明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

【書評】ウクライナ史を新書一冊で概観できる良書『物語ウクライナの歴史』

 

 

この本のまえがきでは、「ウクライナ史最大のテーマは国がなかったこと」というウクライナ史家の言葉を紹介している。多くの国家においては歴史最大のテーマが民族国家の獲得とその発展であるのに対し、ウクライナにおいては国家の枠組みなしで民族がいかに生き残ったか、が歴史のメインテーマになるということである。歴史上、ウクライナリトアニアポーランドロシア帝国オーストリア帝国ソ連など他国に支配されていた時期が長く、ためにこの本でのウクライナ史もこの地を征服した諸勢力の歴史と絡めつつ語られることになる。

 

とはいっても、ウクライナの地に興った国家もある。古くは10~12世紀にヨーロッパの大国として君臨したキエフ・ルーシだ。現在のウクライナの首都キエフを中心とするこの国家は、本書では「中世ヨーロッパに燦然と輝く大国」と紹介されている。事実この国はウラディーミル聖公時代にはヨーロッパ最大の版図を誇る大国であり、中世では珍しく商業が発展している国でもあった。ソフィア聖堂を建設するなど文化水準も高かったこの国は、その後のウクライナ・ロシア・ベラルーシの基礎をつくった。だがのちにモンゴルの侵攻などでキエフが衰退し、代わって台頭したモスクワ大公国がロシアを名乗りキエフ・ルーシを継ぐ正当な国家と称したために、ウクライナ史は「国がない」民族の歴史になった。

 

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ウクライナのゼレンスキー大統領はユダヤ系だが、ウクライナユダヤ人が多い理由はこの本の3章を読むと理解できる。ウクライナは14世紀半ばから17世紀半ばまでリトアニアポーランド支配下にあったが、ポーランド諸王はユダヤ人を保護し、自由な経済活動を保証した。モンゴル侵入後のポーランドを再建するため、外国人の移民が必要とされていたからである。ポーランドユダヤ人は荘園の管理人になり、また旅籠や居酒屋・粉ひき場などを経営し、農民の労働の成果を領主へ運ぶパイプの役割を果たした。ユダヤ人にとりポーランドは他国より住みやすかったため、ポーランドは一時期「ユダヤ人の楽園」といわれることもあった。

 

ウクライナがはじめて実質上の国家を持ったのは17世紀になる。ウクライナのコサック・フメリニツキーにより建国された「ヘトマン国家」はコサックの軍事組織を発展させ、平時の統治も行うようになったものと4章では解説されている。フメリニツキーはウクライナ史上最大の英雄ともいわれるが、ヘトマン国家存続のためにモスクワの庇護を求めたため、その評価は複雑だ。フメリニツキーがモスクワと結んだ保護協定は、ロシア・ソ連ウクライナの間で大きく評価が分かれる。ロシア側ではこの協定を、互いに統合を望んでいたロシアとウクライナの願望が結実したものと捉える。だがウクライナ側はこの協定は短期的な軍事同盟であり、ウクライナの運命をモスクワに託したものではないと考える。本書では「歴史的な事実関係を考えれば、ウクライナ側の解釈が妥当」としているが、「事後的に見れば、同協定がウクライナ史の転換点となり、ウクライナがロシアに併合される過程の第一歩となったことは否定できない」とも付け加えている。

 

ウクライナは穀倉地帯であることがよく知られているが、このことは周辺の大国の侵略を招く要因にもなっている。本書の6章では、ロシアの2月革命に乗じて建国された「ウクライ中央ラーダ」の独立が長続きしなかった要因について考察しているが、その一因としてウクライナの地理的条件をあげている。

 

第二の点は、ウクライナ自身がもつ重要性である。ボリシェヴィキらの左派であれ、デニキンらの右派であれ、ウクライナを面積・人口の面からも、工業・農業の面からもそれなしではロシアはやっていけない不可欠の一部と考えており、いかなる犠牲を払ってもウクライナをロシアの枠内にとどめておくとの固い決意があったと思われる。その点がフィンランドやバルト地域とは違っていたのであろう。豊かな土地をもつことの悲劇である。(p200)

 

中央ラーダの独立は短命に終わったが、現在のウクライナの国旗や国歌・国章はいずれも1918年に中央ラーダが定めたものを受けついでいる。ソ連時代にも中央ラーダの記憶はウクライナ人の間で生き続け、ソ連崩壊時の本格的独立として実を結んだ。国家を持てない期間の長かったウクライナ人には、わずかな期間でも独立を保った中央ラーダの歴史は貴重なものになる。

 

この本が出版されたのは2002年だが、8章でふれられているウクライナ地政学的重要性は、現在でも変わっていない。今ウクライナで進行しつつある事態とも関係する箇所を、最後に引用しておく。

 

ウクライナは西洋世界とロシア、アジアを結ぶ通路であった。それゆえにこそウクライナは世界の地図を塗り替えた大北方戦争ナポレオン戦争クリミア戦争、二次にわたる世界大戦の戦場となり、多くの勢力がウクライナを獲得しようとした。ウクライナがどうなるかによって東西のバランス・オブ・パワーが変わるのである。

フランスの作家ブノワ・メシャンは、ウクライナソ連(当時)にとってもヨーロッパにとっても「決定的に重要な地域のナンバー・ワン」といっている。またこの地域はソ連が思いもかけず崩壊して、いまだ安定した国際関係が十分できあがっていない。その意味でウクライナが独立を維持して安定することは、ヨーロッパ、ひいては世界の平和と安定にとり重要である。これはアメリカや西欧の主要国の認識であるが、中・東欧の諸国にとってはまさに死活の問題である。(p255-256)

 

平維盛は本当に憶病な武将だったのか

 

 

アニメ『平家物語』が6話で富士川の戦いを描いていた。この戦いで平家の大将を務めた平維盛はアニメ中では弟の資盛に「怖がり」と言われており、実際富士川の戦いでは源氏の大軍を前におびえる様子をみせている。舞を得意とする感受性の高さは、戦場においては不利な要素になる。

 

 

平家物語』での平維盛は、富士川の戦いにおいて水鳥の羽音に驚き逃亡したという、あまりにも有名なエピソードがある。平家軍が水鳥に驚き逃亡したことは『山塊記』にも書かれていることで、平家物語の創作ではない。富士川の戦いの実相はどんなものだったのか。これを知るために、まず当時の戦争の常識を理解する必要がある。『頼朝と義時 武家政権の誕生』では、平家の軍隊の構成についてこのように解説している。

 

10世紀以降、地方反乱に対して京都から追討軍が派遣されても、追討軍は実質的な戦力として十分に機能せず、現地勢力が奮闘することが多かった。現地勢力が反乱軍を鎮圧してしまい、追討軍到着の前に決着がつくことすらあった。平将門を討ったのも下野の豪族であった藤原秀郷である。

平家による軍事作戦も、この伝統に忠実であった。清盛は全国各地で発生する反乱に対し、まず現地にいる「私の郎党(平家)」が打撃を与え、総仕上げとして追討使を派遣するという方針を採っている(『玉葉』)。朝廷の命を受けた追討軍の派遣は、現地勢力の士気を高め、反乱軍を動揺させることが目的だった。(p71)

 

この通りだとすれば、本来維盛軍は源氏を討伐するメインの軍事力ではなかったことになる。地形など現地の事情をよく知っている地元の平家家人が源氏に一番よく対抗できるはずだった。だが、橘遠茂など現地の平家方は、維盛軍が到着する前に甲斐源氏に殲滅させられていた。この時点で、維盛軍の前途は暗いものとなってしまう。富士川に到着した時点で、維盛にはほぼ勝ち目がなくなっていた。

 

富士川の西岸に陣を張った追討軍の状況は絶望的だった。ただでさえ飢饉による食糧不足で士気が低下しているところに鉢田合戦の敗報が届くと、強制的に動員した兵の多くは四散し、京都から付き従っていた平家家人ら四千騎しか残っていなかった。着陣後も数百騎が武田方の陣営に投降するなど兵力の減少は続き、一千~二千騎という惨状に陥った。東岸に展開する武田勢は四万以上と言われており、とても勝負にならなかった。侍大将の伊藤忠清が総大将の平維盛に撤退を進言し、追討軍は戦わずして退却した(『玉葉』『吉記』)。(p74-75)

 

 

この状況では大将が誰でも勝てるはずはなく、撤退した維盛を責められないように思える。そもそも維盛は伊藤忠清の助言に従っただけなのだから、彼がことさらに憶病な大将だと評価することはできないはずである。それどころか、維盛は戦う意欲があったという指摘もある。『平家の群像』にはこう書かれている。

 

維盛自身は、「あへて引退すべきの心なしと云々、しかるに忠清次第の理を立て、再三教訓し、士卒の輩、多くもつて之に同ず、よりて黙止する能はず」(『玉葉』治承4年11月5日条)と伝えられており、敗軍のなかで健気にも戦意を失わなかったらしい。(p114)

 

維盛にも平家の大将としての責任感はあったということだろうか。維盛の実像は『平家物語』で描写されているものとは異なるようだ。この後、維盛は源氏との戦いにおいて武功もあげている。再び『平家の群像』から引用する。

 

また史料に見えるように、あげた首の数からいえば維盛は重衡に次ぐ数である。主力にふさわしいまずますの戦果をあげたことになろう。ところが『平家物語』でも後出の語り本系になると、維盛像は武将としての無能さ、女々しさというマイナスイメージが付着してくる。この戦闘でも維盛軍の参戦の事実を意図的に削っている(重衡もだが)。そのようにしてつくられた人物像は、維盛にとって不本意であろう。(p121)

 

これは墨俣合戦における維盛の武功の話である。維盛は重衡と並ぶ活躍を見せていたのであり、ここでも臆病者というイメージは維盛にはあてはまらない。維盛は貴族化した平家vs荒々しい源氏の坂東武者、という図式化された構図の犠牲者というべきだろうか。維盛が絶世の美貌を持ち、立ち居振る舞いが優美であったことは事実だったため、文弱の貴公子に仕立て上げるには格好の素材だったのかもしれない。

キエフ・ルーシ公国の後継者はウクライナかロシアか──黒川祐次『物語ウクライナの歴史 ヨーロッパ最後の大国』

 

 

 

ウクライナ情勢が緊迫していることもあり、『物語ウクライナの歴史』もまた注目を浴びているようだ。この本はあまり他の書籍で取り上げられないキエフ・ルーシ公国に一章を割いている貴重な本で、日本ではあまり知られていないこの大国の歴史の入門書としても使える一冊になっている。

 

一言で「ウクライナの歴史」といっても、どこまでをこの国の歴史に含めるかについてはロシア側とウクライナ側で見方が異なる。もっとも大きな問題はキエフ・ルーシ直系の後継者はロシアとウクライナのどちらなのかだ。キエフ・ルーシ公国はこの本によれば「中世ヨーロッパに燦然と輝く大国」であり、ウラディーミル聖公時代にはヨーロッパ最大の版図を誇った。ウクライナの首都キエフを中心に栄えたこの国は、ウクライナ史にどう位置づけられるのか。

 

ロシア側の言い分はこうである。キエフ公国の滅亡後、ウクライナの地はリトアニアポーランドの領土となり、国そのものが消滅してしまって、継承しようにも継承者がいなくなってしまった。これに対し、キエフ・ルーシ公国を構成していたモスクワ公国は断絶することなく存続して、キエフ・ルーシ公国の制度と文化を継承し、その後のロシア帝国に発展していった。これからみてもロシアがキエフ・ルーシ公国の正統な後継者であることにはいまさら議論の余地はない。(p26)

 

このロシア側の主張に対し、ウクライナ側は以下のような見方をしている。

 

ウクライナナショナリストの言い分はこうである。モスクワを含む当時のキエフ・ルーシ公国の東北地方は民族・言語も違い、ようやく16世紀になってフィン語に代わってスラヴ語が使われるようになったほどであった。15世紀のモスクワは、キエフ・ルーシ公国の支配下にあった非スラヴ諸部族の連合体であり、キエフ・ルーシ公国の後継者とはとても言いがたい。また過酷な専制中央集権のロシア・ソ連のシステムはキエフ・ルーシ公国のシステムとはまったく異なり、別系統の国である。キエフ・ルーシ公国の政治・社会・文化は、モンゴルによるキエフ破壊(1240年)後も1世紀にわたって現在の西ウクライナの地に栄えたハーリチ・ヴォルイニ国に継承された。(p26-27)

 

『物語ウクライナの歴史』ではいずれの見方が正しいとも書いていないが、ウクライナにとっては、キエフ・ルーシ公国の正統な後継者であるかどうかは重要な問題になる。それは自国が1000年前からの栄光の歴史をもつ国か、それまでロシアの一地方だった新興国かという、国家のアイデンティティにかかる問題だからだ。なおウクライナの史家マトシェフスキーはハーリチ・ヴォルイニ公国は最盛期には現ウクライナの九割の人口が住む地域を支配しており、「最初のウクライナ国家」だとしている。

 

この本の二章を読むだけでも、キエフ・ルーシ公国の魅力はよく伝わってくる。農村社会だった西欧に対し、キエフ・ルーシ公国は商業が発展していて、総人口の13~15%が都市に住んでいた。スヴャトスラフ征服公やウラディーミル聖公・ヤロスラフ賢公など優れた君主が多数存在し、ソフィア聖堂などの荘厳な建築物も残している。キエフの人口はモンゴルに占領された時点では35000人~5万人と推定されているが、これは当時のヨーロッパでは最大級とされている。ウクライナがこれほどの大国の後継者だと考えたくなるのもうなづける話ではある。

山田風太郎『人間臨終図鑑』で知る「かわいそうセンサー」の反応する場所

 

 

中年男性が過労死しても顧みられないのは「かわいそうランキング」が低いからだ、といわれることがある。一般論としてはそうかもしれない。だが、山田風太郎『人間臨終図鑑』を読んでいると、中年男性の死でも気の毒に思えることが多々ある。そりゃ有名人だからだろう、と思うだろうか。でも有名人の死なら誰でもかわいそうだと思えるわけではない。気の毒かどうかは死んだ状況、死に方によるのだ。『人間臨終図鑑』は年齢別に古今東西の有名人の最期をひたすら並べている本だが、これを読んでいると自分の「かわいそうセンサー」が何に反応するかがよくわかる。

 

一般論として、やはり若者の死のほうが同情されやすいことは否定できない。この本を読んでいても、10代や20代での死はおおむね悲劇的だと感じる。若すぎる死と感じられる上限はぎりぎり30歳くらいだろうか。義経がちょうどこの年で没している。これはやはり悲劇だ。31歳を超えると中年という雰囲気が出てくるので、悲劇性はしだいに薄れてくる感じがある。

 

とはいっても、「かわいそうセンサー」が反応する最期なら、31歳を超えていても同情はする。私の場合、才能ある芸術家が世に認められる前に逝ってしまう、という場合は特に同情してしまうようだ。30代ならシューベルト(31歳)、モディリアニ(36歳)、ゴッホ(37歳)など。同じく37歳で逝ったロートレックも生前は偉大な画家とは思われていなかったから、ここに数えてもいいだろうか。これらの人物に同情しない人もいるに違いない。芸術家などという不安定な職を選んだのだから自業自得だ、と思う人もいるだろう。万人の「かわいそうセンサー」に訴える最期などない。

 

比較的若くして死んでいても、革命家的な人物の場合、私の「かわいそうセンサー」は反応しない。坂本龍馬32歳、ダントン35歳、ロベスピエール36歳。死ぬにはまだ若い年齢だが、命を燃やし尽くしたんだから認められなかった芸術家よりいいだろう、なんて思ってしまうのだ。彼らだってもっと生きたかったはずなのに、こんなことを考えてしまうのだから勝手なものだ。政治にかかわりたいと思ったことがないから同情できないのだろうか。このように生きたい、と思えない人物にはあまり感情移入できない。

 

『人間臨終図鑑』は、wikiで有名人の最期を無料で読める現代においては、出版当時よりもその価値は下がっているのかもしれない。それでもこの本を今読む意味があるとするなら、それはどんな最期に感情を動かされるのか、を知ることができる点にある。有名人の最期をたくさん知ったところでそれ自体は雑学にしかならないが、人の最期を通じて自分自身が見えてくるのはなかなかおもしろい。通読すれば、意外な人物に心動かされている自分を発見して驚くこともあるかもしれない。

kindle unlimitedを2ヶ月使ってみた感想とおすすめ本

kindle unlimitedを去年の11月9日から使いはじめて2ヶ月になろうとしている。2ヶ月299円の価格につられて試してみたサービスだが、100分de名著シリーズや光文社新訳の古典がたくさん読めること、新書もけっこう幅広く読めることなどが魅力で、最初の1ヶ月くらいはこれらの本を読みあさっていた。

 

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結果として、それまで何となく読んでしまっていたネット上の議論や揉め事などを見る時間が激減し、かなりストレスを減らすことができた。ある意味デジタルデトックスにもなっていたわけで、時間を有意義に使う、という意味でも役に立つサービスではないかと思う。

 

ただし、1か月を過ぎるころから徐々に飽きてきた。読める新書に新しいものはあまりないし、古典はじっくり時間をかけて紙の本で読みたいのでkindleで読む気があまりしない(これは人によるだろうと思う)。100分de名著シリーズのような入門書的な本がたくさん読めるのはいいが、私は興味の幅がそれほど広くなく、仏教やギリシャ哲学関連の本数冊を読んだら満足してしまった。

 

 

漫画で読める名著がたくさんあるのはいい。中でも『ソクラテスの弁明』はほぼ原作とおりなうえ、『パイドン』の一部も入っているのでお得。まんがで読破シリーズでは『神曲』『死に至る病』『エミール』などを読んだ。漫画ではほんのさわりくらいしかわからないかもしれないが、それでも入門書としては役立つ。『死に至る病』は思想部分にはあまり惹かれなかったが、キェルケゴールの苦悩に満ちた人生そのものが物語として成り立っていた。

 

 

kindle unlimitedは結局サブスクなので、各分野の入門書的な本をつまみ食い的にたくさん読むのに一番向いているのだと思う。逆に専門書的な者はあまり読めないので、なにかを深く知りたい人には向かない。といっても例外はあり、このサービスでは『新アジア仏教史』を全巻読むことができる。仏教史について知りたい方はこれを読むためだけに使ってみてもいいかもしれない。

 

 

歴史好きな人にとっては、『信長公記』『神皇正統記』などの現代語訳が読めるメリットもある。歴史系の古典では『雑兵物語』が抜群に面白く、弓兵も槍兵も鉄砲足軽も、騎馬武者と戦うならまず馬を狙えと書かれている。「将を射んと欲するなら……」はやはり正しかったのだろうか。唐辛子を身体に塗れば暖まるが、その指で目を触るなといった生活の知恵まで書いているのが楽しい。

 

 

マンガや自己啓発書はあまり読まないので、これらが読みたい人とってのkindle unlimitedの価値はよくわからない。ただ、著者に興味があったため読んだ『地平線を追いかけて満員電車を降りてみた』はいい本だった。その願望は本当の願望なのか、をひたすら内観していくこの内容は、ある意味アンチ自己啓発ともいえるかもしれない。個人的には紀里谷和明氏がこのような本を書いていることが驚きだった。

 

これまで紹介した本以外にも、kindle unlimitedで読めてよかった本は少なくない。以下、そのうちの数冊を紹介する。

 

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いつもの永田カビ、といわれればそれまでだが、理解あるパートナーが現れなくても幸せにはなれるらしい……というわけで、その種の展開が苦手な人にも安心して読める内容。

 

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悪人正機説は何も突飛なことを言っているわけではないことがよくわかる一冊。そもそも「善人」「悪人」の定義が我々の考えるそれとは全然違っていたのだ。親鸞があくまで仏教における「悪人」(=煩悩まみれで自力で悟りを開けない人)に寄り添っていたことがよくわかる内容だった。

 

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やはり読むべき古典はある、と思い知らされた一冊。ストーリー自体はよく知られたものであっても、格調高い文章に触れる意味はある。古代ギリシャの息吹は原典に近いものでなければ感じにくい。

 

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これ以上ないくらいわかりやすい初期仏教の入門書。なぜ仏教では悟りを開いて輪廻からの解脱をめざすのか、古代インド人の思想を紐解きつつていねいに解説してくれている。これを読んで初めて「諸法無我」の意味が理解できた。

 

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なぜカルトから抜け出すのが難しいのか、がよくわかる漫画。カルトには独特の「承認の場」があり、自分が特別にな人間になったかのような感覚に浸れる。この味を覚えたら容易には外の世界に出られない。幸運も手伝ってようやく世間に戻れた著者の戸惑いや恐怖もよく描かれていて、自由であることの困難さを思い知らされる。

 

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江戸初期のキリシタンたちがいかに弾圧に抗し、信仰を貫いたかを記した本。捕まれば火刑になるとわかっているのにみずから名乗り出て、殉教したがる日本人の信仰心の強さにはただただ驚かされる。信仰を捨てた武士を臆病者と罵ったという、家康の意外なエピソードも知ることができる。

 

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古今東西の有名人の臨終のようすを年齢別に並べている本。歴史上の人物については淡々とした記述になっていることも多いが、近代以降の人物については詳しく書かれている。どんな死に方に同情できるかで自分の価値観が浮かび上がってくる一冊。

 

kindle unlimitedは30日間無料体験できるので、無料期間中にこれらの本以外にも面白そうな本は探せるのではないかと思う。30日では読みきれないほどよさそうな本がたくさんあったら継続すればいいのではないだろうか。

 

【書評】秦の軍事制度から古代中国の性差まで多彩な論文を収録した『岩波講座世界歴史05 中華世界の盛衰』

 

 

今年10月から岩波講座世界歴史新シリーズの刊行がはじまった。刊行二冊目になる『中華世界の盛衰 4世紀』では、殷から西晋末にいたるまでの中華世界およびその周辺世界を扱っている。通史を扱っているのは『「中華帝国」以前』『漢帝国の黄昏』『漢人中華帝国の終焉』で、ここを読めば古代中国の通史について一通りおさえることができる。

 

この本は全体として辺境を意識したつくりになっていて、『漢人中華帝国の終焉』では後漢の西北辺境を守備した「西北の列将」がこの時代、国家を支える人材として厚遇されたことを説く。『楽浪と「東夷」世界』『漢晋期の中央アジアと中華世界』では中国東西の辺境世界についてそれぞれ概観し、『漢魏晋の文学に見られる華と夷』では李陵や王昭君など夷狄の地に送られた人物と文学の関係について論じている。このため中国だけでなく周辺世界について知りたい読者にもおすすめできる。

 

この本に収録されている『軍事制度から見た帝国の誕生』は、なぜ秦が他の戦国六国を征圧できたかを考えるうえで役に立つ。荀子は秦について「民は軍功をあげる以外に国から利益を得る方法がない」と指摘していたが、この論文は秦の軍功報奨制度を概観しつつ、荀子の主張を裏づけていく。秦では敵の首級をひとつあげると爵一級が与えられたが、一級でも爵位を獲得すると支給される耕地の面積が増やされた。爵位は子孫にも継承されるためこれを得るメリットが大きく、兵士を戦場で勇敢に戦わせるうえで役立っていたと解説されている。

秦では兵役や徭役労働も細かく整備されている。重要なのは秦では物資輸送など、徭役労働にまず動員されたのが刑徒だったことだ。刑徒を徭役に用いれば生産活動を阻害しない。もちろん刑徒だけでは労働力が足りないが、一般人民を服役させるときは農繫期には富者・農閑期には貧者を派遣するなどして生産活動を安定させる配慮がなされている。荀子が称賛した軍功報奨制度は、こうした制度と連動して機能していたとこの論文では結論づけている。秦が刑徒労働に頼ることができたのは、それだけ秦の法が過酷だったからなのだろうか。

 

岩波講座世界歴史の新シリーズはジェンダーにも焦点を当てることが特色だが、この巻では『礼秩序と性差』でどのように古代中国における性差が形成されてきたかを解説している。この論文によると、古代中国における男女の差異を強調しているのが『春秋左氏伝』荘公二十四年で、ここでは「男女の別は国家の大いなるけじめ」と記されている。春秋時代においてすでに、両性を分ける思考は存在していたことになる。「男女の別」は『礼記』にもみえるが、男女の区別を軽んじることが国家や社会の混乱につながるという考え方が儒家の礼理念のなかにあらわれていることがわかる。

儒家の考える「男女の別」の中身は、結婚観に最もよく見てとることができる。『礼記』では妻が夫に従うべき存在であると明言している箇所があるが、これが婚姻における「男女の別」になる。妻は家を存続させるため出産の役割を期待され、そこでは個人より家の論理が優先される。こうした男性優位の文化は二里頭文化の時代にすでに存在していたようだが、戦国時代には西周時代に比し、夫の墓に対して妻の墓が小さくなるなど、さらに男女の差異が大きくなっていった。『礼記』は戦国時代から前漢時代にかけて成立した書物なので、この時代の男性中心的な価値観が反映されていることがわかる。戦国時代は人材が諸国間を移動するダイナミックで自由な時代というイメージがあったが、性差という点からみると窮屈な点もあり、この論文を読んで少し印象を新たにした。

【書評】呉座勇一『頼朝と義時 武家政権の誕生』

 

 

本書の特徴をかんたんに言うと、「公武対立史観にとらわれない歴史叙述」になる。公武対立史観とは、公家と武家の対立関係を宿命的なものとみなす歴史観のことだ。この史観に立つと、治承・寿永の内乱や承久の乱は「朝廷に対する武家独立戦争」になるが、事実はそう単純ではない。源頼朝は貴族社会の一員だったため朝廷には妥協的な一面があり、鎌倉幕府成立以後も公家は武家に対して優勢だった、というのが著者の見方だ。武士の全国支配が確立されるには承久の乱を待たねばならない。承久の乱において鎌倉幕府の指導者は北条義時なので、「武家政権の誕生」を叙述するには頼朝と義時をセットで語る必要がある。

 

公武対立史観を離れた頼朝像とはどんなものか。第四章を読むと、頼朝が征夷大将軍の位を求めたのは、御家人との関係を人格的結合から制度的結合に移行させるため、と書かれている。御家人の統制のために征夷大将軍の権威が必要だったのであって、東国独立構想に基づいて将軍位を求めたわけではない、という解釈だ。

また、この章では頼朝が娘の大姫を後鳥羽天皇に入内させる計画を進めていたことにもふれている。これは平清盛同様、天皇外戚として権力を振るおうとする失策と評価されたことがあった。だが著者は、そのような見方は「頼朝は朝廷から独立した武家政権の確立をめざしていた」という先入観からくるものと指摘する。この当時、頼朝の最重要課題はみずからの家を源氏嫡流として復興することであり、そのために鎌倉将軍家の家格を上昇させる必要があった。大姫入内計画もその一環ということである。頼朝自身は「王家の侍大将」という自意識を生涯持ち続けており、「頼朝の政治構想は、他の武家の棟梁たちのそれに比して、抜きんでて画期的、斬新だったとは思えない」というのが著者による政治家・源頼朝の評価になる。

 

この頼朝から政治手法を学び、北条家の覇権を確立していったのが義時である。義時の人生のハイライトはもちろん承久の乱だが、第八章における「承久の乱の歴史的意義」には興味深い記述がみえる。幕府は京都を制圧したのち、後鳥羽院の王家領荘園をすべて没収しているが、幕府はこれをわがものとせず、後高倉院に進上しているのである。この事実をもって、著者は「幕府は、院政や荘園制といった既存の政治・社会体制を否定しなかった。その意味で承久の乱は『革命』ではない」と結論づける。これは、承久の乱を革命と位置付ける大澤真幸氏への批判でもあるだろう。ここでも公武対立史観は注意深く退けられている。もちろん後鳥羽院に勝利したことにより、鎌倉幕府が全国政権に成長したことはきわめて重要だ。だが、義時も頼朝同様、朝廷との共存をはかっていたことにも目をむける必要がある。

 

本書では頼朝と義時の人柄についても考察が加えられている。二人とも戦場での華々しい活躍がなく、権謀術数を駆使したため、どこか冷酷な印象もある。だが、彼らの行動については当時の政治的状況のなかで考える必要がある。頼朝が義経を討伐し、範頼まで粛清したのは、著者によれば後継者問題が背景にある。嫡男の頼家がまだ幼いため、ライバルになりえる義経や範頼を排除したというわけだ。もともと頼朝は一介の流人であり、東国武士の神輿の上に乗っているだけの存在だった。そんな頼朝が猜疑心の強い人物になるのは当然であり、立場を守るため粛清をくり返したのもやむをえない、と本書では指摘される。孤独な境遇が頼朝の政治力を鍛えたということになるだろうか。なお、頼朝は弱小武士や僧侶など、利害関係のない相手には優しい一面もあったという。

 

義時の人物像は頼朝にくらべはっきりとしないが、「陰謀家」のような印象もある。実朝暗殺について、義時が黒幕だと古くから言われてきたからだ。『吾妻鏡』によれば実朝が鶴岡八幡宮に参拝する直前、義時は体調不良を訴え、自宅に戻っている。この後実朝が暗殺されたことを考えると、確かに義時は怪しく思える。だが著者は『愚管抄』の記述がより信憑性が高いと考え、実朝の指示によって中門付近に控えていたのが真相だと指摘する。義時と実朝の間に深刻な意見対立はなく、義時が実朝を暗殺する動機はない。義時を「冷酷な策謀家」とする通俗的な見方は、ここでは慎重に退けられている。著者がまえがきで記すとおり、冷酷なだけの人物は人の上には立てない。頼朝同様、義時もまた政治姿勢が時代の要請に合っていたからこそ権力を握ることができた、という本書での評価は、おおむね公平なものと思える。

 

本書は偉人伝の体裁で書かれていないので、英雄物語を求める向きにはあまりおすすめできないかもしれない。だが『吾妻鏡』によりつくられた頼朝や北条一族の虚像を修正しつつ、諸説を検討しながら何が史実かを慎重に追っていく叙述スタイルは堅実で、信頼がおけるものと思う。史実を追求すると時には身も蓋もない現実をまのあたりにすることになる。壇ノ浦での義経の勝因は漕ぎ手に矢を射かけたためではなく、単に兵力で勝っていたからとの見解も知ることができる。こういう、英雄の生身の姿を知りたい方には間違いなく本書はおすすめできる。文章も読みやすく、治承・寿永の乱から承久の乱にいたるまでの重要な出来事はすべておさえているので、この時代の政治史を知るうえでは格好の一冊といえる。

 

なお、この本のあとがきには呉座勇一氏の「反省の弁」が載っている。氏が大河ドラマ降板に至った経緯を考えるといろいろ思うところはあるものの、この文章は本心から出たものと受け止めたい。