明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

ソード・ワールド短編集がKindle Unlimitedで読み放題対象なので『レプラコーンの涙』を読んだ

 

 

ファンタジー小説は作品ごとに世界観も設定も違うので、読みはじめるハードルが少し高い。でも慣れ親しんだ世界観ならすぐストーリーに入っていける。それが『ロードス島戦記』で長いことお世話になったソード・ワールドの世界観ならなおさらだ。この世界観をベースに水野良山本弘清松みゆき・下村家恵子らが織りなす作品群は、今読むとかえって新鮮に感じる。派手なスキルやチート魔法などがないせいだろうか。米田仁士の格調高い雰囲気のイラストもいい。こういうのが読めるからKindle Unlimitedはやめられない。

 

グループSNEの作品群に耽溺する少年時代を過ごしたのに、なぜかソード・ワールド短編集は未読だったので、まずレビュー数の多い『レプラコーンの涙』から読んでみた。一作目の水野良『一角獣の乙女』は森林衛士ジュディスとユニコーンの絆の物語であり、ガールミーツボーイでもある。堅苦しいジュディスとドルイドのケニーの関係性や、ユニコーンの気高さ、自己犠牲の強さが読みどころ。表題作『レプラコーンの涙』はハーフエルフの冒険者・フレアが城中で悪戯をして回るレプラコーン退治を頼まれるストーリー。調査を進めるうち、レプラコーンが悪戯を続けるのには悲しい事情があることがわかってくる。おどけた顔とは裏腹に「孤独を司る精霊」という面も持つレプラコーンの知られざる姿が印象に残る佳品だった。

 

三作目の『契約の代償』は、ひなびた漁村を守るため禁断の力に手を出してしまった冒険者たちの物語。強大な力を手にするも、心をむしばまれ戦争マシンと化すメンバーに恐れを感じたグラスランナーがとった選択は……という話だが、ストーリー展開が素直で後味もいい。とくに凝った部分はないが、冒険者たちのキャラクターに嫌味がなく、彼らの次の冒険も読みたくなる一篇だった。そしてラストを飾る『ジェライラの鎧』はタイトル通り、鎧に徹底的にこだわった作品。主人公の騎士見習いジェライラは鎧職人のルバートに自分専用の鎧を作ってもらうことになるが、この鎧の制作過程の描写がとにかく凝っている。職人気質のルバートはジェライラの体形にぴったり合う鎧を作ってくれるが、これが実戦でどう役立つのかも見どころ。そして、鎧をつうじて接近したルバートとジェライラが迎える結末にもやはり鎧が絡んでくる。鍛冶や防具好きの読者を十分満足させるマニアックさを保ちつつ、正統派の恋愛小説でもある本作は一番ボリュームがあり、ラストにふさわしい作品だった。

 

本編の内容には十分満足できたが、本作はあとがきが感慨深い。なにしろ水野良山本弘が新進気鋭の若手扱いなのだ。本作が発売された1990年時点では、大ベテランたちもファンタジージャンルの草創期を支える作家だった。この安田均のあとがきを読みつつ、平成初期の空気を思い出すのも本作の愉しみに加えてもいい。ちなみに巻末には本編のキャラクターたちの能力値が掲載されている。ここからソード・ワールドRPGに興味を持ってもらうための配慮だ。TRPGにそれほど興味のない自分からしても、小説の登場人物のデータを見ることができるのは面白い。こういうディテールをしっかり作り込んであるから、キャラクターが生きているように感じるのだろうか。

 

Kindle Unlimitedは30日間無料体験できるので、1巻あたり休日一日で読めるソード・ワールド短編集は無料期間だけでかなり読めそうだ。

 

 

 

ゲームブックはファミコンを買ってもらえなかった子供たちの心の隙間を埋めてくれた

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イアン・リヴィングストンとスティーブ・ジャクソン、このゲームブックの両巨頭の名を懐かしく思い出す人は多いだろう。80年代後半、日本にファンタジーというジャンルが根付きつつあった時代、ゲームブックもこの世界への入り口として大きな役割を果たした。この時代に子供時代を過ごした私にとり、ゲームブックの存在は福音だった。宮崎英高氏と同様、親にファミコンを買ってもらえなかった子供が唯一自宅で遊べる「ゲーム」がファイティング・ファンタジーであり、ソーサリーシリーズだったのだ。ひとたび手に取れば、そこには暗く、薄汚く、猥雑な物語世界が待っている。おどろおどろしいタッチの挿絵に誘われ、ダイスを片手にページを繰れば、いつしか心はバルサスの要塞や城塞都市カーレ、マンパン砦の中をさまよい歩いていた。ゲーム機を部屋に置くことを許されない子供にとり、ゲームとは読んで味わうものだったのだ。

 

ゲームブックがありがたかったのは、それが本の形をしていることだ。仮に私がゲーム機を友達から借りてきたとしても(一度やったことがある)、部屋で遊んでいたらすぐ親にばれてしまう。ボリュームを最小にしてこっそり遊べたとしても、後ろめたさはぬぐい去れない。その点、ゲームブックはいい。傍目には読書に没頭しているように見える。いや、ゲームブックは本だ。そこに魅力的な文章があり、物語が書かれているのなら、それを読むことは読書に他ならない。本だから持って歩けるのもいい。私は学校にも旅行先にもゲームブックを持っていったし、枕元にも置いていた。いつでもどこでも読めて遊べるお手軽さは、テレビゲームにはない独自の強みだったといえる。ゲームブックは史上初の携帯ゲームだ、といっては言いすぎか。

しかし一方で、ゲームブックは紛れもないゲームなのだ。物語が分岐し、モンスターとの戦闘が用意されていて、連れていく仲間も選べるのだから。進行と結末が自分の手に委ねられているという緊張と興奮が、ゲームブックへの没入感を深くしてくれる。私はあまり本を読まない子供だったが、活字で物語を追う愉しみを、ゲームブックが初めて体験させてくれた気がする。ゲームブックにBGMはない。ビジュアルも挿絵と地図くらいしかない。それだけに、当時の子供たちは想像力をフル回転させ、ゲームブックの世界を旅していた。それは他のどんな創作物が与えてくれるものにも劣らない、豊かな体験だったのだと思う。

 

ゲーム機に触れられない子供たちにとり、ファイティング・ファンタジーやソーサリーシリーズは初めて遊ぶ「洋ゲー」だった。これらの作品は、テレビゲームを遊べない子供たちの渇きを癒してくれていた。だが、当時の子供たちにとり、海外のゲームブックだけが大事だったわけではない。ドラゴンクエストが一世を風靡していた時代、級友たちが皆その話題で盛り上がっていた時代、私はあの魅惑的な剣と魔法の世界へ旅立つことができずにいた。ファミコンMSXもない家庭ではどうしようもない。ソーサリーがいくら魅力的でも、それだけでは埋められない心の隙間もある。

 

そんなとき助けになったのも、やはりゲームブックだった。あの時代、ドラゴンクエストゼルダの伝説のような人気タイトルは、けっこうゲームブック化されていた。どういうわけかゼビウスゲームブックまで発売されていた。そんな時代だったから、迷わずドラクエゲームブックも手に取った。ドラゴンクエスト3ゲームブックはなかなか凝っていて、商人や遊び人を仲間にすることもできた。遊び人が後に賢者に転職するのはお約束。この遊び人はバギクロスで敵を一掃して頼りがいのあるところを見せるも、ノリは遊び人のままというキャラクターになっていた。ゲームのドラクエ3と違って仲間にはそれぞれ個性があり、しっかりストーリーを盛り上げてくれる。そんな独特の良さを持ったこの作品は、海外のゲームブックほどの深さはないとしても、本の形でドラゴンクエストを体験させてくれる、ありがたい存在だった。

 

昭和末期を一瞬の風のように吹き抜けたゲームブックの流行が去ると、私もこの世界には見向きもしなくなってしまった。普通の小説を読むようになったせいもあるし、店頭で見かけなくなったものを追いかけるわけにもいかない。だが大人になっても時おり記憶の蓋が開き、間欠泉のように当時の思い出が噴き出してくる。テレビゲームで遊べなかったからこそ、子供たちにとっての唯一の「読むゲーム」体験は、深く心に刻まれている。今でもときどきすべてを放り出し、記憶を消したうえで富士見ドラゴンブックの名作『鷹の探索』を楽しみたい、などと思うことがある。あれほど味わい深いマルチエンディングの作品はめずらしい。いずれ14へ行くことになる儚い人生のなか、このような作品に出会えたのは幸運だったのだろうか。

 

 

 

【書評】人を悪行に駆り立てるのは共感だった──ルドガー・ブレグマン『Humankind 希望の歴史(下)』

 

『Humankind 希望の歴史』上巻においてルドガー・ブレグマンはスタンフォード監獄実験やミルグラムの電気ショック実験など、性悪説の証拠とされてきた科学実験を批判し、人間の本質は善であると主張してきた。では本来善良なはずの人間がなぜ悪をなすのか。これについて述べるのが下巻になる。意外なことに、ここでキーワードになるのは「共感」だ。

 

共感は人間の良い性質のひとつだ。人は共感できる人には協力を惜しまない。だが本書によれば、「共感はわたしたちの寛大さを損なう」。人が犠牲者に共感するとき、その人物を犠牲者にした者たちをひとまとめに敵と認識するようになる。ブレグマンの言い方を借りると、「共感は、世界を照らす情け深い太陽ではない。それはスポットライト」なのだ。共感は、人生にかかわりのある特定の人や集団にのみ光を当てるもので、その範囲はごく狭い。つまり、共感の外側にいる人間集団には、人は残酷なこともできてしまう。

 

共感が残酷さを生んでしまう顕著な例は戦争だ。本書の10章では、第二次大戦においてドイツ兵が勇敢に戦った原因を友情に求めている。ドイツ兵はイデオロギーにほとんど影響されることはなく、命を惜しまず戦ったのは仲間のためだった。ブレグマンによれば、テロリストですら大義のためだけに死ぬわけではないという。アメリカの人類学者も「彼らは互いのために、人を殺し、自ら死ぬのだ」と指摘している。友情で結ばれ、共感できる仲間たちのために、彼らは戦う。そもそも信頼できる仲間と一緒でなければ、恐怖を乗り越えられない。

 

ここまで読んだだけでは「やっぱり人間は善良ではないんじゃないか」という気もしてくる。人が善意を向けられる範囲がごく限られていて、共感できない相手には平気で残酷にふるまえるのなら、差別の解決は困難だ。共感と外国人恐怖症はコインの表裏だ、とブレグマンは説く。共感の幅は広げられないのか。あるいは共感できない集団とも争わない方法はあるのだろうか。本書を読み進めれば、さまざまな分断を解決するヒントも見えてくる。

 

本書の17章で著者はアメリカの心理学者ゴードン・オールポートの理論を紹介している。彼の考案した偏見をふせぐ方法はごく単純なものだ。偏見や憎しみ、差別は相手をよく知らないことから生まれるので、これらの治療法は交流することだ。南アフリカの人種差別を解決しようとしたオールポートの「接触仮説」は多くの科学者から批判されたが、ブレグマンは信頼と交流が成果をあげている例を数多く紹介している。白人がイスラム教徒と交流することで、イスラム嫌悪が減る。多様なコミュニティで暮らす人ほど、人間は皆同じだと考え、見知らぬ人を助ける傾向がある。交流は差別や偏見を減らす処方箋として有効だ。ブレグマンはただ希望的観測を並べているわけではない。人々が互いに慣れるにのは時間が必要で、オールポートが「歴史の力」を軽視していたと語ったように、差別はすぐにはなくならない。だが彼は「あきらめることは、歴史の長い教訓を読み誤ることだ」とも語っている。そして1994年、南アフリカの大統領になったのは交流の力を深く理解していたネルソン・マンデラだった。

 

この本では上巻同様、人間の善性を示す多くの実例を紹介している。住民に直接政治参加することを認め自治に成功したトレスやポルト・アレグレ、リゾートのような刑務所を運営し再犯率を世界最低にしたノルウェー、マネジメントを廃止して従業員のモチベーションを上げたビュートゾルフなどが、人を信じて成果をあげた例だ。これだけ多くの例を挙げられてもなお、自説に都合にいい例ばかり出しているのではないか、人の善性を信じて失敗した例はないのか、といった疑問が自分の中にも残っている。それだけ人の本質は悪だとくり返し説得されてきたせいだろうか。そういえば本書の上巻では、人が性悪説に傾きがちなのはマスメディアが原因の一つだと書かれていた。ニュースになることの多くは例外的な悪いことだが、強く印象に残る。人はネガティブなことを避ける本能があるので、悪い出来事に意識が吸い寄せられがちだ。だとすれば、本書が人間の良い面を強調するのも意味があることになるだろうか。ブレグマンによれば、ニュースを見ることでメンタルヘルスに悪影響があるという。とはいえニュースを避けても、人間の利己的な面に焦点を当てたフィクションもノンフィクションもいくらでもある。それなら真逆の本が一冊くらいあってもいいだろう、という気はする。

 

ブレグマンは本書の上下巻をつうじて、人間の本性は善であると訴えてきた。だが個人的には、性善説性悪説のどちらが正しいか論じることにはあまり意味がないように思う。人が共感できる対象に思いやりを示す点を見ればそれは善だし、共感できない対象を攻撃するのを見れば悪だと感じる。どちらか一方だけが人間の本質ではない。人が利己的か利他的か、という論争も同じで、結局人は両面を持っているのではないか。本書のエピローグで、ブレグマンはホッブズが物乞いにお金を恵んであげたエピソードを紹介している。これはホッブズにいわせれば、「物乞いが苦しんでいるのを見て不快になるのが嫌だからそうした」のだ。不快を避けるためだから利己的な行為だというわけである。だが、どうして人助けをすることに快を感じるのか。それは人が利他的だからではないのか?と見ることもできる。結局、なんとでも言えてしまうのだ。

 

実はブレグマンもここは理解していて、「純粋な利他主義は存在するのかという議論に意味はない」とも書いている。そんな議論をするより、お互い得をするように行動すればいいのだ、他者に寛容になればすべての人が勝者になれる──が、本書の結論になる。人に善意を向けることはおおむね「良い取引」になる、というのだ。だがこれだけ説得されても、人は表立って善行をすることを避ける。本書のエピローグで書かれているとおり、人は善行に利己的な動機を見出そうとするし、誰も偽善者とは思われたくないからだ。だがここで遠慮してはいけない、とブレグマンは説く。人は社会性を持ち、他人の真似をするから、善行もまた真似される。「人間は利己的だ」と強調すれば善行は自分をアピールするための行為と見られるので、広まらない。ブレグマンが人間の善性、利他性を強調するのが世界に善行を伝染させるためだとすれば、本書はなかなか壮大な社会実験を試みている一冊ともいえる。

 

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天然理心流はなぜ多摩の豪農に伝わったのか?須田努『幕末社会』

 

 

天然理心流を開いた近藤内蔵助は、江戸の両国薬研堀に道場を構えていた。だがなかなか門人が増えなかったため、多摩の農村で出稽古をはじめ、この地域に土着していた八王子千人同心たちに剣術を伝えていったことはよく知られている。やがて多摩地域の百姓身分のなかから才能のある者が近藤家へ養子に入り、二代目以降の近藤家の名跡を継いでいく。宮川勝五郎、のちの近藤勇もこうして天然理心流の四代目を継ぐことになった。

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だが、もともと千人同心たちの武術だった天然理心流は、やがて豪農たちの剣術へと変わっていく。その背景には、幕末期特有の多摩地域の社会情勢がある。須田努『幕末社会』によると、天保期には百姓一揆の作法が崩壊し、蜂起した無宿たちは暴力の行使をためらわなくなった。百姓一揆とは本来、幕藩領主の「仁政」を引き出すための訴えであり、暴力を用いない作法が確立していた。だが領主への信頼が失われ、「仁政」を期待できない時世では暴力を封印する意味もなくなる。木枯し紋次郎』にも出てくる甲州騒動では三千人もの大集団が片端から大きな商家、村役人の住まいを襲撃し、百六か村三百五軒を破壊するほどの騒ぎを起こしている。多摩は甲州に隣接しているため、この地域の豪農や村役人は自衛のための武術を身につける必要に迫られた。

 

『幕末社会』3章によると、多摩地域において天然理心流拡大の受け皿になったのが、日野宿名主の佐藤彦五郎と、小野路村名主の息子小島鹿之助だ。佐藤彦五郎は土方歳三の義兄であり、みずからも天然理心流に入門し免許を得ている。彦五郎は名主として多摩地域の治安を守る義務感から剣術を身につけた。彦五郎は自宅を改造して道場とし、ここで近藤や土方・沖田ら試衛館のメンバーが多摩の門人に稽古をつけることになる。彦五郎や小島鹿之助のような地域の有力者が支持したことで、天然理心流は入門者を増やすことができた。

 

多摩の治安を担う者たちは、やがて剣だけでなく銃も手にすることになる。多摩はもともと幕領であり、代官の江川英龍が海防のため農兵を設置する必要があると訴えていた。英龍の息子・英武の代になり、「盗賊・悪党」の蜂起に対し農兵を取り立て、在地社会の治安維持にあたることになった。こうしてゲベール銃で武装する農兵銃隊が誕生し、百姓も武力として組み込まれた。幕末において「武威と仁政」が崩壊するなか、武士の治安維持能力が低下し、そこを農兵が埋めていった。

 

1866年、横浜開港以来続いていた物価騰貴や天候不順などが原因で、「武州世直し騒動」がはじまった。この世直し勢は最大で10万人余りにまでふくらんだが、多摩でこれに立ち向かったのが農兵銃隊だった。佐藤彦五郎は農兵銃隊を率いて世直し勢に発砲し、その後逃走する土民を追撃したという。天然理心流を学んだ試衛館メンバーが京では治安維持のため必要とされ、同じ流派を学んだ佐藤彦五郎が多摩の治安維持のため活動したことは興味深い史実だ。幕領である多摩に縁のある者たちが幕府側・秩序維持側に立ったのは必然だったのだろうか。

【書評】「ほとんどの人は本質的ににかなり善良だ」と主張する30代歴史学者の著作『Humankind 希望の歴史 上 人類が善き未来をつくるための18章』

 

 

人間の本質は善か悪か。この問題について、古今の多くの哲学者が議論してきた。西洋思想において性悪説の代表者はホッブズ性善説の代表者はルソーだが、『希望の歴史 人類が善き未来をつくるための18章』の著者ルドガー・ブレグマンは、ルソーの立場に立つ。「ほとんどの人は、本質的にかなり善良だ」という彼の主張は、一見ただの綺麗事にも思える。しかしブレグマンが本書で挙げる数多くの事例を知るごとに、人間は思っていたよりも良い性質を持っているのかもしれない、という気持ちにさせられる。人間の本質が善悪いずれか結論を出すのは、本書の考察を読んでからでも遅くはなさそうだ。

 

ブレグマンが本書の上巻でしているのは、多くの知の巨人たちが積み上げてきた性悪説への挑戦だ。彼はまず二章において、ゴールディングが『蠅の王』で描いた無人島での少年たちの争いは本当に起きるのか、と疑問を投げかける。そしてトンガから漂流し、実際に無人島に取り残された少年たちの事例を見つける。少年たちは『蠅の王』とはまったく異なり、鶏小屋や菜園、ジムなどを作って立派に共同生活を営んでいた。この事実を知り、ブレグマンは「真の『蠅の王』は友情と誠実さの物語であり、互いに支え合うことで、人間は非常に強くなれることを語っている」と結論づける。ノーベル文学賞を受賞した『蠅の王』はあくまでフィクションであり、現実を正確に描写したものとはいえないようだ。

 

とはいえ、性悪説は手ごわい。人間が本質的に利己的で、悪である証拠はいくらでもみつかるように思える。たとえば有名なスタンフォード監獄実験などはどうか。学生に看守と囚人役を演じさせたら、看守がどんどん嗜虐的になっていったというあの恐ろしい実験こそ、人間の闇を暴いたものではないのか?と考えたくなる。しかし、ブレグマンが8章で書いていることを読むと、この実験の結果は信じてよいものでないことがわかる。「看守たち」は科学者たちからサディスティックにふるまうよう圧力をかけられていたのであり、学生たちが自然にそうしたわけではなかった。しかも、この状況下でなお「看守たち」の多くが囚人を厳しく扱うのを躊躇していた。彼らの三分の一は囚人に親切ですらあった。この実験結果からは「人間の本質は悪」という結論は導けない。

 

本書の良い点は、内容がさまざまな知の世界へリンクしているところだ。ブレグマンは性悪説的な世界観を形作ったものとしてホッブズの『リヴァイアサン』やマキャヴェッリの『君主論』、ドーキンスの『利己的な遺伝子』などをあげているが、ここにはさらにジャレド・ダイアモンドやユヴァル・ノア・ハラリなど最近の知の巨人たちも加わる。ハラリはネアンデルタール人が滅びた原因について「サピエンスがネアンデルタール人に出会った後に起きたことは、史上初の、最も凄まじい民族浄化作戦だった可能性が高い」と推測しているし、ダイアモンドは「状況証拠は弱いが、殺人者たちには有罪の判決が下された」としている。そのハラリが本書を「私の人間観を一新してくれた本」と評しているのが面白い。性悪説といえば、ジャレド・ダイアモンドは『文明崩壊』でイースター島で起きたという二つの部族の凄惨な争いを紹介しているが、ブレグマンは6章でこの争いが本当に起きたのかを検証している。『文明崩壊』は一度読んでいるが、この章を読んで再読したくなった。ハラリの『サピエンス全史』にも興味が湧いた。本書は人間の本質を知りたい読者に、豊饒な知の世界へのアクセス手段を提供してくれている。

 

『希望の歴史 人類が善き未来をつくるための18章』上巻を読みすすめると、世の中そんなに捨てたものでもない、という気持ちになる。だが一方で、人間が善良ならなぜ差別や戦争で多くの人が苦しんできたのか、とも問いたくなる。人間は仲間には親切だとしても、敵とみなした者には残酷だ。加えてネットの匿名性は人を攻撃的にし、誹謗中傷に苦しむ人々を生む。これでも人の本質が善だといえるのか。確かにブレグマンが言うとおり、多くの人はあまり争いを好まないのかもしれない。しかしそれは他人の目がある状況下での話だ。匿名性によって人が攻撃的になるのなら、そちらが人の本性ではないのか?

こう考えたくなってしまうのは、1章で書かれている「ミーン・ワールド・シンドローム」が原因かもしれない。マスメディアが暗いニュースばかり流すので、人々は世界を実際より危険な世界だと信じるようになる。暴動や災害・テロ攻撃など、ニュースになる出来事は例外的なものばかりだが、これらにくり返し触れることで人々は悲観的になるのだという。人間の心理は良いことより悪いことに敏感だ。狩猟生活の時代には、クモや蛇を怖がる人のほうがそうでない人より生き残りやすかったからだ。人が性悪説に傾きがちなのは、それなりの理由がある。だとすれば、ブレグマンはこの本を書くことで、人の本能に抗おうとしているのだろうか。

 

たとえそれが例外的なことだとしても、人類がさまざまな悪行を積みかさねてきたのは事実だ。ごく少数の悪人だけが悪いことをしているのではない。夏目漱石が『こころ』の先生に語らせたとおり、「平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです」がこの世の真相だろう。本来善良なはずの人間が、なぜ悪を為してしまうのか。本書の下巻ではその理由が明かされるようだ。その理由を知ってなお、性善説を信じる気になれるだろうか。この先を読み進めるのが少々不安であり、楽しみでもある。

 

 

kindle unlimitedにようやく中公新書が登場……でも読めるのはまだ一冊(2023年1月26日現在)

2カ月99円のキャンペーンをやっていたので、今月6日からkindle unlimitedを利用している。このサービスはいろいろな新書が読み放題になるのが強みだが、残念ながら中公新書はまだ読めず……

と思っていたら、先日偶然読み放題対象になっている新書を発見した。

 

 

今のところ、中公新書で読み放題対象になっているのはこの一冊だけのようだ。今後もっと増えるのだろうか。『吉田松陰とその家族』は松陰の評伝としては読みやすい本だし、幕末史の専門家が書いているので内容も手堅い。当ブログでの書評はこちら。

 

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中公新書で読み放題入りを希望するなら、名著として知られる『ルワンダ中央銀行総裁日記』『アーロン収容所』『元禄御畳奉行の日記』あたりになるだろうか。中公は歴史系に強いので『物語〇〇の歴史』シリーズも個人的には入れてほしい。あまり新しい本は読み放題にはならないので『荘園』あたりはしばらく無理そうだ。

 

 

岩並新書はkindleunlimitedでは『独ソ戦』『流言のメディア史』『〈私〉時代のデモクラシー』など15冊以上が読み放題対象になっているので、中公新書もこれくらいは読めるようになることを期待したい。

 

 

 

なぜ水銀を飲むと不老不死になると信じられていたのか

水銀は毒物なのに、なぜか健康にいいなどとSNSで主張する人たちがいるらしい。ほとんどの人は相手にしない主張だが、かつて水銀の服用を推奨する書物『抱朴子』が、中国では広く読まれていた。この書物は道教の重要文献で、水銀を用いた「還丹」が神仙になるために必要と説いている。なぜ水銀を服用すれば不老不死になれると信じられたのか。神塚淑子道教思想10講』にはこう書かれている。

 

 

神仙になる方法として、葛洪が何よりも重要であると考えたのは、「還丹」と「金液」の服用である。還丹は丹砂(硫化水銀からなる鉱物)を熱して作ったもの、金液は金を液状にしたもので、環丹と金液を合わせて「金丹」という。(p65)

 

葛洪は『抱朴子』において、神仙になるためには水銀だけでなく、金を溶かしたものも飲む必要があると説いた。この両者の持つ性質が、不老不死になるために欠かせないと考えられていたからだ。

 

丹砂は、熱することでその色が朱色から白銀色へ、白銀色から朱色へという変化を繰り返すところから、そのようにして作られた丹薬は、還元の性質を持つと考えられた。一方、黄金は不変の性質を持つ。そこで、還丹金液を服用することで、人体はその還元・不変の性質を得ることができ、結果的に不老不死が実現できると考えられたのである。(P66)

 

葛洪の生きた四世紀の中国には、ある物質を体内に取り入れることで、その物質の性質を自分のものにできるという考えが存在した。このため、丹薬を服用すれば不老不死になれると信じられていた。しかし、実際には水銀化合物を含む丹薬は毒物なので、唐代には武宗のように丹薬を服用して命を落とす皇帝が出てしまった。このため、不老不死をめざす方法として、修練によって体内に丹をつくりだす「内丹」の法が盛んになっていく。

 

『抱朴子』が書かれたのが四世紀なのに、丹薬が毒になることが唐の時代まで知られていなかったのは不思議だ。材料の確保が難しいので、飲んだ人があまりいなかったのだろうか。唐は帝室が道教の祖とされる老子(李聃)と同じ姓を持っているため、道教を重んじていた。玄宗は鑑真の招聘を求める遣唐使に対し、道士を日本へ伴うことを求めた。使節はこれを断ったが、もし受け入れていれば日本に道教が広まっていたかもしれない。道教の神仙思想に覆われる古代日本がどんな文化を持つのか想像したくなるが、その場合は人々が丹薬で命を縮めるリスクも引き受けることになるから、やはり道教は受け入れなくて正解だったと考えたくなる。