明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

「風流天子」徽宗皇帝の野心とチベットへの軍事行動

 

 

宋の徽宗皇帝は、一般的には風流人のイメージがある。水滸伝における徽宗は、芸術好きでプロレベルの画才をもつが、政治に無関心なため高俅や蔡京などの奸臣に朝廷を牛耳られる「被害者」のようなキャラクターになっている。ところが実際の徽宗には、意外と野心家の一面があったようだ。岩並新書の中国史シリーズ『草原の制覇』には、徽宗チベットに向けて積極的な軍事作戦を展開していたことが記されている。

 

いったん旧法党が政権を握ると、それまでの新法政策を否定し、新しい版図の煕河路も放棄することとなった。しかし、その後哲宗が親政をはじめて、神宗の政策の継承を宣言すると、ふたたび対外積極策をとって青唐に侵攻し、1099年には湟水を遡って青唐城を占領する。つづいて徽宗趙佶(在位1100~25)の治世になって新法路線を継承すると、再度青唐への遠征軍が派遣される。1104年には青唐のチベット政権を滅ぼし、その故地に州県制が導入されることになった。(p140)

 

王安石のはじめた「新法」は富国強兵策で、北宋をかつての漢や唐のような強大な国家にすることが理想だった。このため積極的な対外政策をおこなうことになるが、強大な契丹と戦うのは現実的ではなく、まず西夏の打倒が目的になった。西夏を叩くにはその南側の青唐チベットに橋頭保を築く必要があるため、北宋は青唐チベット集団を攻撃目標に定めた。青唐チベット集団は、馬の調達先としても重要な意味を持っていた。北宋は馬の産地を契丹西夏に抑えられてしまっているため、青唐の確保はこの点からも必要不可欠だった。

 

ところが、徽宗の時代に青唐チベット政権を滅ぼしたことが、北宋滅亡の第一歩になってしまう。

 

契丹西夏との戦争では失敗続きだった北宋にとり、神宗から徽宗にかけての対青唐戦争は、対外戦争における初めての軍事的な成功となったのである。しかし、このときの成功体験は徽宗の野心に火をつけることになる。このあと女真(金)の勃興に直面した徽宗は、さらに積極策を推し進め、ついには契丹とのあいだの盟約を破棄し、未完だった中国統一の宿願をかなえようと、金と連携して幽州(燕京)を奪回する。ところが、これが遠因となって、最終的には靖康の変という亡国へとつながっていく。神宗以来の煕河路経略にはじまる対外積極策の採用は、北宋滅亡に至るユーラシア東方の激動をもたらす遠因となる一つの転換点であった。(p140)

 

建国以来、契丹西夏に圧迫され続けた北宋にとり、青唐チベットを打倒できたことは快挙だったに違いない。だがこの成功体験が亡国を招いてしまったというのだから、歴史は何が災いするかわからない。徽宗が中国統一の夢を見なければ、北宋はもう少し長持ちしたのだろうか。徽宗契丹と組んで金と戦っていたらどうなっていたのかと考えたくなる。だがこれはしょせん後付けの思考でしかない。燕雲十六州の回復は北宋建国以来の悲願であって、太宗はそのために親征して契丹に大敗している。先祖が代々願ってきたことを、徽宗だけが願わずにいられたとは思えない。軍事などとは無縁な風流人のようでいながら、やはり徽宗も時代の子だったということだろうか。

ネット上の誹謗中傷がどれだけ高くつくか教えてくれる漫画『しょせん他人事ですから ~とある弁護士の本音の仕事~』

 

 

1巻が無料になっているので読んでみた。ネットで誹謗中傷を受けた場合、被害者に何ができるのか、訴える場合手間やお金はどれくらいかかるのか……といったことを、わかりやすく教えてくれる内容だった。『しょせん他人事ですから ~とある弁護士の本音の仕事~』1巻の主人公はブログを運営している主婦で、「人妻風俗で働いている」などと根も葉もない噂を流されている。「こんな中傷をしている奴らがどんなダサい面をしてるのか見たい」という気持ちから、彼女は情報開示請求を行うと決意する。

 

開示請求にはそれなりに時間はかかる。このケースの場合、犯人側のプロバイダに情報開示請求をし、裁判をして情報開示を認めさせるまでに3~4か月かかると弁護士は話している。かなりの出費も覚悟しなくてはならない。開示請求の着手金に加え、まとめサイトの削除要請についての着手金、報酬金などで総額55万円かかっている。この先損害賠償請求などに進むとさらに出費がかさみ、漫画の中では結局100万円くらい必要になっている。

 

逆にいえば、これだけのコストを支払う覚悟があれば、誹謗中傷の犯人にかなりのダメージを負わせることもできる。この漫画のケースでは、主人公は加害者に350万円の慰謝料を請求していている(実際に取れる額はもっと低くなるが)。加害者が受けるのは経済的ダメージだけではない。家族との信頼関係や隣近所との交友にもひびは入る。この漫画の犯人は徹底的に追い詰められているわけではないが、これが現実なら離婚にまで至る可能性もある。遊び気分で中傷コメントを書いた代償は、高くつく。

 

この漫画でリアルだと感じるのは、加害者が大して反省しないことだ。自分で中傷しておきながら、やったのは自分だけではないと責任転嫁する。大勢が誹謗しているから、それだけ自分の責任も軽いと思い込んでしまっている。この漫画は「できるだけリアルなものにしたい」というコンセプトで描かれているとのことなので、実際こういう加害者は多いのだろう。ツイッターなどでも、有名人から開示請求をくらって「どうしてこんなひどいことをするんだ」と被害者意識全開で騒ぎたてる人を、時おり見かける。悪いことをした自覚がない人が反省するはずもない。

 

この漫画で描かれているとおり、多くの場合、加害者は後悔はしても反省などはしないようだ。ならこういう漫画を読んで、後悔を先に立ててもらえばネットの中傷も減るのだろうか。道徳で人を動かせないなら、頼りになるのは法律しかない。自分自身への戒めとしても、こうした作品で法律の怖さを知っておくことは大事だ。人の心ほど当てにならないものはないし、自分は絶対に加害者側にはならないと断言できない以上、加害者の負うリスクをあらかじめ経験しておくことには意味がある。

白起の最後の台詞と史記の因果応報論

 

 

陳舜臣『中国の歴史』2巻を読み返している。この巻は諸子百家の活躍や始皇帝の中国統一、項羽と劉邦の対決、漢と匈奴の戦いなど古代中国史のハイライトを描いているので、読みどころが多い。なかでも強く私の記憶に残っているのは、秦随一の名将・白起の運命について書いた個所だ。この巻では、白起の最後の台詞とされるものが紹介されている。

我、固より当に死すべし。長平の戦に趙の卒の降れる者数十万、我、詐りて尽く之を坑したり。是れ死するに足る。

長平の戦いにおいて、白起は降伏した趙の兵卒四十五万人を穴埋めにした。趙兵がいつ裏切るかわからないと判断したからである。赫々たる武勲をあげながら秦王の怒りを買い、自決を迫られたのは、この罪のためである──と、彼はみずからに言い聞かせたのだ。

 

この白起の台詞について、陳舜臣は『まだ仏教が到来する前の時代ですが、宗教観というよりは、倫理観としての「因果応報」の思想はありました』と解説している。白起は多くの戦いで巨大な戦功を立て、武安君に封じられるほどの権勢を誇った。だがやがて彼は戦争の方針について昭王と対立するようになり、最終的には自決させられることになってしまった。死の直前、白起はこの因果応報論にもとづき、自分には死ぬべき理由があるのと考えたのだ。

 

長平の戦いは、戦国七雄の中で秦が抜きんでた存在になることを決定づけた戦いといわれる。かなり激しい戦いだったようだ。そうはいっても、この戦いで四十五万人もの趙兵が失われたとは信じがたい。しかし、白起が悔いているくらいだから、やはりかなりの数の兵士が殺されたのだろう。死の直前になって、白起が自分が死すべき理由としてこの戦いを想起するのは、それだけ悲惨な戦いだったからだ。少なくとも白起自身はそう認識していた。

 

因果応報論はひとつの物語である。死を目前にした白起は、そんな結末を迎える理由を長平の戦いに求めたが、実際はどうだったのか。この本における陳舜臣の推測はこうだ。

武安君に封じられて以来、白起の権勢が強くなりすぎたのでしょう。軍隊を掌握している大功臣は、君主にとっては気になる存在です。しかも、在位五十年に及ぶ昭王は、かなりの高齢でした。自分の在位中は、白起をおさえる自信はあったでしょう。けれども、自分亡きあとのことを考えると、不安をかんじたはずです。帝王教育を施した長男の太子が死に、次男の安国君がくりあえられました。この安国君は正式に即位して三日で死にましたが、まえから病弱であったのかもしれません。軍隊をうごかす力をもつ大物を、いまのうちに消しておけば、いくらか安心できるでしょう。白起の哀れな死の真因は、おそらくこのあたりにあるとおもわれます。(p210)

つまり白起は秦の王権を安定させるため排除された、というのである。これもひとつの物語ではあるが、「長平の戦いで多くの兵士を殺したから」よりはずっと説得力がある。もっとも白起には、自分が秦の脅威になっている自覚はあったかもしれない。そうだとしても、白起にとっては「長平の戦いで多くの兵士を死なせたから死ぬのだ」のほうが、より受け入れやすい結論だっただろう。長年昭王に仕え、彼のため力を尽くしたのに、その昭王に邪魔にされているなどとは、白起は考えたくなかったのではないか。

 

陳舜臣は、この白起の最期に学んだのが王翦だ、と推測している。王翦は白起と並び称される名将だが、立ち回りは白起よりはるかに慎重だった。楚に出兵する前、六十万の大軍を与えられた王翦始皇帝に野心を疑われないよう、美田や邸宅を賜りたいと願い、小人物と思われるよう腐心した。これが功を奏したのか、王翦始皇帝に猜疑心を向けられることはなく、天寿を全うすることができた。

この王翦に対し、司馬遷の評は手厳しい。始皇帝に師と仰がれたのに徳治をすすめることもなく、ただ調子をあわせるだけだったから孫の王離は項羽の虜にされたのだ、というのだ。ここにも古代中国の因果応報論が顔を出している。陳舜臣はこの司馬遷の評価は「いささか酷」だとしている。始皇帝に調子を合わせたからこそ、王翦は生きながらえることができたのだから。ただ生きるより正しく生きることが大事なのだと言われても、その正しい生き方が報われるとも限らない。だからこそ司馬遷は伯夷叔斉伝を史記列伝の最初に置き、天道是か非か、と問うた。仏教が独自の論理で司馬遷のこの問いに答えるのは、東晋の時代に入ってからのことになる。

 

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ツッコミ過多の社会では「なんもしない」人の価値が高まる『レンタルなんもしない人の"もっと"なんもしなかった話』

 

 

マキタスポーツ氏が『一億総ツッコミ社会』で、誰もがプチ評論家と化した世の中の息苦しさを分析したのは2012年のことだ。あれから11年が経ち、令和の日本ではますます社会の総ツッコミ化が加速しているように思える。SNSではいつもどこかで火の手が上がり、誰かの発言が燃えている。私も含めて、常時誰かが誰かを論評し、批判し、ジャッジしている。それはマスコミにしか発信力がなかった時代よりはいい社会なのだろう。誰にでも発言権があるのはいいことだ。だが個人のツッコミはいつでも強者や巨悪に向かうわけではなく、大した落ち度もない一個人へ過剰に向けられることもある。発言の自由は、誰かに燃やされるリスクと隣り合わせになった。

 

こんな時代に価値を持つのは、どんな人なのか。もちろん、デマやフェイクニュースに的確に突っ込む人は必要だ。だが一方で、一切こちらを批判せず、ツッコミも入れず、ジャッジを下さないでいてくれる人がいたら、かなり安心できるのではないだろうか。何かを積極的になす人だけに、価値があるわけではない。かんたんに人を叩ける時代には、それを一切しない人にも価値が出てくる。『レンタルなんもしない人の"もっと"なんもしなかった話』を読むと、「余計なことを一切してこない人が、ただそこにいる」だけのことにどれほどの需要があるのかがわかる。ツッコミ過多の社会において、余計なことを「なんもしない」人のありがたさを、「レンタルなんもしない人」(通称レンタルさん)をレンタルする人たちは味わっているようだ。

 

実際のところ、レンタルさんは本当に「なんもしない」わけではない。『レンタルなんもしない人の"もっと"なんもしなかった話』に出てくる依頼はさまざまで、彼は人に言えない話を聞いたり、ポケモンGOに同行したり、ジンギスカンの食べ放題に付き合ったりしている。あまり積極的なことはしないが、頼まれたことはやるのだ。ただそれ以外は本当に「なんもしない」。彼のような人相手だと、風俗で働いていてストレスを感じている人も、心穏やかに話ができるそうだ。なにしろレンタルさんは余計なアドバイスも上から目線の説教も一切「なんもしない」ので、言いにくいことも安心して吐き出せるらしい。

 

この本で、レンタルさんは自分のことを「全然善良ではなくむしろクズと言われるほうが多いです」と書いている。そういう人だから、いろいろな人の話をただ聞くことができるのだろう。立派な人ほど「人はこう生きるべき」という確固たる規範意識を持っていて、ついそれを人に押しつけたくなる。そうなると、とたんに人は心を閉ざす。「かくあるべし」が何もない人は、あらゆる人に対してフラットだ。手作り料理を食べてほしいというわりと普通の依頼も、複数の人格の相手をしてほしいというヘビーな依頼も、この本ではただこんなことがあった、と淡々と記されるだけだ。レンタルさんは「共感能力が乏しい」といっているが、だから依頼者に過剰に思い入れることもないのだろうか。さまざまな生きづらさを抱えた人からの依頼もけっこうあるようだし、依頼者にいちいち同情していたら、心がいくつあっても足りないのだろう。やはりこの仕事は立派な人には向かないようだ。

 

この『レンタルなんもしない人の"もっと"なんもしなかった話』を読んでいて思うのは、どこまで行っても人は社会的動物だ、ということだ。どれだけお一人様が増え、日本社会がソロ化しているとはいっても、時には誰かと一緒にいたくなるのが人間だ。この本に出てくる依頼には、何かするところを見守ってほしい、というものが多い。断捨離もミカンの収穫も野外での虫取りも、一人でしようとすればできる。でもこれを見守ってほしい人たちがいる。やはり一人はさびしい。でもやたらと干渉してくる人と一緒にいるのもしんどい。一人でいるときの気楽さと、誰かが一緒にいてくれる安心感という、一見矛盾する感情を同時に満たしてくれるのは「なんもしない」人だけだ。人間関係のわずらわしさを極限まで排した特異な関係性を築くことが、「レンタルなんもしない人」独自の強みといえるだろうか。実際、レンタルさんには依頼者からこんなDMが届いているそうだ。

一人で静かに考えたり現実から解放される時間が今の自分には重要だということがわかりました。一人だけど一人じゃない、一人にさせてくれる自分のための他人がいることはとても贅沢だと思いました。(p93)

【書評】まるで見てきたように古代アテネの一日を再現する一冊『古代ギリシア人の24時間 よみがえる栄光のアテネ』

 

歴史本のジャンルではここ最近、生活史を扱った本が増えてきた。この『古代ギリシア人の24時間 よみがえる栄光のアテネ古代ギリシア人の生活に光を当てたもので、出てくるのは神殿の衛兵や壺絵師・魚屋・伝令・重装歩兵など、多くは無名な人々だ。本書ではこれらアテネのごく普通の人々24人の目を通して、一時間ごとに古代アテネの情景をリアルに浮かび上がらせる。時代は紀元前416年、ディオニュシア演劇祭の直前。この時期のアテネにはソクラテスプラトンアリストパネス、トゥキュディデス、ペイディアス、ヒポクラテスなど各界の天才たちが勢ぞろいしていて、彼らも本書のところどころに顔を出す。これらの人物が生き、「人類史上最高の天才密度」を誇った時代のアテネの空気を、本書は存分に味あわせてくれる。

 

アテネ人は肉体の鍛錬に力を入れている。市民は自分が兵士となって戦わねばならないからだ。というわけで、アテネ人は少年時代からギュムナシオン(体育学校)に通わされる。昼の第二時(午前7時)にはこのギュムナシオンでレスリング教師が生徒を訓練する様子が描かれる。この章で教師が稽古をつける相手は、なんと少年時代のプラトンだ。プラトンは12歳の時点で大人に近い背丈があり、腕力にも技にも秀でた肉体派だった。教師のアリストンはプラトンと互角に戦える少年がいないので、準備運動でけが人が出ないよう、わざとプラトンと組むはずの少年を砂袋と戦わせたりしている。アリストン当人がプラトンと組まないのは、少年愛の盛んだったアテネでは誤解を招くという事情からだ。レスリング教師とはさまざまなことに気を使わなくてはいけない職業だったらしい。

 

アテネの活気を味わうには市場の様子を見るのがいい。昼の第3時(午前8時)には、アゴラに多くの露店が並び、多くの観光客でにぎわう光景が楽しめる。この章の主人公は魚屋のアルケスティスだが、ここでは彼女がソクラテスと言葉を交わす一幕もある。「私には必要ないものが世の中にはたくさんある」とソクラテスは驚くが、アルケスティスの店で売っているのはメッセネのウナギのような高級品だ。ソクラテスはそんなものは口にしないというわけだ。アテネでは魚の好みで互いを値踏みし合うという蘊蓄がここで語られる。カタクチイワシのような小魚は財力のない人が食べるものとみなされているが、ソクラテスは気にせず食べていたそうだ。世間体になど頓着しないのが真の哲学者なのだろうか。

 

古代アテネといえば民主政だが、昼の第7時(午前12時)には評議会員同士が会話をかわす様子を見ることができる。昼食中に話しているのは名門貴族のクリティアスと重装歩兵階級のネリキオスだが、クリティアスの発言はなかなかに過激だ。彼は貴族なので民主政に批判的で、無知な民衆を「人間のくず」とこきおろす。そして民主政を擁護するネリキオスは「あなたが悪い政府と呼んでおられる政府は、民衆の力と自由の源泉だ」とやりかえす。アテネ市民の矜持が詰まった台詞だ。のちにスパルタの手先となり、アテネに貴族政をしくクリティアスにとっては、このように民衆が力を持っている現状が我慢ならない。民衆どころか、奴隷にすら力を持っている者がいる。「ここの奴隷どもは、主人以外の市民と自分は対等だと思っている」とクリティアスはこぼしているが、アテネでは奴隷でも強請りや盗難から保護される。奴隷でも裕福になれるからだ。このように、評議員の愚痴からもアテネ社会の一面をかいま見ることもできる。

 

夜の第六時(午後11時)ともなると、アテネではシュンポシオン(饗宴)もたけなわとなる。この章の主人公アリアドネはジャグリングや剣舞を披露し、宴に華を添えるが、ここにもソクラテスが顔を出す。なんでも哲学の素材にしないと気がすまないソクラテスは、アリアドネの踊りを見て「勇気とは訓練の賜物であり、教育によって身につく」と自説を展開したりする。舞踏は全身運動だから足を鍛えられないボクシングよりいいのだとも言いだすし、なかなか面倒そうな印象があるソクラテスなのだが、無言劇を演じるよう座長に提案して場を盛り上げたりもしている。アリアドネもこの要請に応じ、自分と同じ名の王女アリアドネをその場で演じているが、すぐに神話劇を演じられる人材がいるところはいかにも古代ギリシアらしい。それくらい即興でできなければ饗宴の場には呼ばれないということだろうか。

 

これらの人物のほか、本書には女魔術師や鉱山奴隷・高級娼婦・スパルタのスパイなど多彩な人物が登場し、さまざまな角度から古代アテネの姿を照らし出してくれる。興味が向いた人物の章だけ読んでもいいし、最初から時系列順に読んでも楽しめる。『古代中国の24時間』などと同様、庶民目線からみた歴史の面白さが十分に味わえる一冊なので、古代ギリシアに少しでも関心のある方はぜひ手に取ってみてほしい。

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行動ダイアリーをつけてみたら読書量がかなり増え、日々の充実感もアップした

最近、余暇の時間に何をしても充実感を感じられない日々が続いていた。状況を打開するため、「行動ダイアリー」をつけ始めた。行動ダイアリーとは認知行動療法創始者アーロン・ベックの考案したもので、実践方法は簡単。日々の行動について、1時間ごとに「達成感」「喜び」を10点満点で記録していくだけ。これを続けるだけで、どんな行動をすれば満足できるのかがわかり、無駄な行動を省いて充実度の高い行動を積極的に選んでいくことができるようになる。

何に充実度を感じるか、案外自分でわかっていない

ここ数年、読書傾向が新書や学術書にかなり偏っていた。行動ダイアリーでこれらの本を読む達成感と喜びを評価してみると、それぞれ5点くらいになることがわかった。対して小説を読んだ場合、達成感や喜びは少なくとも7点くらいにはなる。小説は読者を楽しませるものだから当然といえば当然だが、その当然のことが案外わかっていなかったりする。小説がもたらす喜びが大きいことがわかったので、結果として小説の読書量がかなり増え、積んでいた本もかなり減らすことができた。

このダイアリーをつける以前は、「新書は小説と違ってストーリーを全部追わなければいけないわけではないから、読むのが楽」だと思い込んでいた。だが新書には難しいものもあり、苦手なジャンルだと小説より読みにくい。知識を吸収する楽しみがあるといえばあるが、新書は読者をもてなすものではないので、小説より読む喜びが少ない。もっとも、これは読者にもよるだろう。知識を増やすことがストーリーを追うより楽しい人もいるに違いない。いずれにせよ、自分がどんなタイプかは行動ダイアリーをつければはっきりする。

紙の本と電子書籍を読む行為もそれぞれ評価してみた。すると、どちらも喜びは大差ないことがわかった。私は長いこと紙の本派で、電子書籍は手に取って読めないからダメだと思っていたが、実は電子書籍は慣れれば読みやすい。いつのまにか電子書籍も楽しめる身体になっていたようだ。このように、行動ダイアリーで変な先入観を取りのぞくこともできる。

ウォーキングは楽しいか?

ウォーキングは達成感がそこそこ高いが、喜びは歩いた時間によって変わることがわかった。天気がよい日に30分くらい歩くなら喜びは7点くらいになる。雪が降っている日に1時間ほど歩くと達成感は高くなっても、疲れるので喜びは5点くらいに下がってしまう。運動するのは健康のためで楽しむためではないから喜びは重視しなくていいかもしれないが、楽しさの低い行為はやる気にならないので、ここが低くなり過ぎないように時間を調整する必要はあるかもしれない。

ブログを書くのは達成感も喜びも大きい

書く内容にもよるが、ブログを書くのは達成感を味わえるし、案外喜びも得られる。一般的に、受動的に動画を見たり音楽を聴いたりするより、何かをアウトプットするほうが達成感は高くなるようだ。記事を書くことで喜びも得られるのは、考えがまとまっていくのが楽しいからだろうか。とにかく、ブログを書くのは思っていたよりも喜びが得られる行為だとわかったので、今後はもっと積極的に書けるかもしれない。

ブログ記事を書いた時点で達成感も喜びも得られるなら、読まれるかどうかを気にする必要はないことになる。たくさん読まれたらもっと喜びが増えるだろうが、それはおまけみたいなものだと考えればいい。行動ダイアリーにはこういうことに気づけるメリットもある。

ゲームは達成感が少ないが、Slay the Spireだけは別

あくまで自分の場合だが、ゲームは喜びは得られても、達成感はそれほど得られない。ゲームは映画や動画にくらべれば積極的に取り組まなければいけないが、それでもただ遊んでいるだけなので、あまり何かした気になれないのだろう。

 

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だが、カードゲームの名作Slay the Spireだけは別だ。このゲームをプレイするのは達成感も喜びも高い。頭を使った気になっているせいだろうか。いや、事実いろいろと考えてはいるのかもしれないが、それにしたってこれはただの遊びだ。でも、うまくデッキが組めて爽快なコンボを決められたら格別の達成感が味わえる。これはパズルを解いている感覚に近いのかもしれない。だとすれば、同様に頭を使って何かを達成する行為は多くの達成感と喜びをもたらすはずだ。似たようなゲームを買うのもいいかもしれないが、行動ダイアリーをつけたらよけいにゲームばっかり遊ぶようになりました……となるのも何なので、もっと別の生産的な行為がないかを考えたい。

 

読書は能動的行為?

行動ダイアリーをつけてみると、一般的に受動的な趣味では達成感が低くなる。自分の場合、とくにYouTubeの視聴は達成感が低かった。動画は何もしなくても勝手に流れていくからだろう。ドラマやアニメなどでもそれほど達成感は味わえない。一方、読書、特に小説を読んだ場合は達成感もけっこう高くなる。能動的に読まないといけないせいだろうか。同じストーリーを楽しむものでも、個人的にはマンガより小説のほうが達成感が高いが、これは小説のほうが読むのに時間がかかり、「やりきった感」があるせいかもしれない。やはりある程度はハードルの高い行動のほうが、達成感は得られやすいようだ。

このように行動をいちいち点数で評価してみると、ハードルの高い行為でも手をつけやすくなる。楽しみが得られることがわかっているからだ。逆に、なんとなくやっているが喜びが少ない行為も減らせる。YouTubeの視聴は喜びが少ないのになんとなくやってしまっていたが、これは始めるハードルが低すぎるせいだ。だが大して楽しくないことをあらかじめ知っていれば、もっと喜びの多い行動に変えることもできる。この記事も、ブログを書くことで得られる達成感や喜びが大きいことがわかったから書けているところがある。一度行動ダイアリーをつけ始めると、行動を評価するためにいろいろなことをしたくなるので、なんとなく日々にマンネリを感じている方は一度試してみてもいいかもしれない。

有名人には有名税があり、無名な人には無名控除がある

はてなブックマークの話題が一部で盛んになっている。私もこの話題に一枚嚙もうかと思ったが、よくよく考えると自分にはあまり関係ないことに気づいた。何人かのブロガーはこの件でブックマーカーを批判しているが、それは彼らが有名で、ブックマーカーに叩かれる側だからだ。私のような無名ブロガーのところに、あまりブックマーカーはやってこない。だから普段はブックマークのことなんてまるで意識していない。

 

おまえは便所の落書きのつもりでブコメを書いているのかも知れないが、その便所の落書きには受け取り人がいるんだよネットでは - 自意識高い系男子

私は有名でないからブックマーカーのことはあまり考える必要はないけれども、好きなことや楽しいことをメインに書くことが結果的に自衛策になっている気はする。変なコメントする人は争いの匂いに寄ってくるので。

2023/02/28 21:45

b.hatena.ne.jp

はてなブックマークに関して、考えていることはこれくらいだ。好きなことを書くのが自衛策だ、とは言ったものの、実は差別やジェンダーなどのデリケートな問題について書いても(あまりやらないが)、私のような無名ブロガーだと炎上しないことが多い。別に書き方がすぐれているからではなく、単に見つかっていないだけだ。無名であることのメリットは、実はけっこうたくさんある。炎上しにくいだけでなく、以前の発言との整合性を問われることもないし、「あなたがそんなことを言う人とは思わなかった」などと失望されることもない。もともと何も期待されていないからだ。有名人に有名税があるとするなら、こうした無名であることのメリットは「無名控除」とでも呼んだらいいだろうか。

 

もちろん、無名だから何をしても許されるわけではない。明らかに間違ったことを言っていたり、差別的な発言をしていたら、知名度とは無関係に批判され得る。私自身、ツイッターザッハトルテについての雑学を投稿したらそれが間違っていたらしく、専門家らしい人から突っ込まれたことがある。こんなときは反省する一方で、「オーストリア政府観光局からハフポストまで皆同じことを言っているのに、なぜ無名な私に突っ込むんだ」という気持ちが出てきたりする。普段はなんの影響力もないから、無名控除を受けることに慣れきっているのだ。有名ブロガーに反論されて狼狽するブックマーカーにも似たようなところはあるかもしれない。「無名だから見逃してくれ」なんて言い分は何も正しくないが、気持ちはわからなくもない。日頃は路傍の石扱いなんだから一貫して無視してくれよ、と思ってしまうことが、人間にはある。

 

無名控除は明らかな誹謗中傷やデマ、差別的発言には適用されないし、されてもいけない。だが逆にいえば、そこさえ避ければ無名控除の恩恵はじゅうぶん受けられる。家族や同僚には言えないお気持ちをネット空間で吐露しても、推しへの愛を叫んだとしても、無名ならほとんど相手にはされないし、恥ずかしい思いもしなくてすむ。どうせ誰も見てないのだから、肩の力を抜いて気楽に書いたらいい。そうして書かれた文章は変に装っていないだけに、かえって特定の誰かに届くことがある。それがいつかはわからないし、いつまでも届かないかもしれない。それはそれでいい。誰にも振り向かれない気楽さは、無名な人だけが味わえる特権だ。

 

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