚者としての自分を強く意識していた人だった。この本では、歎異抄第九条の中で、唯円親鸞に「念仏を唱えていても喜びの気持ちがわき起こってこないがどうしたらいいか」と相談する場面を紹介している。『無量寿経』によれば念仏者の心は喜びに充ち溢れるはずなのに、そうならないのはどうしてなのか、というわけである。親鸞はこの問いにこう答えた。

 

すると親鸞は、なんと「わしもそうなんだ」と言い放つのです。若い唯円からしてみれば、親鸞にこの問いを口にすること自体、相当な勇気が必要だったと思います。それにすぐさま同意してみせた親鸞という人物の特性を感じる場面です。そして親鸞は、本来喜びが湧き上がるはずなのに、喜べないからこそ、私たちは救われるのだ──と説くのです。

 

浄土に早く往生したいという心が起こらず、少しでも調子が悪いと死ぬのではないかと心細い、と親鸞は正直に心中を吐露する。こうした心の動きは、すべて煩悩のなせる業である。だが、まさにそのような煩悩を断ち切れない者をこそ、阿弥陀仏は救ってくれるのだ、と親鸞は説いている。煩悩が尽きることなく湧き上がってくる親鸞だからこそ、同じく煩悩が尽きない者の悩みに寄りそうことができる。悟っていないことが親鸞の強みであり、人間的魅力でもあったのだ。

【書評】山本博文『殉教~日本人は何を信仰したか~』(kindle unlimited探訪4冊目)

 

 

これはキリシタンの殉教の様子をくわしく記録した貴重な一冊だ。一読して驚くのは、キリシタンたちの宗教的情熱の強さだ。彼らは微塵も死を恐れない。捕まれば火刑になるとわかっているのにみずから名乗り出て殉教したがり、今まさに火刑のおこなわれている現場で殉教の様子に感激し、一緒に処刑されたがる者まで出てくる。信仰心の強い者だけが記録に残っているのかもしれないが、それにしたってこうして一冊の本にまとめられる程度には、殉教したキリシタンの例は多いのだ。何が彼ら彼女らをここまで強い信仰心に駆り立てているのか、という疑問を持ちながら、読者はこの本を読みすすめることになるだろう。

 

キリシタンたちの信仰心の強さは、武士道にも通じるものがあるように思える。実際、この本では第3章で、武士のメンタリティが信仰心と関係していたことにふれている。日本の武士は死に臨んで取り乱してはいけないことになっているから、キリシタンの武士もまた、殉教の場にあって命を惜しんではいけないことになる。教えを捨てれば、節を曲げる卑怯者ということになってしまう。

たとえば榊原加兵衛は家康から追放処分を受けたため、身内に説得されてキリスト教の信仰を捨てているが、このことを聞いた家康は、なんと「臆病で卑怯な者」と罵った。俸禄のために信念を曲げる者は、武士の風上にも置けない卑怯者だと考えられていたのである。キリスト教を信じた家康当人ですら、武士ならば最後まで信仰を貫くべきだと考えていたようだ。

 

だが、庶民の信仰心の強さ、殉死に臨んで泰然としている精神力は武士にもひけを取らない。第5章では秀忠の時代、キリシタンの大弾圧がはじまった時期の殉教について記述しているが、1619年の京都におけるキリシタンの殉教はこのようなものだ。

 

大人の眼にも顔にも驚くばかりの光が輝き、死も苦痛も感じていないように思われた。異教徒までが殉教者の不動の比類ない忍耐を認め、少しでも身体を傾けて炎を避けようともしなければ、四肢を縮ませて苦痛を表しもしないのを認めた。

 

処刑の様子を見ていた人々は、信仰の差を超え、キリシタンの勇気と忍耐力を褒めたたえた。これら52人の殉教者たちは、きわめて強烈な印象を京都の民衆たちに残した。

 

この本で紹介されるキリシタンの殉教は、すべてこのようなものだ。処刑を前にして泣き叫ぶ者は一人もおらず、誰もがまったく死を恐れることがない。炎に焼かれながら説教をする者すらいる。私が為政者なら恐怖を感じるところだ。武士ならともかく、なぜ名もなき庶民までもがここまで信仰を貫けるのだろうか。読みすすめていくと、どうやら当時の日本人はある種の節義のようなものを持っていたことがわかってくる。

 

翌日、多くの民衆の前で、彼らを訴えた者に褒賞が渡された。それは、「死んだキリシタンの中のりっぱな屋敷と1500エスクードの値に相当する30枚の金貨」だった。

しかしそれを見ていた者は、決して彼らをうらやましがることはなく、逆に「そのような褒章は破滅のもとになり、いつまでもそれを有難がってはおれなくなればよい」などという罵声が、キリシタンではない人々の間からもおきたという。

こうした裏切りに対しては、信仰の違いとは無関係に非難されるのが日本の社会の特徴である。

 

キリシタンではない者も、金のためにキリシタンを売った者を強く軽蔑していた。この態度は、俸禄のために信仰を捨てた榊原加兵衛を罵った家康にも通じるものがある。こうした節義を、殉死したキリシタンはとりわけ強く持っていたのだろう。個人的には遠藤周作『沈黙』のキチジローのように信仰を捨てる「弱いキリシタン」の話も読んでみたかったのだが、そのような人物は殉教などしないのでこの本の主人公たりえない。殉教できなかった人々は、恥や罪悪感を感じただろうか。感じたとして、その心を救える教えがこの時代にあっただろうか。そんなことを考えてしまうほど、この本に登場する「強いキリシタン」たちの姿は、読むものの倫理観を揺さぶってくる。

【感想】たもさん『カルト宗教信じてました。』(kindle unlimited探訪3冊目)

 

 

人はなぜカルトにはまるのか?著者にこう問うのは的外れかもしれない。著者がこの宗教に入信したのは母に騙されたからであって、別にこの教えに惹かれたわけではないからだ。英語のレッスンがいつのまにか宗教書のレッスンに変わり、不気味な挿絵をみせられ不安を覚えても、まだ小学生で自我も固まっていなかった著者がこの宗教に抗うのは困難だっただろう。著者が言うとおり、「疑念を持つにはあまりに幼すぎた」のだ。生きているうちにハルマゲドンが来て信者だけが生き残る、などと脅されたらなおさらだ。

 

問いを変えよう。なぜカルトにはまるのか、ではなく、なぜカルトから抜け出せないのか、と問う必要があるのだ。成長し、自我が強くなってくれば、宗教に対抗する力が育つかもしれない。思春期に入れば、この宗教で禁止されている活動だってしたくなる。実際、著者はあがり症を直すために演劇部に入部しようとしている。だがそれは「集会の妨げになる」と叱られ、著者は従ってしまう。なぜなのか。

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それは、この世界には独特の「承認の場」があるからだ。信仰に従ってさえいれば、皆が笑顔で受け入れてくれる。「奉仕活動」として勧誘をすれば、「中学生にして他の人を教える特権があるのよ」と褒められる。エゴに満ち堕落した世間の人間などとは違う、「選ばれし者」になれるのだ。著者が言うとおり、この宗教は「一風変わった信条のゆえによく迫害に遭う」。だからこそ宗教内にしか居場所がなくなり、ますます信仰にのめり込むことになる。

 

人は社会的生物であり、一人で心の隙間を塞ぐのはむずかしい。どこかに所属したくても地縁血縁が薄れゆく一方の現代社会において、代わりとなる共同体が常に求められている。そのひとつがカルトなのだろう。なにしろこの教えを信じていれば、仲間の承認も得られ、優越感も満たせ、世界の終末における救済まで得られるのだ。この宗教では教えに逆らえば「排斥」され、しばらくの間信者と会話も許されない。こんな窮屈な掟すら、信者にある種の自己肯定感をもたらしているかもしれない。自分はそんな罰を受けるような者とは違う、正しい人間だと思えるのだから。

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結局、著者は紆余曲折を経てこの宗教を抜けることになるのだが、狭く窮屈な共同体であっても、そこから抜け出すことは大きな恐怖がともなう。カルトをやめることはそれまで自分自身を形作ってきたものをすべて叩き壊すことだ。そこからもう一度生まれ直す覚悟が必要になる。自由になれたのはいいものの、そこから先に何が正しく何が間違っているのかを教えてくれる人はもういない。それまでさんざん「サタンの世」と吹き込まれてきた一般世間のなかへ、人生半ばを過ぎてから戻っていくのは容易なことではない。ここにはもう教団内で得られていた、特別感も優越感もなにもない。ただの自分であることを受け入れていかなくてはならない。

 

今の世の中を見渡すと、淋しい人、特別でありたい人の受け皿になるのはカルトだけではない。一部のオンラインサロンにもそうした役割はあるだろう。Jアノンや反ワクチンなどの陰謀論を信じる集団にも、共同体としての役割はある。これらの集団は外から見るといかにも奇異で極端な価値観に染まっているようにみえるが、それだけに「目覚めた少数派」でありたい人の欲求を満たすことができる。外部から叩かれれば叩かれるほどに、これらの共同体内部の人々は結束を固め、その絆を強固なものにしてく。それを愚かな生き方だと嗤うのは簡単だ。だが、そうした生き方しか選べない人はどうすればいいのか。著者の夫は「信者はこの宗教のなかでしか生きられない人ばかりだ」と言う。目が覚めない人は何をやっても覚めないのだから、教会の暗部を暴露したって無駄だというのだ。

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狭く偏った共同体であっても、そこにしか居場所がない人はいるのだろう。信仰は自由だし、人の心のよりどころを全否定するわけにもいかないのなら、選べるのは自分がこの宗教を抜けるかどうかだけだ。いや、それだって本当に自分で選べるのかは怪しい。このマンガを読む限り、著者がこの宗教を抜けられたのは、良き夫にめぐりあい、信仰とは別の心のよりどころをみつけられたからだと思える。結局、それは運や縁といった領域の話なのではないか。逆にいえば、ちょっとした運や偶然で、人はカルトに取りこまれてしまうこともあるのだろう。今我々にできることはこうしたマンガを読んで、多少免疫をつけておくくらいのことかもしれない。

【書評】中国の南北朝時代が新書一冊でわかる!会田大輔『南北朝時代 五胡十六国から隋の統一まで』

 

 

これは大変コスパの高い一冊。新書一冊で西晋の崩壊から隋の統一にいたる長い分裂時代を概観できるうえ、各所に新知見が盛り込まれている。政治史中心で、主要人物のエピソードも数多くとりあげているので読みやすい。この時代の概説書は五胡十六国の興亡がややこしいので挫折しがちだが、この本では思いきってのちに北魏を建国する鮮卑拓跋部に的を絞って記述しているので、頭が混乱することがない。東晋時代は最低限の記述ですませ、北魏と宋・斉・梁・陳が並立した時代を中心に書いているので、この時代について知りたい読者には強くおすすめできる一冊になっている。

 

中国の南北朝時代には、この時代特有のダイナミズムがある。ユーラシア大陸東部において、遊牧民華北に侵入し、中国文化と遊牧民接触や融合をくり返した結果、思わぬ化学反応が起きることがある。そのひとつの表れとしてこの本で紹介されるのが、北魏にしか存在しない「子貴母死制」だ。北魏を建国した鮮卑族の間では妻や母親の発言力が強いため、後継者の決定後にその生母を殺す「子貴母死制」がつくられた。これは中国にも遊牧民にも存在しなかった、独自の制度である。この制度によって母を殺された拓跋嗣は号泣して父・道武帝の怒りを買い、平城から逃亡する一幕もあったという。このような過酷な制度も、国家の安定のために導入する柔軟性が鮮卑族にはあった、

 

北魏から日本に伝わったものもある。北魏文帝は18歳の時、5歳の皇太子(後の孝文帝)に譲位しているが、皇帝がまだ幼いため、「太上皇帝」として国を治めることになった。譲位後に太上皇帝として国政を執る例は、中国諸王朝にも遊牧民にもないため、これもまた中国の政治文化と遊牧民の柔軟な思考の接触により生まれたもの、とこの本では解説される。この「太上皇帝」に影響を受けてできた称号が「太上天皇」で、持統天皇軽皇子に譲位したのち太上天皇となっている。日本は南朝文化の影響を強く受けているが、意外なところで北朝の文化も取りこんでいた。

 

南朝についての記述を読むと、梁の武帝の仏教政策について新知見が得られる。武帝は生涯に四度も「捨身(=寺院の奴隷になること)」をしたことが知られているが、本書によればこれは「手の込んだ喜捨」ということになる。本当に皇帝が奴隷になるわけにはいかないから、手続きとしては家臣が多額の銭を払い、寺院から武帝を買い戻す形になるわけだ。この時代、東南アジア諸国から仏像や舎利などを献上する仏教的朝貢もおこなわれており、武帝の捨身の直後にスリランカの使者が来貢したこともあった。武帝は個人的に仏教に傾倒していただけでなく、「捨身」で諸外国に崇仏天子としてみずからをアピールしていたようだ。

 

この時代、仏教は北朝でも盛んだった。たとえば北斉を建国した高洋(文宣帝)は座禅に励み、多くの寺院を建立した熱心な仏教徒だった。だが一方で高洋は酒に溺れ、多くの勲貴(北方系の軍人)や漢人官僚を殺害する暴君でもあった。本書で「信仰と行動のギャップには戸惑うばかりである」と評される高洋が酒に溺れていたのは、若くして皇帝となり、勲貴の支持を取りつけるため軍事や政治に励んだストレスのせいらしい。もしかすると、仏教もストレス解消の一手段だったのではないだろうか。

 

この高洋のように、キャラの立った人物がこの本には多数登場する。高洋の父・高歓は有力者の娘に一目ぼれされ、この娘と結婚したことで馬と資産を得たエピソードがあるし、高歓の仲間だった候景はのちに梁の首都・建康を占領し「宇宙大将軍」と称している。北魏で三長制や均田制などを実施した太后のような女傑もいる。こうした個性的な面々ががつぎつぎと出てきては激しい権力闘争をくり返すので、読んでいて飽きることがない。これらの人物が織りなす群像劇を読みすすめるうち、いつのまにか終章の陳の滅亡まで導いてくれる『南北朝時代 五胡十六国から隋の統一まで』は、リーダビリティが高く密度の濃い中国史の概説書として、今後長く読みつがれる一冊になりそうだ。

【感想】「理解のある彼くん」が出てこないから安心?『迷走戦士・永田カビ』(kindle unlimited探訪2冊目)

 

 

永田カビ作品にはある種の安心感がある。それまでさんざん人に受け入れられないつらさ、うまく世の中に適応できない苦しさを描いていたのに、どこからか突然その苦しさをすべて受け止めてくれる「理解ある彼くん」が出てきて読者が置いてけぼりにされる、ということがないからだ。なにしろ永田さん自身がこの『迷走戦士・永田カビ』で、この種の理解者がなぜ急に出てくるのかと疑問を呈している。

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これはネットでもけっこう話題になった箇所だ。生きづらさを抱えた人がいつのまにか理解あるパートナーを得られている状況に対し、比較的パートナーを得られやすい立場にある女性が突っこんだのが珍しかったからだろうか。

 

女性は比較的パートナーを得られやすい、と書いたが、それはあくまで一般論だ。このマンガでも永田さんはパートナーを得るべくマッチングアプリに登録しているのだが、会ってがっかりされないようにとマイナス要素を盛りに盛ったプロフィールを作成している。それでもメッセージが殺到する。これ以上できないくらいプロフィールを改悪してもメッセージがくる状況に、永田さんは恐怖を感じている。

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これを読んでいると、やはり女性と男性とでは需要が全然違うんだな、と思う。男性がこんなにネガティブなプロフィールを作ったら、全然相手にもされないだろう。だが、たくさんオファーがある状況も永田さんには喜ばしいものではない。押しよせるいいねやメッセージが、「こいつならいけるだろ」という男性からのものだと思ってしまうからだ(それが事実とは限らないが)。

 

引く手あまたな状況を肯定的にとらえられるなら、これらの男性のなかから「理解ある彼くん」をみつけられる可能性もあったかもしれない。だが、そもそもそんなポジティブな考え方ができるようなら、永田さんは『レズ風俗』にはじまる一連のエッセイ漫画を描く必要などなかっただろう。マッチングアプリで多くの男性から求められても、それが幸せに結びつくとは限らないのだ。需要があるぶんだけ女性の方がパートナーを得やすいとはいうものの、人は男だ女だという前に、まずその人固有の生を生きている。生きづらさの形は人の数だけあるのだから、単純に男女別にカテゴリ分けして語れるものではない。

 

このマンガで、永田さんは自分がパートナーを得るまでのハードルについて考察したりはするものの、結局は「ていねいな生活」みたいなところに落ち着いている。幸せそうでなにより。パートナーがいてもいなくても幸せならそれで一番……のはずだが、結局「理解ある彼くん」が出てこないことに安心してていいのか、とも思う。どんな形の幸せを求めようと、それは作者の自由だ。だが永田さんの場合、そのような理解者(男性とは限らない)を得たとしても、そうなるまでの過程をしっかり描いてくれるのではないか、という期待感はある。このマンガでパートナーを得られない苦しみを描いてきた人が、そこをおざなりに済ますことはないのではないだろうか。

瓜生中『よくわかる浄土真宗』(kindle unlimited探訪1冊目)

 

 

kindle unlimitedが2ヶ月で299円のキャンペーン中だったので昨日から入ってみた。仏教の入門書はかなりたくさん読めるので、まず読み放題の期限が切れそうな『よくわかる浄土真宗』から読んでいくことにする。

 

この本によると、大乗仏教とは仏教の大衆化運動であり、悟りにいたるさまざまな道を模索するものだった。阿弥陀如来も悟りへの導き手として考え出された如来のひとつで、サンスクリット語ではアミターバ(=計り知れない光明を発し続ける)になる。漢語では無量光仏と訳される。

 

阿弥陀如来はメシア思想と関連が深いと解説されている。キリスト教的なメシア思想が東方に伝わり、これがインドで大乗仏教と融合して生まれたのが阿弥陀如来と考えられているらしい。浄土真宗で極楽が「西方」にあるとされているのは、メシア思想とともに天国が西から伝えられたからだという。

 

ただし、キリスト教の天国と浄土真宗でいう極楽浄土はかなり異なる。キリスト教の天国では男女が酒を酌み交わし饗宴を楽しむが、極楽浄土には女性がいない。これは、男女間の愛欲、つまり煩悩を起こさせないためだ。阿弥陀如来に煩悩の起こらない西方浄土に連れて行ってもらえれば、何もしなくても煩悩がなくなっていくからいずれは悟りに到達することになる。極楽浄土は快楽の尽きた清らかな世界なのだ。

 

他力本願が浄土真宗の基本だが、もともと「自灯明(=自らをよりどころにして生きる)」をかかげてきた仏教から、なぜ他力を頼む教えが出てきたのだろうか。この本では、末法の世では戒律を守り、厳しい修行をするのは不可能だと考えられたから」と解説されている。

浄土真宗七高僧のひとりに数えられる道綽は、釈迦の教えを「聖道門」と「浄土門」の二つに分けている。聖道門は自力で修業し悟りにいたるもので、浄土門は念仏を唱えて極楽に往生するものだ。末法の世では人間の資質が低下し、聖道門を歩める者がいないため、出家在家を問わず、人は浄土門に頼るしかないと道綽は説いた。

 

この道綽と同じ教えを、親鸞法然から受けついでいる。法然ははじめて親鸞に会ったとき、まず親鸞の仏教についての考えを語らせた。親鸞比叡山で学んだ天台の教義などをくわしく述べたが、それは自力聖道門の教えであり、末法の世では他力浄土門の教えでなければ救われないと法然は説いた。親鸞法然の教えを即座に理解し、その場で弟子になったのだという。

 

親鸞が妻帯していたことはよく知られているが、この本によれば法然親鸞の妻帯に賛成していたという。そうであってこそ、世俗に生きる在家の信者も極楽に往生できると説けるからだ。

 

法然は在家の人々に向かって教えを説いたが、剃髪して妻帯していない出家者が肉食妻帯する在家の人々も平等に極楽浄土に往生できると説いても説得力がない。

肉食妻帯する在家のものには、親鸞が「女犯」に悩んだように破戒の負い目がある。出家の僧侶がいくら阿弥陀如来は出家、在家の別なく極楽往生を約束してくれていると説いても、超俗の出家者は救われるだろうが、肉食妻帯している在家のものがはたして救われるのだろうか、という疑問を持つ者も出てくる。そんな疑問を払拭するためには、自らが妻帯して在家と同じ立場で念仏を勧めるよりほかに手立てはない。

 

阿弥陀仏にすがって往生をめざす浄土真宗は、もともとの仏教よりもこちらのイメージする「宗教」に近い印象がある。多くの人はどこかで大いなる何かに救ってほしいという心性があり、その需要に浄土真宗はこたえていたのではないだろうか。

 

 

著者には仏教関連の多くの著書があるが、kindle unlimitedで読み放題になっている本はその時期によって違うので、入会を迷っているなら読み放題対象の本を確認してから決めたらいいかもしれない。