明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

ウクライナに直接千羽鶴を送った人はいなかったらしい(ロザンの部屋の感想)

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ロザンの二人が「ウクライナに折り鶴」の件について語っているのをきのう知った。この動画で宇治原史規が語っているところによると、戦地のウクライナに直接折り鶴を送ろうとした人は確認できなかったそうだ。「ウクライナに折り鶴」議論のスタート地点は、障害者就労移行支援施設の利用者がウクライナ大使館へ折り鶴を送ろうとしたという話で、これも実行はされていない。なのに多くの人が「戦地に役にも立たないものを送りつけようとした人がいる」という前提で議論している。以下の記事でもこの点を指摘している。

 

news.yahoo.co.jp

 

送り先がウクライナ大使館でも、やっぱり折り鶴は送らないほうがいい、という意見はありうる。現にロザンの動画のコメントでもそうした意見は多く見かける。いっぽうで、大使館にだったら送ってもいいのでは、という意見も少なくない。どちらが正しいにせよ、ウクライナに直接送るのと、大使館に折り鶴を贈るのとでは印象がかなり変わってくる。先の動画で宇治原史規は「ウクライナ大使館の人は日本文化にくわしいだろうし、折り鶴をもらったら嬉しいもしれない」と話している。送り先がウクライナならこうした意見は出てきようがない。

 

いつから「折り鶴を戦地に送る人」などいういもしない人が叩かれ始めたのか、とロザンの二人は首を傾げている。ネットの伝言ゲームで情報がねじ曲がっていくのはよくあることだが、なぜこの方向にずれていったのか。ロザンの動画のコメントでは「折り鶴は当人に直接渡す印象が強すぎるから」という指摘がある。そうかもしれない。加えて、東日本大震災のイメージがある。被災地に折り鶴が大量に送られてきて処分に困った、といった話を多くの人が耳にしている。このイメージが現代に重ねられ、「戦地に折り鶴を送る困った人」という虚像がつくりだされた可能性はある。だが、あまり心のきれいでない私は、もっと別の可能性を考えてしまう。「戦地に役にも立たないものを送りつける愚か者」の存在を、じつは我々自身が待ち望んでいたのではないか。

 

最近、カルト的な反ワクチン団体のニュースをよく目にするようになった。ワクチン接種は人口削減が目的だとか、爬虫類型の生命体が人に擬態しているだとか、その主張はあまりに荒唐無稽だ。いい年をした男女が光の戦士を自称し、自分たちだけがこの世の真実に目覚めていると叫ぶさまは、多くの人々の失笑を買っている。そうした面があるからこそ、この団体はニュースになる価値がある。「愚か者を指さして笑いたい」という潜在的願望にこたえてくれる存在だからだ。陰謀論者は笑われるだけの理由はあるが、見下せる相手がほしい、愚か者を笑って憂さを晴らしたいという気持ちは、事実を都合のいい方向にゆがめることもある。ウクライナ大使館に折り鶴を送ろうとした人がいる、では叩く対象としてはちょっとインパクトが足りない。戦地のウクライナに折り鶴を送ろうとした人がいる、のほうがより不適切な印象になる。水も食料も足りないなかこんなものを送られる側の気持ちにもなれ、と叩く正当性が出てくる。「ウクライナに折り鶴を送りつける人」は、「安全に笑える愚か者」や「叩けば正しさポイントが稼げる対象」が存在してほしい、という願望のつくりだした幻だったかもしれない。

性善説と性悪説、どっちで生きるのが得?下園公太『寛容力のコツ──ささいなことで怒らない、ちょっとしたことで傷つかない』

 

 

萱野稔人『名著ではじめる哲学入門』によると、20世紀以降の哲学では性善説的な考えが優勢になっているそうだ。ヒューマニズムが浸透したのがその理由のひとつとのことだが、これはあくまで哲学の世界の話だ。市井の人々は性善説を信じているだろうか。野菜の無人販売所は世界中にあるが、人の善意を前提にしないと、こんなものは運営できない。いっぽうで、ネットの世界はデマや誹謗中傷であふれかえっている。人の本質が善か悪か、かんたんには決められそうにない。

 

ただ、性善説性悪説どちらを採用するのが得か、には答えが出ているようだ。ツイッターの人気アカウント「ぱやぱやくん」が尊敬する元自衛隊のメンタル教官・下園公太氏によれば、性善説で物事をとらえる方が人に寛容になれ、生きやすくもなるのだという。

 

あなたは、性善説性悪説、どちらの立場でしょうか?

どちらが正解・不正解というわけではありませんし、人の考え方や価値観はそれぞれですから、どちらであってもいいと思います。

しかし、本書のテーマに引きつけていえば、性善説」で物事をとらえるほうがさまざまな意味から寛容力を高くする作用があると思います。

性悪説」の人は、猜疑心と警戒心が強いため、いつも緊張しています。緊張しているということはエネルギーを消耗させているということですから、疲れています。疲れは寛容力を下げる直接的な原因である、ということは、これまでも繰り返し述べてきたとおりです。

たとえば、新卒で社会にはじめて出たり、転職してこれまでとはまったく違う環境に身を置くことになったりしたとき、誰でも大きなストレスを抱えますが、性善説」の人は、こういうピンチのときに、人に「助けて」と頼ることができます。そして、実際に手を差しのべてもらえるのです。(『寛容力のコツ』p97より)

 

なぜ性善説の人が助けてもらえるのかは書かれていないが、おそらくこういうことだろう。性善説の人は人を信じやすく、ふだんから友好的に他者に接する。多くの人に親切にしているから、いざという時に助けてもらいやすい。「人は信じられる」という考えにもとづいて行動した結果、予言の自己成就のようなことが起きているわけだ。性悪説の人は人に頼れないので、この逆の結果になってしまう。

 

とはいえ、性悪説の人も好きでそうなっているわけではない。下園氏はこの本で、現代は性悪説に傾きやすい社会だ、と書いている。人に譲るより権利を主張する人が増え、ネットで人の悪意を数多く目にする世の中になった。性悪説の人が考えを変えるのは簡単ではないが、ネットから距離を置くのは有効そうだ。実際、『寛容力のコツ』でも、ネットが心を不安定にするリスクを強調している。ウェブの毒に吞まれないためには、夜九時以降はネットを見ないなどのルールを設けるのがいいそうだ。やはりデジタルデトックスはしたほうがいいのだろうか。

 

saavedra.hatenablog.com

『「幸せ」について知っておきたい5つのこと』では、無作為に人に親切にすることが幸福感を高めると書かれている。これは脳科学や心理学などの知見から得られた結論だ。科学も性善説で生きることを支持しているらしい。ある程度性善説的な考えを持っていないと、親切にはできないからだ。性悪説で生きると、「こちらの親切心につけこむ輩が出てくる」などと考えてしまい、親切にはしにくくなる。確かにテイカー(自分の利益のためだけに人から奪おうとする人)には気をつける必要がある。だが世の中テイカーだけでできているわけではないし、多くの場合、親切には親切なり感謝なりが返ってくる。相手がこちらの親切心を搾取するばかりだったら、付き合いをやめればいい。

 

 

もっとも、人を信じる、親切にするといっても、余力がなければできない。日本はもともと高ストレス社会であるうえ、今はそこにコロナ禍が重なっている。人を信じたくても、その余裕が持てない。だからこそ下園氏のように、心の重荷を下ろすカウンセラーが仕事として成り立っている。性善説で生きるためにまず自分をケアするところから始めなければいけないとするなら、なかなか難儀な話ではある。

「表現の自由」などとっくになくなっていた令和日本

 

 

安田峰俊氏の『みんなのユニバーサル文章術 今すぐ役に立つ「最強」の日本語ライティングの世界』を読んだ。1記事2000万PVを叩き出した実績のある著者の本だけに、さすがにわかりやすい。安田氏が説く「プロの日本語」の書き方は超実践的で具体的、精神論は一切ない。句読点の打ち方から改行の仕方、無駄な文章のダイエット法、漢字をひらく方法まで網羅する親切設計で、これを実践できれば文章が格段に読みやすくなることは間違いない。そのうえビジネスメールの書き方やマッチングアプリのプロフ作成法・バズる記事の書き方まで教えてくれるので至れり尽くせりだ。これで1,100円(税別)ならコスパはかなり高い。ウェブで文章を書くすべての人におすすめしたい快著だ。

 

そんなお得な『ユニバーサル文章術』だが、ちょっと気になる箇所がある。この本の8章によると、令和日本の文章術には「表現の自由」がないというのだ。炎上するアニメやマンガの広告の話だろうか、と思ったら、もっと広いジャンルの話だった。安田氏はこの本のなかで、ネット炎上を研究している山口真一氏を紹介している。山口氏の考える炎上しやすい話題は以下の3つだ。

 

1.格差を感じさせる内容:食べ物、社会保障、所得格差など

2.熱心な人がいる話題:政治・戦争・自衛隊や他国の軍・皇室・宗教・ファンの多いコンテンツやスポーツなど

3.型にはめようとする話題:性別による役割分担など

 

アニメやマンガなどがジェンダー専門家に批判されるケースは3に該当する。専門家はしばしば「この作品のキャラクターはジェンダーステレオタイプ的な描写をされている」などと指摘する。つまり性別の型にはめられているということだ。以前はこうした指摘により、作品側が炎上することが多かった。だが最近はこれらの発言が、批判された作品のファンから逆に炎上させられることも多い。とにかくジェンダーの話題がネットの火薬庫であることは確かだ。誰もが自由に男女論について語れる空気はない。

 

 

だが、「表現の自由」はアニメやマンガだけの問題ではない。政治や戦争などもデリケートな話題であって、語り方次第では多くのバッシングを浴びるリスクもある。国際政治学者の細谷雄一氏も、そんな圧力を日々感じているようだ。有名アカウントとして政治と戦争双方について語り続けるのは、かなりのストレスなのだろう。細谷氏は周囲の人に恵まれているのでツイッターを続けられているそうだが、そうでないために発言をやめてしまった人もいるはずだ。政治や戦争を語る「表現の自由」は、環境に恵まれた人、メンタルの強い人だけのものになってしまったのかもしれない。

 

もっとも、私のように無名なアカウントが戦争について的外れなことを言ったところで、それほどバッシングを受けることもないだろう。ジェンダーの話題だって、要は差別的なことを言わなけれいいだけだろう、なにも難しいことはない、と思われるかもしれない。だが事はそう簡単ではない。誰も差別したつもりもなく、ポジティブなことしか言っていなくても、炎上するリスクはあるのだ。安田氏はこんな例をあげている。

 

男性が公の場で家事・出産・育児に言及する行為もリスクが高い。たとえ「今日は妻のためにカレーを作りました」「子供にミルクをあげたよ」といったポジティブな内容でも、「今日しか食事をつくらないのか」「いつも妻がおこなっているのにミルクぐらいでいばるな」など、怒りっぽい誰かによる理不尽な攻撃を誘発する可能性がある。(p285)

 

この例にはすごく既視感がある。似たような炎上例を私も何度も見たことがある。難しいのは、安田氏も指摘するとおり、これらの批判は一定の正しさを含んでいることだ。こうした女性側の批判から男性がなんらかの気づきを得ることはありえるだろうし、何より女性側にも批判する自由がある。育児中のパパは優しく見守ってあげて、などといったら、今度は女性側の表現の自由を奪うことになりかねない。かつては女性側が抑圧されていたのだから、今度はこちらが批判するターンだといわれたら、正面切って反論するのはむずかしいだろう。

 

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だが、問題はその批判の数なのだ。「炎上」と呼べるほどに多数の批判が集まれば、批判された側は心が折れる。あるいは反発する。炎上させられた側が非を認めていて反省していた場合でも、バッシングがあまりにひどければ反撃したくなる。反撃すればさらにバッシングが集中する悪循環が生じ、炎上ブルースは加速していく。この流れが、上記のエントリではていねいに解説されている。叩かれる側にも非はあるとしても、犯した罪と受ける制裁の量があまりにアンバランスだ。安田氏も炎上について、集団で行使される社会的制裁が明らかに「やりすぎ」だと書いている。嘆かわしい状況だが、起きてしまった炎上はコントロールできない。なら、はじめから炎上を避けるしかない。燃えそうな話題には言及しなければいいのだ。

 

こうした事情を踏まえたうえで「炎上」の回避術を述べるなら、いちばんいい方法は「センシティブな話題には絶対に触れない」ことだ。

政治やジェンダーの話題は、たとえ肯定的な言説であっても発言しない。ウェブ上で私生活や個人情報を開示する行為も、できるだけおこなわない。

身の安全を守るために、責任感ある大人が危ない行動をしないことは決して恥ではない。登山経験が浅い人が真冬の槍ヶ岳に軽装備で登ったり、英語ができない人が深夜に一人でニューヨークの地下鉄に乗ったりしてはいけないのと同じだ。(p287)

 

太字の部分は私ではなく安田氏が強調しているものなので、よほど強く伝えたいのだろう。ネットでは政治やジェンダーの話題は、真冬の槍ヶ岳なみに危険なものになってしまったようだ。もっとも安田氏は炎上を恐れて自分の表現を委縮させるのもバカバカしい、とも書いている。どうしても書きたいなら、リスクを恐れず書くしかないのだ。ただし、センシティブな話題に触れるなら周到な準備が必要だ。しかるべき根拠を用意し、入念なファクトチェックをおこない、ユーモアを交えて叩かれるリスクを下げる。これくらいの自衛策を用意するのがプロだ、と安田氏は説く。きっちり自衛したうえで紛争地へ飛び込むか、そもそも紛争地を避けるか。表現の自由とは、前者を選ぶ覚悟のある人だけのものになったようだ。

現代日本における表現の自由は、残念ながらすべての人間には保証されていない。「プロ」の覚悟をちゃんと持っている人が、戦わないと得られない権利なのである。(p288)

 

幸せになる方法は科学的に解明されつつある──『「幸せ」について知っておきたい5つのこと NHK「幸福学」白熱教室』

 

 

幸せとは何か。どうすれば幸せになれるのか。これは古来、宗教や哲学の扱う問題だった。だが最近は違うようだ。『「幸せ」について知っておきたい5つのこと』によれば、近年は脳科学やロボット工学・心理学など用いて、幸福を科学的に研究する機運が高まっているという。科学的に幸福を探求する「幸福学」は、幸福感を得るためのシンプルな方法を、この本の読者に提示してくれる。

 

この本を読むと、幸福感を得るための「幸せのレシピ」は、それほどハードルの高いものではないことがわかる。第一章で紹介される幸せの材料は、人との交わり・ここにいること・親切の3つだ。「人との交わり」は良好な人間関係を結ぶことだが、これは「コーヒーショップの店員と笑顔で会話すること」程度でもかまわない。これなら今親しい人が周りにいなくても実行できる。

 

無作為に人に親切にすることも幸福感を高める。ただしこれにはコツがあって、1日ひとつだけ親切にするよりも、週に1日だけ5つの親切を実践するほうが幸せになれるそうだ。親切と対になるのが感謝で、日々小さなことでいいから感謝の気持ちをつづる日記をつけたグループは、普通の日記をつけたグループよりはるかに幸福感が高かったという。一日一善より週一多善のほうが幸せになれる理由が知りたいところだが、残念ながらそこまではこの本には書かれていない。

 

幸せのレシピの3つ目「ここにいること」は、目の前のことに集中すること。つまりはマインドフルネスだ。逆に、スマホなどを使用すると注意力が散漫になるので幸福感が下がってしまう。生活が便利になってもあまり幸福になった気がしないのはこのせいだろうか。実際、スマホのメールチェック1日3回に制限すると、1日何度もチェックするよりストレスが減るそうだ。我々は日々スマホを使っているのか、それともスマホに使われているのか、たまには見直したほうがいいかもしれない。

 

この「幸せのレシピ」のいいところは、実行する人を選ばないところだ。第三章で「幸福学のインディ・ジョーンズ」の異名をとるエド・ディーナー博士は「出身地や収入レベルは関係なく、すべての人が幸せになれる可能性を持っていると思います」と言っている。実際、宝くじで高額当選した人ですら、外れた人より並外れて幸せではないという調査結果もある。日本は1950年代にくらべてはるかに豊かになっているのに、日本人の幸福度はこの頃からずっと横ばいだ。お金はたくさんあったほうがいいが、幸せになるために大金持ちをめざしても当てが外れるかもしれない。

 

この本を読んでずっと感じていたのは、通俗的な道徳はおおむね正しかったのではないか、ということだ。他者に親切にせよ、日々小さなことに感謝するべきだ──といった道徳訓は、いかにも説教くさく聞こえる。だが、結局そうしたほうが幸せになれるといわれれば、こうした道徳を守る人も増えるかもしれない。この本の二章では「人のためにお金を使うと幸福度を上げられる」と書かれているが、決して豊かでないのに寄付をする人がいるのはこのせいではないだろうか。寄付をする人はそれが善行だからそうしているのだろうが、同時にそれが幸福感をもたらすことを経験的に知っているのかもしれない。善行には確かなメリットがあるのだ。

 

一方で、こんな疑問も出てくる。善行が幸せをもたらすのに、なぜ多くの人は寄付をしたり、それほど他者に親切にしたりしないのか。善行が得になると皆が知っているなら、わざわざ利他だの隣人愛だのを説く必要もないはずだ。糖や脂肪は脳に快楽をもたらすから、太るとわかっていてもなかなか摂るのをやめられない。これらの栄養素を求めるのは人の本能であって、摂ると気持ちよくなることを人はあらかじめ知っている。だが、善行が幸福感をもたらすことは、幸福学を学ばないとわからない。ということは、人の本質は善ではないのだろうか。幸福になる方法を考えるのは哲学から科学の仕事になったのかもしれないが、こうした人の本質について考えることは、まだ哲学の仕事なのかもしれない。

kindle unlimitedが2ヶ月99円キャンペーン開催中なので古典を読みたい人におすすめしてみる

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いきなり古典を直接読むのがハードルが高い場合は、100分de名著シリーズなどの入門書がたくさんあります。このシリーズでなくても各国の神話や宗教・古今の思想家・仏教の各宗派などについてはたいてい入門書があるので、興味のあるワードで検索してみるとよさそうな本が見つかることが多いです。

 

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中国哲学に興味のある方には徳間文庫の中国の古典シリーズがあります。論語韓非子のような有名どころから、管子や列子のようなマイナーな思想家まで収録されているので、諸子百家について知りたければまずここから入るのがおすすめです。

 

 

史記については徳間文庫から全8巻のシリーズが出ています。これは本紀や列伝・世家などを混ぜつつ読みやすく工夫されているもので、歴史小説を読むようなノリで読めます。古代中国について全く知らなければいきなり史記を読むのはけっこうハードルが高いので、まずこのシリーズで全体像を把握してから岩波文庫の列伝や世家などに入っていくのがいいかと思います。

 

史記もマンガ化されたものが読めます。こちらは全10巻。楚漢戦争呉越の戦い・李陵に刺客列伝ととりあげられる内容が若干偏っているようですが、古代中国史への入り口にはなります。本当は横山光輝版を無料にしてほしいところですが難しいか。

 

 

自己啓発書の古典もkindle unlimitedでは読めます。このジャンルの本ははあまり読みませんが、『人を動かす』にはリンカーンの面白エピソードが入っているので読み物としてもおすすめできます。16項「人をからかわない」には、若き日のリンカーンが人をバカにする手紙や詩を書いていて、決闘寸前にまで至った話が紹介されています。こんな事態に陥らないよう、接する人すべての「自己重要感」を大切にし、プライドを傷つけないようにするべきだ、とカーネギーは説いているのです。

 

 

信長公記』『神皇正統記』など歴史系書籍の現代語訳もたくさんあります。このジャンルでは戦国時代の雑兵の戦い方を記した『雑兵物語』が楽しく読めました。この時代では唐辛子は足の裏などに塗って暖めるために使っていたようです。槍兵でも鉄砲足軽でも弓兵でも、騎馬武者と戦う時は馬を狙えと書いてあるのも興味深いところです。

 

ほかにも面白そうな本がたくさんありますが、参考までに今まで読んだ古典や入門書についていくつか紹介しておきます。

saavedra.hatenablog.com

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【感想】逢坂冬馬『同志少女よ、敵を撃て』

 

 

本作の帯には桐野夏生の「これは武勇伝ではない。狙撃兵となった少女が何かを喪い、なにかを得る物語である」という一文が書かれている。「喪い」が先に来ているのは、この物語が大きな喪失で幕を開けるからだ。主人公のセラフィマはドイツ兵に生まれ故郷の村を焼かれ、母を殺され、外交官としてソ連とドイツの仲立ちをするという夢を失った。つまりセラフィマはすべてを失ったのだ。

 

生ける屍と化したセラフィマを鍛えることになるのが、凄腕の狙撃兵であり、鬼教官でもあるイリーナだ。セラフィマの母を敗北者と罵り、思い出の食器を次々と破壊するイリーナは、ドイツ兵にも劣らぬ冷酷な存在に映る。生きる気力を失っていたセラフィマを支えたのは、このイリーナへの怒りだった。ドイツ兵もイリーナも、敵はすべて殺す──この固い決意のもと、セラフィマは狙撃兵として成長していくことになる。

 

狙撃兵の訓練は大変厳しいが、セラフィマが得たものもある。仲間たちだ。お嬢様然とした雰囲気をたたえ、子供っぽい一面のあるシャルロット。カザフ族出身の寡黙な天才少女アヤ。一回り年上で母親のような優しさを持つヤーナ。ウクライナ人で能力は平均的だが、腹に一物ありそうなオリガ。これらの「同志少女」たちとともにセラフィマは訓練を積み、戦場へと臨む。当然ながら戦場は過酷で、全員が生き残れるわけではない。読者はこれらの女性狙撃兵の行く末に気を揉みながら、本作を読みすすめることになるだろう。

 

戦場での経験を積むほどに、セラフィマの狙撃兵としての力量はあがっていく。軍人としての経験と名声と地位とが彼女の得たものだが、引きかえに失ったものもある。狙撃兵は一種の戦争職人であり、その在りようはトップアスリートにも近いものがある。本作の表現を借りると、セラフィマは敵兵を狙い撃つとき、「心が限りなく空に近づく」ことがある。熟練した狙撃兵は戦場において集中力を極限にまで高め、ゾーンに入ることができる。だが銃の先にいるのは生身の人間である。その人間を、いつしかセラフィマは笑いながら撃てるようになっていく。彼女にとって狙撃したドイツ兵は、「スコア」を誇るための頭数になってしまうのだ。狙撃兵としての成長は、当たり前の人間性の喪失でもある。戦いを楽しむセラフィマを𠮟りつける看護師に「なぜ褒めてくれないの」と彼女が叫ぶシーンには、戦争の矛盾と哀しみが凝縮されている。

 

セラフィマが得るものと喪うものほか、本作において強烈な印象を残すのは、彼女が目撃する女性差別だ。あとがきにおいてロシア文学研究者・沼野恭子が記すとおり、本作はアレクシェーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』の証言に肉付けをし、物語としてのディテールを与えた作品とも評価できる。たとえば本作ではセラフィマたち女性狙撃小隊が基地司令の大佐に称賛されるシーンがある。だがこれは、敵前逃亡の罪を犯した兵士を処刑する前振りだ。逃亡兵は「女未満」の存在という屈辱を与えるため、セラフィマたちは持ち上げられたにすぎない。こうした女性視点からしか見えてこない戦場の理不尽さが、本作では何度も描かれる。極めつきは女性兵士の凌辱だ。戦場で敵側の女たちを慰み物にすることで、男たちは仲間意識を強め、結束を固める。戦争が人を獣にする現場を見たセラフィマが、その後どのような行動に出るのか。これは、本作におけるもっとも大きな見どころのひとつでもある。

 

『同志少女よ、敵を撃て』は、第11回アガサ・クリスティー賞を受賞した作品でもある。ふつうに読めばこの作品は戦記に分類されると思うが、ミステリ要素も確かにある。いくつもの顔を持っている人物が少なくないのだ。やはり注目すべきは狙撃兵セラフィマを育てたイリーナ・エメリヤノヴナ・ストローガヤか。突然の母の死に打ちひしがれるセラフィマに「お前は戦うのか、死ぬのか!」と怒鳴りつけた恐ろしげなこの軍人にも、実は知られざる一面がある。最後まで読みすすめれば、読者はこの鬼教官の真実の姿を目撃することになるだろう。そしてイリーナをイリーナたらしめた戦争の過酷さ、理不尽さに嘆息することだろう。戦争は人を人でなくするのか、それとも戦争もまた人間らしい営為のひとつなのか。そんなことをしばらく考えてしまうほど、本作は深い余韻を残す作品である。エンタメ作品としての質を保ちつつ、女性狙撃兵の視点から戦争の本質に切り込んだ傑作といえよう。

鬼はいつから退治できる存在になったのか──香川雅信『図説日本妖怪史』

 

 

平安時代、鬼は妖怪として最も恐れられる存在になっている。その証拠に、『今昔物語集』には数多くの鬼にまつわるエピソードが収録されている。だが『図説日本妖怪史』によれば、平安時代には鬼は退治できる存在ではなかったという。鬼は決まった姿かたちを持たない霊的存在であり、陰陽師はせいぜい占いによって鬼の到来を察知し、避ける方法を示すくらいしかできなかった。

 

今昔物語集』巻第二十四第十六話「安倍晴明、忠行に随ひて道を習ひし語」では、百鬼夜行に出会った陰陽師賀茂忠行が、術によって鬼たちから身を隠し、事なきを得るという場面がある。鬼たちと対決するわけでも、また呪的な力によって追い払うわけでもなく、ただ自分たちを見えなくすることによって難を逃れるのである。これは、陰陽師が「鬼」や「怪異」を避ける方法として指示することの多かった「物忌」の説話的表現と見なすことができよう。(p40)

 

平安時代において、人は鬼などの怪異に対して無力であった。だが保元・平治の乱を経て武士が政治を担うようになると、鬼などの怪物が退治される物語が創作されるようになる。「酒呑童子絵巻」では平安時代の武士・源頼光を怪物退治の英雄として描いているが、この物語は室町時代につくられたもので、平安時代にはこの物語は存在していない。

 

史実としては、九九四年に源満正や平維時などの武士が盗賊の捜索のため山々に派遣されたことが史料にみえる。これが酒呑童子退治の話へ昇華していったと考えられている。鎌倉時代の説話集『古今著聞集』には源頼光と四天王が「鬼同丸」という盗賊を討伐するエピソードが収録されているが、ここには盗賊退治が鬼退治の話になる過渡期の姿を見てとることができる。

 

武士は勇猛さをアイデンティティとして持つ存在であり、強さをアピールするために鬼などの怪物を退治するストーリーが求められていた。加えて鬼を退治した武士を祖先に持つ一族は、武家政治の正当性を訴えることもできる。酒呑童子を退治した源頼光摂津源氏嫡流であり、鬼退治のエピソードはそのまま鎌倉・室町・江戸と続く武家政権の支柱となる源氏の血統を讃えるものになる。現在知られている「鬼」は、武士により盗賊と同レベルにまで格下げされてしまった存在ということになる。

 

「鬼」という概念はもちろん盗賊に先んじて存在していたのだが、問題は、かつては人知を超えた存在であった「鬼」が、中世には盗賊に等しい存在にまで非・神秘化されてしまった、ということなのだ。それは「鬼」が概念としても「退治」されてしまったことを意味する。この後、「鬼」のリアリティは急速に失われ、「お話」のなかだけの存在、絵画や造形のなかだけの存在へとその位相を変えていく。現代の私たちが知っている「鬼」は、この「退治」された後のものなのだ。(p42)